第二章⑦
花升エナガは村崎低別邸の地下で黙秘を主張、一度眠りについてからなかなか目を覚まさなかった。スズのプランケットに包まれ魔力を失って髪の色が黒くなったエナガは冬眠状態のように、深い眠りに入っていた。早い段階で彼女を起こすことをアンナは諦めていた。牢の前で椅子に座り、アンナは事件のことを考えている。
雪中遊禽連盟とは?
彼女たちはどうして空閑を狙っていたのか?
南蘋型緑とは何なのか?
そして目の前の魔女。
花升エナガは何ものなのか?
恐ろしい魔女であることは確かだ。
まだお嬢様と同じくらいの歳なのに。
彼女の氷はとても硬く。
彼女の寝顔はとても幸せそうだ。
ああ、とにかく、とても大変なことになってしまった。
すべて私の不手際だ。指を落とそうか。
いや、そういう組織ではない。村崎組は彼らより少し暴力的で、少し甘い。
見張りの交代をしたのは正午を回った頃。サングラスの倉持と山高帽子の松本と交代。体の半分が冬眠しているような脱力感に苛まれていたので、暑いシャワーを浴びてすぐに横になった。目を覚ましたのは午後五時を少し回った頃。少し寝すぎたと思って急いで濃い紫色のメイド服に着替える。その間、ずっと静かだった。エナガは目を覚ましたのだろうか。誰も呼びに来ないから、まだ、眠っているの?
早足で別邸の階段を下りて牢へ向かう。
「ごめんなさい、もっと早く起きるつもりだったんだけど」
言いながらアンナは牢へ入る。サングラスの倉持は無言で壁にもたれている。山高帽子の松本は慌てて帽子を被りなおした。久しぶりに見る、彼のスキンヘッドだった。「ああ、アンナさん、もっと休んでいたらいいのに、それからちゃんとノックしてくださいよ」
「女の子みたいなこと言わないでよ、もうおじさんでしょ?」
「まだ二十代ですよ、一応」松本はパイプ椅子から立ち上がった。きっとアンナのために。でも、譲ってもらってまで座りたい気分でもない。
「いいよ、」アンナは鉄格子を触って、未だ冬眠状態のエナガを確認しながら、少し安心しながら、言う。「彼女は一度も目を覚ましていないのね?」
「ええ、」松本は椅子に座り直して答える。「ピクリともしませんよ、人形みたいですよ、人形なのかも」
松本が微笑んだので、アンナも微笑んだ。心境は黙ったまま虚空を睨んでいる倉持と心境は同じだ。もしかしたら居眠りをしているのかもしれないが。
「ナナさんは?」
「そういえば、まだ顔を見せないですね」
「そう」
「那珂島さん、絶対に履かせるって舌巻いていたのに、遅いですね」
「そうねぇ、とにかく、見張りを変わるわ、」アンナはエナガを見つめたまま言った。「二人ともありがとう」
倉持はすぐに牢屋から出ていく。どうやら居眠りはしていなかったようだ。
「おいっ、待てよ、」松本は倉持の背中に怒鳴って、アンナに微笑みかける。「ったく、しょうがないやつだ、ねぇ?」
「動きに切れがあって、」アンナも微笑む。「私は素晴らしいと思うけどな」
松本はつまらなそうな表情をして帽子の位置を直す。「次は何時間後に?」
「彼女が目を覚ましたら呼ぶわ」
「分かりました」
「うん、それじゃ」アンナはエナガに視線を戻す。
「あの」
「何?」アンナは振り向く。
「……なんていうか、あの」松本は言い淀んでいる。
「早く言って、」アンナは言い淀む松本がおかしかった。スキンヘッドの癖に。山高帽子を被っている癖に。「あ、待って、もしかして恥ずかしいことを言おうとしている?」
「……正解です、」松本は無垢に笑う。「……やめといた方がいいっすね」
「いいから言えよ、ハゲ」アンナは怖い目をして言った。もちろん冗談のつもりだ。
「ハゲって、」松本は一度絶望的な表情をしてから、気持ち悪い顔で笑う。「なんか新しいっすね、アンナさん」
「いいから早く」アンナは優しい目に戻す。
「全部、一人で抱え込まないでくださいよ、ここには辻野も倉持も俺もいます、他の奴らだって、お嬢を守りたいと思う気持ちはみんな一緒です、」松本は終始冗談を言っているみたいにヘラヘラしている。「だから、そんな不安そうな顔しないでください」
言われて少し驚く。「……私、不安そう?」
