第一章②
村崎邸の寺院のような巨大な門から少し離れた路地にタクシーは止まった。スズは料金を払って、領収書を貰ってタクシーから降りる。暖房の効いた車内から出ると、体が震えた。雪は足跡が出来るまでに積もっている。スズは門まで歩く。黒いスーツ姿の背の高い男が門の両脇に立っている。サングラスに、オールバック。スズを見つけると重たい扉を押し開けた。男はとてもジェントルにスズに笑いかける。男の名前は辻野。年はきっと二十代後半くらい。
「寒いところ、ようこそ、若頭」
スズは「いー」と辻野を睨んで声を変えて言った。「若頭じゃないやいっ」
彼がスズのことをそう呼ぶのは、高校の学園祭の時代劇のせいだ。スズは江戸時代の特別な力を持った武装集団の若頭を演じたからだ。それを見に来ていた村崎組の怖い顔をした男たちはスズの若頭を絶賛して拍手した。ちなみにメグミコは若頭に想いを寄せる薬屋の魔女。最終的に二人は結ばれる。
「あなた以外に村崎組の若頭が務まるとは思いません、いつ正式にいらしてくれるんです?」
「まさか、冗談言ってる?」スズは可愛い顔で笑う。
「本気です、」辻野はニッコリと笑う。サングラスの奥の目は果たして笑っているのかいないのか。「スズさんがお嬢と結婚していただければ、村崎組の未来は順風満帆です、二人とももう、十六歳だ」
「メグは?」スズは辻野の冗談を無視して聞く。
「自室に」
「ありがとう」
スズは門を潜った。広がる村崎邸の芸術的な庭園。その庭園を雪が白く染めている。池を泳ぐ鴨のくちばしに雪が積もる。石畳の上を歩いて玄関まで歩く。ベルを鳴らして、扉を横にスライドさせる。ガラガラと音が鳴る。
「おじゃましまーす」靴を脱いで上がる。村崎組の可愛いメイドが来るまで広く天井の高い玄関の壁に飾られた雷鳥の絵画を見て待つ。
「スズ、とても会いたかった、」紫色のフリルの少ないシンプルなデザインのメイド服を着て現れたのはメイドさんじゃなくてメグミコだった。メグミコはパジャマ代わりにメイド服を着ていることが多々ある。一日中寝ていたのだろうか。濃い紫色の髪はところどころ乱れている。メグミコはスズのためにモコモコのスリッパを用意する。それを履くとメグミコはスズをハグする。「外は寒かったでしょ、私が温めてあげるね、えへへっ」
「アンナさんは?」スズは聞く。アンナは村崎組のメイドでとても色っぽい美人だ。
「どういう意味?」メグミコは唇を尖らせる。メグミコはきっと可愛いと思ってスズにそういう唇をするのだろうが、普通に笑っている方がずっと可愛い。一応スズの初恋の相手なのだ。それは未来には必要のない事実だが、あるときには大切にしておきたいこと。「私に温められたくないって言うの?」
「そういう意味じゃなくて、」スズはメグミコの紫色の髪を整えながら言う。「なぁに、今日もずっと引きこもってエロゲしてたの? 週休五日ってどうかと思うよ、顔も洗ってないでしょ、目やにが付いてるよ」
「違うよ、スズ、いや、確かにエロゲもしてたけどぉ」
「メグのバカ、エッチ、浮気もん、」スズはメグミコに軽蔑の目を向ける。「私というものがいながら、ホント信じられない」
「う、浮気って、違うよ、た、ただのゲームだし」
「そういうことは部屋のポスタと抱き枕を焼却してから言ってね、」スズは軽蔑の目のままメグミコの額を撫でる。「特定のキャラに熱を上げているのは分かっているの、これを浮気と言わずなんと言う」
「……ごめん、」メグミコは元気のないチワワみたいな目をする。「ごめん、スズ、でも、燃やすのだけは、……ご勘弁」
「冗談だよ、」スズはメグミコに微笑みかけてキスした。「恋人の大切なものを奪うなんて真似しないよ、いくら私が魔女でも」
「恋人、素敵な響きね、ふふっ、」メグミコはもう一度キスをせがんだ。スズはキスする。唇を離す。メグミコは上機嫌に微笑んでいる。スズも微笑む。そして、メグミコの笑みが急に凍った。「……ねぇ、今度は誰とキスしたの?」
