第二章⑧
村崎邸屋根裏。
スズは天窓を開けて、空気を入れ替えた。立ち上がると胸の高さまで外の空気に触れる。スズは夜になって微細な変化を始めた空気を確かめながら呼吸をする。天を見上げると無数の星が散りばめられたダイアモンドのように煌めいていた。屋根裏でクッションを抱いて魔導書に読みふけっているメグミコもほのかに煌めいている。紫色に。幻想的に。メグミコは完全に下界とのリンクを遮断していた。今、メグミコの意識は魔導書に羅列されたラテン語と絡んでいるのだ。
魔導書から魔法を習得するという行為は一般的ではない。魔導書に記述される魔法は特殊で、緻密で、個性が強いものに限られる。それをマスタして、編むという作業に取り掛るまでには膨大な魔力と先天的に備わった鋭い感受性、そして何より頭の回転力がなければならない。メグミコが今読んでいる魔導書はざっと五百ページ。彼女は一分四ページの早さで読み進めている。完成へのチャートを辿っていると言える。魔法を編む、ということは、言わばチャートを模写することだ。五百ページ分の緻密な模写が魔法を現実に表現するためには必要であり、チャートを模写するだけの絵具の量、体感的に言えば糸の長さが必要になってくる。つまり、感受性と魔力。そしてそれらを処理し切れる頭の回転の速さがなければ、編み込んだ糸は絡まり誰からも共感されない失敗作が完成するのだ。
普通、魔法の始まりは視覚、あるいは聴覚からの情報を元にしたイメージによって編まれる。そこにはほとんどの場合緻密さはない。名前だけ付いた空っぽのフォルダが魔法の始まりなのである。フォルダにファイルを入れる作業、つまり緻密に詰めていく作業は研究と呼ばれる。研究の昇華のためには感受性は欠かせない。そして何より膨大な情報を繋ぎ止めておく、あるいは乗せておくための糸の量、すなわち魔力も、魔法に緻密さを求めて行くために必要不可欠な要素なのである。そして最後に重要なのが、それを正確に処理し、発現させるための頭の回転力である。
メグミコに足りないのは、この回転力だとスズは思っている。
彼女の魔力は申し分ない。感受性も高い。回転に速さはあるのだが、安定していないのだ。
不安定に処理された魔法は、やはり不安定に表現される。
彼女が魔女になったばかり頃だ。
思い出すと、懐かしい。
そう、確か、あの時も屋根裏で。
こんな風にメグミコは魔導書を呼んでいたのだ。
確か、千ページはあろうかという、サンダ・バードの召喚魔法が描かれた魔導書だった。
メグミコは夢中で魔導書を読み。
スズの制止を振り切って。
メグミコは魔法を編んだ。
サンダ・バードの召喚には成功。
しかし、サンダ・バードは暴走を始めたのだ。
大変だった。
本当に。
今では笑い話だけれど。
まあ。
あの頃の彼女に比べれば今の彼女はずっと。
落ち着いている。
私はあの頃よりも、不安定になったね。
スズは魔導書に目を走らせるメグミコを一瞥、再び星空を見上げた。
そしてふと、屋根裏のどこかに天体望遠鏡があったこと思い出した。
屋根裏の隅にあるおもちゃ箱の方を見ると三脚が見えた。スズは四つん這いで移動して、埃っぽいぬいぐるみだらけのおもちゃ箱から引き抜く。
巨大なレンズの天体望遠鏡は三脚にくっついていた。スズはブランケットでレンズを拭く。レンズは滑らかな光沢を放っている。メグミコの近くにいって、彼女の明かりでレンズをよく確かめた。見る限り傷はないようだ。スズは望遠鏡を立たせ、ピントを調整。天体観測を始めた。
月が見える。
クレータも確認できる。
優秀な望遠鏡だ。
もっと遠くまで見たいと思った。
次の瞬間だった。
渦巻く銀河が鮮明に見えて。
吸い込まれそうで。
ビックリする。
眼を離した。「え?」と声を出して肉眼で暗い空を見る。
何を見たのだろう、私は?
再び望遠鏡を覗き込む。
月がある。
何だったんだろう。
ほんの一瞬だけ眠ってしまって。
夢でも見たのだろうか?