「はい、とても、その、何かに例えるとすれば、」
「例えなくていい」アンナは素早く拒否した。
「分かりました」松本は深く息をした。
「ありがとう、少し、余裕が出来た、かも」
「いえ、」松本は一度満足そうに頷いてから顔を変えた。「……え、かも?」
「男の言うことは当てにならないもの、本当に当てにならない、男の全てはファンタジィで出来ていて、後から理論が追い付いてくる、でも、」アンナは怖い目で松本を睨んでそして、微笑んだ。「とにかく、ありがとう」
「再結成しましょうか?」
「え?」
「お嬢のためにアンナさんが作って解散させた組織があるでしょう?」
「め組を?」
「はい、五年前と同じメンバで、まぁ、一人足りませんけど」
「乗った、」アンナは盛大に笑って悪い顔で頷く。「血判状を用意しておいて」
「はい、いや、シャチハタでいいでしょう?」
松本は山高帽子を持ち上げ、スキンヘッドをアンナに見せて牢から姿を消す。アンナはパイプ椅子に座って、め組のことを思い出す。すっかり記憶の彼方に行っていた思い出が蘇ってくる。魔女になったばかりのメグミコのために作った少数精鋭のお守り組だ。あのときのメンバはアンナと辻野、松本、今は亡き藤枝。今よりもずっとわがままだったメグミコのせいで四人は何度も死にそうな思いをした。今では笑い話だ。もう一度、いいかもしれない。メンバを増やそう。とりあえず、倉持と、お嬢のことをアンナと同じくらい思ってくれていていつもお嬢様のために一生懸命なジェリィを誘おう。決まりだ。考えていると楽しくなってくる。どんなことでもやれそうな気分になる。一人じゃなくて、め組なら。
アンナは笑う。僅かに声が漏れる。
その声に、反応があった。
「なんて、なんて幸せそうなんだろう」
アンナは目を見開く。
牢の中のエナガが目を覚ましていた。
よく動く大きな目でこっちを見ている。
心臓が大きく脈打つ。
ぞっとした、という表現が役に立つ。
アンナはスカートのポケットの中のピストルの感触を確かめた。そしてエナガの髪の色を見て、冷静さを保つ。
大丈夫。
まだエナガは、魔法を編むことは出来ないはず。
だから。
「ああ、幸せそうだなぁ、幸せそうだなぁ、」エナガの声はとても嫉妬に浸かっている。そして半ばやけになっている。やさぐれている。なぜだろう。牢屋の中にいるというより、エナガは小さな居酒屋のカウンタにいるみたいな態度だ。アル中の態度。「私にもその幸せを分けてよ、分けて欲しいよ、本当」
「お酒を飲んでいるの?」アンナは言ってすぐ、どうしてこんなことを言ったんだろうと後悔する。
「飲んでるわけないでしょ!」エナガは高音でがなる。
そして。
なぜかエナガは涙声だ。
涙声でヒステリック。
「あんたたちのせいだからね、全部、全部、あんたたちのせいっ! もう少しで私は幸せになれたのにっ! 全部滅茶苦茶だよっ! 滅茶苦茶!」
アンナは、なんていうか、鉄格子の向こうの彼女の頬をおもいっきりひっぱたいてやりたい気分になる。エナガの高音がとても、とっても煩わしい。
「少し落ち着いて」
アンナは僅かに降りあげた手を元の位置に戻してから、エナガに優しい言葉をかけた。エナガが涙を流し始めたからだ、眼を擦って、真っ赤にして、声を殺そうとして、嗚咽を漏らしている。アンナは訳が分からない。別に同情する訳じゃないけれど、壁際の机の上の魔法瓶からコップに温いお茶を注いで鉄格子の中のエナガの顔の前に持っていく。「ほら、これでも、飲んで」
エナガは充血した眼で紙コップを見る。「……毒が入っているの?」
「なんだ、」アンナは少し余裕が出来た。会話が成立しそうだと感じたからだ。「自分の立場をよく分かっているじゃないの、そう、あなたは毒殺されてもおかしくない立場」
エナガは不敵に笑う。「騙そうたって、そうはいかないんだから」
「あらあら、元気になったようでなにより、」アンナはエナガの警戒心を少し解くために計算された微笑みを作成。「ああ、コレは大丈夫、ただのお茶だから」
エナガはしばらくお茶をじーっと睨んでいたが、のどの渇きに耐えられなくなったのだろう、素早い動きでアンナの手から紙コップを引っ手繰った。そして一気に飲み干し、アンナを睨む。
