第二章⑨
地下牢には平穏な思考を妨げる沈黙に満たされていた。
エナガは不貞腐れた表情で、足を前に出した姿勢で座り、毛先を指先に絡めている。
生意気だ。
アンナは思う。
こんな生意気な魔女は、メグミコ以外に会ったことがない。
「あんまりジロジロ見ないでよ、」エナガは口を尖らせて言う。「私が可愛いから、仕方ないと思うんだけど、でも、努力してね、お姉さん」
「必要ない」
アンナが即答したとき、静かに地下牢の扉が開いた。
辻野が隙間から顔を出した。
エナガは表情を少女に変化させて、高い声を出す。そしてつま先を後ろに座り直して自分の太ももに手を置く。「わぁ、嬉しい、本当に、本当に、来て頂けるなんてぇ!」
「……どういうこと?」辻野はエナガを指差しながらアンナに聞く。
「さあ、」アンナはエナガを観察しながら首を横に振る。「意味不明」
エナガは黙っていられないという風に鉄格子を掴んで、少しでも辻野に接近しようとする。「あ、あの、辻野さん」
「……何でしょう?」辻野は離れた位置にパイプ椅子を移動させて座る。
「全てをお話しします」
「……それは一体、どういうこと?」
「私がココにきた理由、雪中遊禽連盟のこと、それから私のことも、全部」
「いや、そうじゃなくて、君は一体、どういう立場でいるの? どんな心境の変化が?」
「私は失敗してしまいました、辻野さんに捕まってしまいました、だからもう、議長の元へは帰れません」
「捕まえたのは若頭だけど、」辻野は苦笑。「……その、議長っていうのは誰?」
「雪中遊禽連盟のリーダです、」エナガは素早く答える。「私は素敵な議長に誘われて雪中遊禽連盟のメンバになりました、議長の近くで可愛がられたいと思ったから私は、一目ぼれでした、でも、雪中遊禽連盟にはたくさんのメンバがいて、議長の近くにいるためには頑張って認められないといけないんです、失敗したら側近のミコのお仕置きを受けなければいけません、雪中遊禽連盟の大義に集まった魔女なら、それも受け入れるでしょうけれど、私はただ議長の近くにいたかっただけでした、世界の未来と平和を守ることなんてもうどうでもいい、私は議長のために世界の未来と平和を守ることを真剣に考えていただけなんです、私はもう戻れない、戻りたくない」
エナガは一気に話した。精神安定剤のおかげか、露骨な興奮状態という風ではない。
「世界の未来と平和を守るって?」アンナが聞く。
「世界の未来と平和を守ることです」エナガはすぐに返答する。それはメグミコへのメールにも書かれていたことだった。とても素晴らしいことだが、抽象的過ぎると思う。
「ゴミ拾いでもするのかしら」アンナは冗談を言う。
辻野は笑わない。「世界の未来と平和を守ることと、具体的に雪中遊禽連盟はどんな活動をしているんだ?」
「うーん、」エナガは下を向いて、自分の手の甲を見て、深刻な顔で辻野を見る。そしてゆっくりと首を振る。「私、まだ雪中遊禽連盟で働き始めたばかりで、世界の未来と平和を守ることについてよく知らないんです」
「君は空閑を盗もうとした、なぜ?」
「議長に言われたから、」エナガは床にあった指輪を摘んで持ち上げる。「このシー・サーペントも議長に言われたから、盗みました」
「それは何?」辻野は聞く。
「魔具であることは確かです、」エナガは微笑んで首を横に振る。「それ以外のことを私は何も知りません、もしかしたら、とてつもなく危ないものかもしれません、あんな古い型録に載っているんですから」
「なるほど、」辻野は頷き息を吐く。「細かいことは分からないわけか」
「赤毛の魔女たちは?」アンナが聞く。
「え?」エナガは目を大きくする。
アンナは辻野を見る。辻野もアンナを見ている。
「知らないの?」
「赤毛の魔女?」エナガは首を傾げる。
「君は囮だった、」辻野が言う。「赤毛の魔女たちが空閑を盗むための囮だった、蔵に火をつけて空閑を盗んだ赤毛の魔女たちは君の仲間で」
「知りません、私は、」エナガは首を横に振る。「いえ、もしかしたら議長が何か、したのかもしれませんが」
「ずっと狙っていたのよね、空閑を、あなたたちは」
「えっと、」エナガは濃い色の唇を触りながら言う。「議長が私に空閑を回収するように命じたのは三日前です、ちょうどファーファルタウの上空を飛んでいたときです、電話をもらったのは」