「よっーし!」
「うわっ」スズは低い声で驚いて横を見た。
「どうした?」メグミコは魔導書を閉じて、丸い目でスズを見ている。「あ、望遠鏡、懐かしい、若かった二人はよく星空を見ていたよね」
メグミコは気障な感じで言った。きっと一冊の本を読み終えたからだ。魔導書も哲学書も小説も、魔女を感傷的にさせる点では一緒だ。メグミコの眼は肉眼で確認できるくらいに充血していた。
「それで、」スズは自分の前髪を触りながら聞く。「どうなの?」
「ワイヤとデルタが必要条件だね、」メグミコは人差し指を立てて言う。「私の人差し指にワイヤをくくりつけて、ワイヤの先にデルタをくくりつけて中空に垂らしたら準備完了、そういう魔法なんですわ」
「そうですか、」スズは笑窪を作った。「今夜飛ぶ?」
「若かった二人は夜空を飛んではしゃいでいたよね」
スズは胸が膨らむ。わくわくする。「ワイヤって鉄製の? デルタの形状は?」
「そうなんだよ、それが問題なんだよ、それが問題だよね、」メグミコは腕を組んで難しい顔をして舌で唇を嘗める。「金のデルタに銀のワイヤ」
「金と銀?」スズは周囲を見回して見る。もちろんそんな高価な分子の塊が屋根裏に転がっているはずはない。「そんなもの、どうやって用意するの?」
「ぬかったなぁ、」メグミコは下唇を噛んで言う。「金と銀が必要だなんて思わなくて、買うにしたってお財布はアンナが管理しているし、ぬぅ、別の方法を考えようか」
「一体何を企んでいるんですか?」急に背後から声がした。
「わぁ!」スズとメグミコは声を合わせて驚いてブランケットを間に挟んで抱き合った。
振り向くと。
ランが屋根裏の狭い出入り口から顔を出していた。「わぁ、屋根裏、懐かしいですぅ、この埃っぽさも、素敵」
ランは何を考えているか分からない笑顔で、四つん這いで二人に近づいてくる。
メグミコは息を吐いて、スズを抱き締める腕の力を弱める。「ランちゃん、もぉ、びっくりさせないでよぉ」
「ラン、なんで、ここに?」
ランは冷たい目でスズを一瞥。笑顔を作ってメグミコを見る。もう、そういう反応には慣れたけれど、そのたびに悲しい気分になる。ああ、抱きしめてやりたい。ランとスズはシスタだから。
「何か企む眼をしていました、メグちゃん」
「え、本当?」
「隠し事が下手なメグちゃんも素敵です、魅力的です」ランは膝で立って、胸の前で五指を組む。
「え、本当?」
「喜んでんじゃないの」スズはメグミコの頭を小突く。
「ああんっ」メグミコは変な声を出す。
「何を企んでいるのか、教えてくれたら、」ランは二人の前に正座する。ダッフルコートのポケットから取り出したのは、金と銀だった。銀のワイヤに繋がった金のデルタが二人の前で踊る。「メグちゃんにプレゼントして差し上げます」
「え、どうして?」メグミコは眼を丸くして聞く。「そんなもの持ってるの?」
「私は専門家です、これくらい用意出来ます」
「ありがとう」スズはデルタに触ろうとする。すぐに引っ込められる。
デルタはランの背中に移動した。ランは笑顔だ。「一体二人して何を企んでいるんですか?」
メグミコはスズを見る。スズはランを見る。久しぶりに目が合った。凄く嬉しいんだけれど、よく分からない、から、困る。ランが何を考えているのか分からないから困る。別に教えても構わないのではないかとも思うけれど、でも、いや、分からない。ランに対して何を言えばいいか、分からない。「……ごめん、言えない」
銀のワイヤに繋がった金のデルタをランは前に出す。
揺れている。
不規則に回転している。
静かな夜が産まれている。
ランは下を見ている。
メグミコが何かを言おうとする。
その前に。
水滴が堕ちる。
ランは泣き出した。
声を上げて。
大粒の涙を作って。
赤ちゃんみたいに、壮大に泣き出した。
スズはどうすればいいか分からない。
パニック。
米神に硬いものを打ち込まれたように。
眩暈がする。
「どうしてですか? 二人はいつも私をおいてどこかにいってしまうの、寂しいです、寂しいです、寂しいです、ずるいです、私だって一緒に、昔みたいに、楽しいことをしたいのに、ずるいです、ずるいです、ずるいです!」
ランは涙を擦って嗚咽を漏らしている。とても感情的になって、スズにはよく分からないことを言っている。
ずるい?
何が?
ランはずっと、寂しかったの?
私のことが嫌いになったんじゃないの?
「……寒い、寒いです」ランは掠れた声で訴える。「……寒いです、ずっと、寒くて」
メグミコはスズのほっぺたを抓っていた。とても柔らかくて、明方女子からマシュマロみたいと評価されるほっぺたが強く抓られていた。メグミコの方を見る。メグミコは真剣な目で何かを訴えている。口を大きく動かして何かを訴えている。
「え、何?」スズはメグミコのことが分からなくて聞く。「何なの?」
メグミコは聞くな、という顔をして大きな口を出して怒鳴る。「妹が寒いって言ってるんだよ、抱きしめてあげるんだよ、お姉ちゃんは!」
メグミコは背中を叩いた。
スズは揺らぎながら。
ランに接近。
ランは涙の隙間からスズを見ている。
一度躊躇った。
でも。
ランはシスタだから。
愛おしいから。
寒さに凍えているのなら。
ブランケットがココにあるから。
包み込んで、抱きしめて、あげる。
スズはランを抱きしめて力を入れた。
「……暖かいです、お姉ちゃん」
ランはスズの体を抱きしめ返してくれる。スズは誰にも見せられない不細工な顔で涙を堪えた。嬉しさもこみ上げてきて笑顔になったり、忙しい。スズは何かとてもロマンチックなことを言おうと考える。
空にはとてもロマンチックに星が輝いているから。
でも思いつくのは女の子たちに言った恥ずかしい台詞ばかりで。
シスタに聞かせる気障な台詞は浮かんでこない。
頭はくるくると回転している。
様々な恥ずかしい台詞は浮かんでくるが。
何もかもが違う。
このとてもロマンチックな夜にふさわしくない。
シスタに相応しくない。
何か言うことが違うのかもしれない。
スズはだから。
ランの頭を撫でて、ギュッとして、左右にゆっくり。メリーゴーランドの速度で。
揺れた。