「熱いっ!」とエナガは文句を言った。「冷たいのを用意してよ!」
エネルギアに満ち溢れた発声。アンナはエナガの髪の色を見る。まだ、黒い。大丈夫なはずだ。お茶には精神安定剤を混ぜておいた。全て未来を円滑に進めるために。大丈夫なはずだ。
「落ち着いて、」アンナは一度エナガから眼を離して、扉横の受話器を手にした。一階のリビングに繋がる。「あ、もしもし」
「はい、」倉持の無味乾燥な返事。「すぐに向かいます」
アンナは倉持のことを頼もしいと感じた。「ちょっと待って、冷たいものも、一緒に持ってきて」
「分かりました、濃さは?」
「濃いめが、いいと思う」
「すぐに」
倉持は静かに受話器を戻した。アンナも同じように受話器を戻す。
「冷たいカルピスを飲ませてくれるの?」エナガは自分の指を見ていた。正しくは指に光るリング。その色は青。「濃いのが好き、……ねぇ、辻野さんが持ってきてくれるの?」
「ひょっとしたらね、」アンナは首を竦める。「……その指輪、綺麗ね」
「この指輪を渡したら私は辻野さんに会える?」
「どういう意味?」アンナはエナガが顔を寄せるようにしてそういうことを言った意味が分からない。そして、エナガの眼は何かをたくらんでいる。「その指輪は何なの?」
「南蘋型録八十一番、シー・サーペント」
エナガはすぐに答えた。アンナはわずかに身の危険を感じてピストルに触って銃口をエナガに向けたまま、ゆっくりと立ち上がる。
「嘘を言っているの?」
「型録はアンクレットだったから?」エナガは表情を変えずに言う。とても冷静に、何かを企む眼は依然として変わらない。「型録は、見た?」
「ええ、そうよ、確かに八十一番はアンクレットだった、いえ、だから、」アンナはエナガを睨む。「何もするなよ」
エナガは微笑む。「理由を教えてあげようか?」
「辻野をココに呼べばいいのね?」
「うん、全部、教えてあげる、」エナガは指輪をはずした。そして床に置いて両手を広げて見せた。「私、何もしないよ、何もしないし、辻野さんにはなら何でも教えてあげちゃう」
「あなたのキャラクタがいまいち分からないわ、」アンナは微笑みながらエナガを観察する。エナガはヘラヘラと笑っている。「ねぇ、何を企んでいるの? どうして辻野に会いたいの? どうして何もかも教える気になったの?」
「嫌だ、企んでいるだなんて、私はただセンチメンタルな恋をしているだけなのに、企んでいるだなんて、悪い言葉を使わないで欲しいな」
「まさか、本当に辻野に恋をしているの、……そんな訳ない、よね?」
「嫌だ、具体的に言わないでください、」エナガの声のトーンが明らかに変化している。「ああ、体が熱い、熱い、あの方の顔を思い浮かべるだけで、私は、もう、なんて言いましょうか、溶けちゃいそう」
事実、エナガの顔はピンク色だった。正直な色だ。演技をしているとは思えない。彼女の何を信じれば最適なのかは全く持って分からないが、とにかく、話を前に進めたいと思った。
「……なんていうか、」アンナは銃口をおろして言う。「変わっているのね、恋に生きているの? 魔女でそういう子って少ないでしょ?」
「魔女は恋をするものです、」エナガは歯切れよく言う。「恋をして幸せになるの」
「恋のためならなんだってするの?」
「お姉さんはしないの?」
「私? 私は、」聞かれてメグミコのことを考えてしまう「……する、きっとあの人のためだったら、どう思われようと何だってする」
「ほら、同じだ」
「違う、一緒にしないで、私は十年、君は一夜、うたかたの恋だわ」
「時間なんて関係ない」
「そうよ、時間なんて関係ない、大切なものはセンチメンタリズムからの解脱、つまり、どれだけ分かりやすく色を付けて論理的に説明できるか、辻野への恋を、あなたは説明できる?」
「うん、彼の横顔が好き」エナガは無機質に、そして無邪気に言う。
「ああ、もう少し感情を込めた方が、色が濃くなると思うわよ」
「素敵なアドバイス、」エナガはにっこりと微笑んで、冷めた表情で息を吐く。「……いいから、早く呼んできてよ、お姉さん」