「え? メグ、何言ってるの?」スズの心臓はどっと震えた。背中に冷や汗が流れる。
「甘い、チョコレートの味がする、」メグミコはスズの唇を指で触る。指を舐める。声色がヒステリックに変化する。ああ、メグミコは完全に頭に血が昇っている状態だ。「スズのバカ、エッチ、浮気もん、本当に、本当に信じられないっ!」
メグミコは叫んで、目元をダークにして、スズを睨む。そしてスズに足を掛けて強い力で押し倒す。
「メグ、その、落ち着いて、なんのことだか分からない」
「落ち着いているよ、私は、とっても、」メグミコの紫色の髪の毛の輪郭が発光し始めた。メグミコは雷を編んでいる。何かを指折り数えている。「これで、これで、スズに浮気されるのは六十八回目ね」
「ココは室内よ、メグ、」スズは銃を突き付けられたみたいに慌てた。メグミコの魔法を浴びるのは嫌だ。とても痛いから。きっとスタンガンよりも痛い。「メグ、止めて、ごめん、ごめんなさい、も、もう二度としない」
「その台詞も何度目だろう」
「今日は寒かったから」
「なんの言い訳してるの?」
メグミコは親指と人差し指でピストルの形を作った。人差し指の先に小さなプラズマが発生する。空気が騒がしくなる。メグミコはそれをスズのこめかみに近づける。「もう浮気されるのは嫌、我慢できない」
「ゆ、許して、お願いだから、」スズは涙目で訴える。「お願い、ライトニング・ボルトは嫌、駄目、止めて」
「許さない、」メグミコの目は怖い。爬虫類の目。恐竜の目。「絶対に許さない」
メグミコのプラズマがスズのこめかみに近づく。迫りくる恐怖にスズは本格的に涙を流した。目を思いっきり瞑って叫ぶ。昔同じような体験をした。初めての予防接種。スズは泣きじゃくってママを困らせた。「嫌あああああああああああああああああああああ!」
ライトニング・ボルトは嫌。
痛い。
痛い。
痺れる。
痛い?
あれ?
まだ?
スズは薄目を開ける。メグミコは優しい目をしていた。そして目を半月にして笑う。「あははっ、冗談だよ、スズ、あー、本気で怖がっちゃって、可愛いんだから」
「ふえ?」
「私、怒ってないよ」
「ほ、本当?」
「うん、浮気されるのもう六十八回目だよ、いい加減慣れたよ、もうそれが、浮気するのがスズのキャラクタなんだもんね、いい加減理解したよ、うん、認めました、考えてみたら、私はそんなスズが好きなんだもん、私を苦悩させるのもスズなんだもんね、」メグミコはなんだか大人みたいなことを言ってスズの頬を優しく叩いた。「ほら、立って」
「う、うん、」スズは恥ずかしかった。思いっきり泣き虫なところを見られて恥ずかしかった。立ち上がって恥ずかしさを誤魔化すように笑う。でもきっと顔はピンク色だから誤魔化しきれない。メグミコは大人びた優しい表情でスズの手を触る。幼馴染の顔はとても慈愛に満ちている。なんでも許してくれそうな気がした。だからスズは調子に乗ってしまった。「ねぇ、つまり、その、メグはコレから先、私が浮気しても怒らないってことだよね」
「うん、そうだよ」
「本当?」
「うん、嘘はつかない」
「え、だったら、」スズはテンションが上がって仕方がない。「じゃあ、メグに内緒で浮気しなくてもいいってこと?」
「うん、そうだよ」メグミコはニッコリと頷いた。
「やった、ありがとう、メグ」スズは未来の女の子たちのことを考えていた。
「でも、スズ、勘違いしないでね、」メグミコはスズの右手を両手で触った。そして強く握って離さない。「信じられないくらい不愉快なことには変わらないんだからね」
「え?」
恐怖を感じたのは遅かった。
次の瞬間。
「ぎゃあああああああああああ!」
幼馴染のライトニング・ボルトに痺れた。
メグミコは魔女の表情で、愉快に笑う。