「……捨てられたのね、」アンナは言う。「可愛そうに、あなたは議長さんにいいように扱われたんだわ、捨て駒として、赤毛の魔女たちが手を拱いていたから議長はあなたを囮にしてここに送り込んだのね」
「……そうだったんだ、」エナガは魔女の眼をして、床を一瞬睨みつけた。すぐに表情を可愛らしくした。辻野が静かに観察していたからだ。「……酷いです、議長、しかしでも、その代わり、あなたに出会えた、」エナガは上目で辻野を見る。そして何かに気付いた顔をする。「……いえ、でも、おかしいです、私は南蘋型録のコンパスに導かれるようにして、訳の分からないブランケットを持った魔女のいる部屋に飛び込んだんですよ、南蘋型録は魔具にある程度近づくと反応するんです、魔具によってその反応の仕方はまちまちですけれど、議長から空閑は村崎邸にあることは聞かされていました、しかし、どこにあるかまでは分からないと議長は言っていました、とにかく私は南蘋型録のコンパスを頼りにあの部屋に飛び込みました」
「若頭のブランケットに反応したんだ、」辻野は間髪入れずに言う。「南蘋型録のコンパスは若頭のブランケットに反応したんだ」
「どうしてブランケットに反応するんですか?」エナガが聞く。
「南蘋型録に記載がある、」辻野は言う。「知らなかった?」
「そうなんですか?」本当に知らないようなエナガの反応。「……ああ、だから、うーん? よく分からない」
エナガは混乱しているみたいだった。米神を触っている。
「……赤毛の魔女は雪中遊禽連盟ではない?」辻野が呟くように言う。「居合わせたのは、偶然だったのか?」
「出来すぎている、偶然だなんて、」アンナはエナガの観察を続けていた。「雪中遊禽連盟という組織には赤毛の魔女はいないの?」
「睨まないでください、」エナガは身を引く。「怖いです」
「睨んでないわ、」アンナはエナガを睨んだ。「それで、どうなの?」
「いるのかもしれないし、いないかもしれません、私、議長と側近のミコとその付き人のキュウちゃんにしか、直接会ったことないんです」
「何よ、それ」アンナは舌打ちした。
「上手いやり方だな、」辻野は感心している。「必要最低限の繋がり、いつでも切り捨てることが出来る」
「議長はどこにいるの?」
「南極です」
「南極?」
「ふざけないで、」アンナは静かに言った。「冗談もほどほどにしようね、エナガちゃん」
「だって、議長はそう言ったもん、」エナガは口をすぼめて言う。「議長はいつだって、そういう場所にいるんだもん」
「変わっているんだ、あなたが好きだった人は」
「そうですね、あの人と素敵な関係になれないと思ったら、素敵だって言う気持ちよりも変わった人だなって、今は思います、私は騙されていたのかもしれません、辻野さんに会って、目が覚めました、こんな素敵な男性が、この世界にいらっしゃるなんて、新しい発見です」
アンナは辻野の方を見る。
「いや、」辻野は表情を変えずに言う。「そう思うのはきっと、君の魔力がゼロになって初めて見た男が俺だからだよ、世界の感じ方が変わったんじゃないだろうか、変わっただろ? 変わるんだよ、だから君は今、新しい発見ばかりしているはずだ、それでなくとも、あくまで表面的な分析だが、君はホレっぽいね」
「はい、」エナガは熱っぽく辻野を見つめる。「私、ホレっぽいんです」
辻野は前のめりになってエナガに顔を近づける。アンナはその様子をじっと見ていた。辻野は何をする気だろう。長年同じ屋根の下に暮らしているが、彼のこと本質的な部分は未だ謎だ。辻野はエナガにさらに顔を近づける。キスでもするのだろうか。いや、それは絶対にないと思う。エナガは目を瞑って僅かに唇に力を入れている。アンナは息を殺して笑う。辻野はとても無機質に言う。「ガキには興味ない」
エナガは目を見開いて、言葉を失っていた。
アンナは少し可哀想だと思う。
しかし、辻野の横顔を見ると、せめてもの優しさなのかもしれないとも思う。
でも、私が大好きな人に興味ないなんて言われたら、きっと何かを壊してしまうと思う。
辻野はエナガの顔の前でピストルを炸裂させる。
アンナは片目を瞑った。
