第三章⑥
午前九時を過ぎるとピンク・ベルに何人かの女性客が訪れた。電話も鳴る。そのほとんどの方の用件が、マリとベニ、どちらかと十二月の寒い空の遊覧飛行を楽しみたいというものだった。キャブズ本来の仕事を依頼してくるお客様はガールズ・オンリィのピンク・ベルには皆無である。カノン目当ての女性客も皆無である。昔から、どういうわけか女受けが良くない。よってくるのは変な男ばかりだ。カノンは予約をしていない女性には「予約がいっぱいなんですぅ」と高い声を作って言って断り、予約を申し込んでいた女性に対しては「ノロウィルスなんですぅ」と高い声を作って断った。掛かってくる電話の応対も面倒なので、午後までの予約リストに眼を通し、こちらから断りの電話を入れた。
そんな嫌な仕事をしながら、カノンは跡見の恋愛に関する考察を聞いていた。いや、聞こえていたという方が正しい。カノンは耳に当てていた受話器を置き、溜め息をつく。「……ああ、彼女、欲しいなぁ」
「え、なんだって?」
「……なんでもないっす」
この前、カノンにキスしてくれた彼女のことを思い出す。限りなく、いい雰囲気だったと思う。それは確か。でも、電話に邪魔されて。そう、誰かの電話のせい。電話のせいなのだ。電話がなかったら、あのまま愛しのスズちゃんとスプラッシュだったのに。
「機嫌が悪いね、どうしたの?」
カノンは跡見を睨んで言う。「……今日の予約客には全員電話を入れておきました」
「素晴らしい仕事ぶりだ、」跡見は薄ら笑っている。「……雪緒君にも?」
「あいつはどうだっていいんです」雪緒というのは本日唯一の、カノンの予約客のことだ。
「機嫌が悪いね」
「ベニちゃんもマリちゃんもどんな魔法を編んでいるんだろう」カノンはつぶやき頬杖つく。
「何、いきなり?」
「なんで私ばっかり」
「女の子にもてないかって?」跡見は言ってクスクスと笑う。
「笑わないでくださいよ、」カノンは口を尖らせて言う。「こっちは深刻なんです、深刻すぎて、タイムマシンが欲しいくらいです」
「いや、二人が女性からの熱狂的な指示を受けるのは、危険な香りがするからだよ、僕みたいにね」
「気持ち悪い、」カノンは素早く言った。「……ていうか、危険な香りってなんなんですか? 酸っぱいんですか? 確かに、最近クウスケ君からパパみたいな匂いしますよ、加齢臭って言うんですか、あの、真剣になんとかしてくれません?」
「え、本当?」跡見は真剣な表情をして自分のシャツの匂いを嗅ぐ。「……しないと思うんだけどなぁ」
「自分の匂いって、自分では分からないものではありませんか?」
「ああ、君の匂いはね、二人に比べるとね、ずっと甘くてね、なんていうかな、こう、」
「……なんなんです?」甘い匂いと表現されて、背筋に鳥肌が立った。
「乙女チックなんだよ」
「乙女チックとか、言わないでくださいよ、気持ち悪い、っていうか、匂いが乙女チックって訳分かんないし、それが女の子にモテない理由っていうのも訳分かんないし」
「君は女性的だ、一方で二人はとても男性的だ」
「……そう、」カノンは首を傾げる。「かなぁ?」
「二人は君を好きだろ?」
「……どうだろう?」カノンはニヤケる。「まぁ、嫌いでは、ないですよね、二人ともよく私を触るし」
「そうだろう?」
「だからなんなんです?」
「君は魔女にモテない、」跡見はシガレロを指先で回している。「君みたいな魔女はピンク・ベルには向かない魔女だと言える」
「辞めさせてもらいます、」カノンは無表情で椅子から立ち上がって跡見に向かって頭を下げた。「今までお世話になりました」
「待って、冗談だから、」跡見は慌ててフォローする。「君がモテない訳じゃない、ただタイミングが悪いだけだよ」