銃弾は彼の足元のアスファルトに減り込んだ。
銃声の余韻が耳に残っている。
「目が覚めたかい?」
耳を手で塞いだままエナガは小さく頷いた。
いや、震えている。
「君は警察に引き渡す、アンナ、那珂島さんはまだかな?」辻野は言って、エナガに手を伸ばした。「ああ、それから、それを渡してくれ」
エナガははっとして、握っている指輪のことを思い出したようだ。シー・サーペントのことだ。シー・サーペントを一度見て、握りしめて背中に回した。「……嫌です」
「おい、なんのつもりだ」
アンナは失敗したと思った。辻野は先にシー・サーペントを回収するべきだったと思う。辻野はエナガの面倒臭さというか、女の子の部分を、深く理解していないようだ。辻野はそういう男だ。
「渡したくありませんっ、あなたは私の心を深く傷つけました、だから、渡して欲しかったら」
「取引をしようというのか?」
「取引じゃありません、」エナガは上目で辻野を見ている。「交換です」
「一緒だ」
「あなたが好きです、私と付き合ってください」エナガは早口で言った。
「俺と映画を見に行ったりしたいの?」
「寒いところで犬ぞりに乗ったり、かまくらの中でアイスキャンディを食べたい」
「寒いのは嫌だな、」辻野はシガレロに火を点けた。「……こんな状況で成立する関係が、幸せだと思っているの?」
「分かりません、」エナガは目を伏せた。涙を隠しているようだ。声が震えている。エナガの激しい恋心をアンナは分からなくないから、少しだけ、同情。「分からないけど」
「分からないならきっと幸せじゃない、」辻野は煙を吐く。「……本来君は魔女を愛していたんだから、俺は違うだろ?」
「議長は魔女?」アンナは聞く。
エナガは答えない。
「よく考えて、自分の冬、自分の未来について、時間ならあるはずだ、」辻野はアドバイスをして鉄格子の間に入れた手を広げる。「さぁ、指輪を渡して」
「嫌っ、嫌だ!」エナガは高音で言った。彼女は涙目を辻野に見せる。左手の薬指に指輪を填めて、それを背中に回して、立ち上がる。「渡さないもんっ!」
「おい、」辻野は首を横に振る。「……全く」
「全く……、」アンナはピストルを構えた。「面倒臭い魔女なんだから、いいから大人しく、」
アンナの発声が止まる。
エナガの背中が光っていた。
青く。
クリアに。
その光は徐々に強く。
エナガを包んだ。
エナガは光に気付き。
自分の左手の薬指を見る。
エナガの指のシー・サーペントは発光していた。
一体?
エナガは自分の指を見て、驚いている。
そして。
エナガのまだ黒い髪は、群青色に染まる。
群青色に染まり切る。
そして。
群青色の中に、細く白を光らせる。
エナガは目の色を変えた。
そして微笑む。
ぞっとした。
「動くな、座れ、」辻野はエナガにピストルを向けた。「動くな、本当に打つ」
エナガは髪を払った。
銃声。
辻野は一発、エナガの足を狙って打った。
しかし、銃弾は分厚い氷に食い込んでいた。
辻野は連続してトリガを引く。氷の壁は厚い。辻野はピストルを捨てた。「……警察に電話だ」
アンナはエナガを見たまま、辻野の腕を捕まえる。「ねぇ、辻野、キスして」
辻野はじっとアンナを見つめる。「……いいのか?」
「ばかっ、私じゃない、彼女とに決まっているでしょ」
「冗談だ、」辻野は微笑む。そして悠長に悩む。「……なんとかなるか? これは予想外の展開だ」
「そうよ、明らかに戦略ミスが招いた結果だわ」
「なんの話をしているんですか?」エナガは上品に、うっとりと微笑む。まるで人が変わったように、その微笑みのジャンルが違っている。エナガに一体何が起こったのか、見当がつかない。だが、辻野のキスで、なんとかなるかもしれない。
「辻野のキス」
「え?」エナガはゆっくりを瞬きをした。
「辻野のキスと交換」
エナガは辻野を見る。辻野は頷く。エナガは笑う。緊張が和らぐ。アンナは息を吐く。
「……まずソレから渡してもらう」辻野は往生際が悪い。
「キスが先!」アンナは怒鳴る。
「しょうがないねぇ」辻野は頭を掻く。
「いらないわ、」エナガは首を横にゆっくりと振った。群青色の髪が揺れる。「どうして私があなたとキスしなきゃいけないの?」
さらにエナガは色を濃くする。