「冗談ですよ、冗談に決まっているでしょ!」カノンは椅子にどかっと座り直す。「こっちは彼女が作りたくてピンク・ベルになったんです、彼女が出来るまでは辞めませんよ!」
「素晴らしい、」跡見は悠長な動作で煙を吐き出す。「……そろそろ僕の話を再開していいかな?」
「ええ、いつでも」カノンは栞が挟んであるミステリィの文庫を開いた。
「それじゃあ、行こうか、」跡見は手を一度叩いて立ち上がる。「そろそろ来る頃だし、車で待っていようか」
「え、どこにですか?」カノンはミステリィから顔を上げて聞く。「それから、誰を待つんです?」
「彼女は今、」跡見はスマホの画面をカノンに見せる。画面はチャート。中心の赤い菱形が点滅している。発信機の電波を拾っているということは容易に想像できた。「ここだ、ここにいるんだよ、舞鶴だ」
「いえ、えっと、まさか今から、ですか?」
「そう言っただろ?」
「聞いてない」事実、カノンは跡見の話を半分も聞いていなかった。
「君の協力が必要なんだよ」
「……その台詞、可愛い魔女に言って欲しい、そんなこと言われたら私、絶対好きになっちゃうなぁ」
「え、それ、本当ですか?」
嫌な顔が跡見の後ろから見えた。
「ああ、雪緒君、」跡見は振り向いて自分の腕時計を確認した。カノンは壁に掛かった時計を見る。十一時だ。「早いね、いつも通り、予約一時間前だ」
「はい、一時間でも早く、会いたくて、」雪緒は眼鏡越しにカノンを見る。眼鏡の奥の瞳は落ち窪んでいて、相変わらず気味が悪い。何かを企んでいる、そんな目だ。色はこういう人種には共通すると言ってもいい青白さ。唇は薄く紅い。髪は黒の中に白が僅かに混ざっていた。体格はほっそりとしていて背が高い。土曜日にも関わらずネクタイを締めていて、茶色のカーディガンを着ている。雪緒は服装の乱れを正してから、カノンに近づいてくる。カノンは照準がピッタリと合ってしまっていた目を慌てて逸らした。「カノンさん、あの、今日は僕とあなたがあってから、ちょうど二百日目になります」
「ええ、そうね」カノンは優しい声で言って、ミステリィを読む。ホワイトでクール、ドライでステティック。つまり、どういうことだろう?
「だから、プレゼントを持ってきました」
「ありがとう、」カノンは顔をあげてニッコリと微笑んで、すぐ視線を下に戻す。カノンが彼を無碍に出来ないのは、彼が二十八歳で京大の助教授の金持ちで、彼の専門が魔法工学で、何かの役に立つからだ。「嬉しい、今日は何を頂けるのかしら?」
「コレを、」雪緒が差し出したのはアンクレットだった。「友達が珍しい本を手に入れて、そこに記載のあったアンクレットなんです」
カノンはアンクレットを眺め、受け取り、左足首に填めてみた。ゴールドのワイヤに、透明度の高い小さいダイスが一つ。「コレは一体?」
「はい、コレはですね、」
「雪緒君、これから舞鶴に行くんだが、」雪緒の説明を遮って跡見が近づき雪緒の肩を触る。「君も一緒に来ないか、重要な案件があってぜひ君の力を貸して欲しいんだよ、あ、もちろん、仲春も一緒だ」
「え、そんなこと聞いてませんよ」雪緒が一緒だなんて、なんていうか、実害はないが、気まずいじゃないか。
「言っただろ?」
「聞いていませんでした」
「僕は構いませんよ、」雪緒は眼鏡の位置を直して言う。「カノンさんがいるのなら、どこでも行きますよ」
「決まりだ」跡見は薄ら笑って、雪緒と握手をする。
カノンは壮大な溜め息を吐く。
「……恋の溜め息ですか?」雪緒は気障に聞いてくる。計算された微笑。魔女に効果的だと思っている微笑。しかしその計算は、前提から狂っている。
「ええ、」カノンはわざとらしい上品な笑みを作った。「私、毎日恋にうなされているんです」




