第二章③
明方市駅を中心に放射状に広がる背の低い雑居ビル群の東のはずれにピンク・ベル明方支店の三階建てのビルはある。土曜日、早朝。ピンク色のもふもふのコートに身を包んだ仲春カノンはそのビルの狭くて暗い寒い地下室で歌っていた。「泥船ぇ、泥船ぇ、泥船ぇ」
特徴的なボイスで陽気に歌いながら、カノンは眠そうに欠伸をして、目を擦った。ミリ単位でこだわっているショートヘアは所々重力に逆らっている。徹夜だったのだ。徹夜で、最新のチョコレートの研究に励んでいた。二百年くらいの歴史を感じる古びた木製の背もたれの高い椅子の上にあぐらをかいて座り、楕円形のテーブルの上のまるで遊園地のように賑やかな装置に向かってチョコレートを作り続けていた。テーブルの手前に並べた無数のビーカの中身は全てチョコレート。チョコレートの甘い香りは地下室に濃厚。その濃さに酔ったようだ。自分の頬が熱いのが分かる。
金曜日の徹夜の成果はあった。
いいものが出来た。
カノンは一つのビーカを近くに引き寄せ、眺めてみる。
色は濃く艶のある、黒。
甘さが先にきて、ほろ苦さが後を引く。
大人の魔女を意識しました。
そういうチョコレートが出来た。
とりあえず「ワンダフル・ブースタ・弐式」と付箋に走り書きしてビーカに張った。そしてラップをして部屋の隅の冷蔵庫にしまう。カノンは冷蔵庫から牛乳を取り出しコップに注ぐ。失敗作のチョコレートを小さく砕いて口に含んで、カノンは牛乳を飲んだ。
おいしい。この食べ方が、やっぱり一番、おいしい。
しかし、だから、こんなことをしているから、多少、ふくよかになってしまうことは否めないわけで。
二口目を食べて、コップに注いだ牛乳を飲み干して、カノンはチョコレートを全て液状に戻す。
そういう魔法を編んで。
黒い髪はわずかに、一瞬だけ、紅く光った。
片手で持てる大きさの鍋にカノンはチョコレートを入れていく。おやつにコレを材料にして、チョコレートムースでも作ろうかと思う。
さて。
後片づけも済んだのでカノンは両腕を持ち上げて伸びをして、息を吐き、チョコレートの臭い濃厚な地下室から一階へ移動する。
階段を登ると一階の玄関ホールに出る。玄関から右手の方にスライド式のドアがあって、そこからガレージに出ることが出来る。ドアはノブから上の位置に丸いガラスがはめ込まれていてそこからガレージを見ることが出来る。光が射し込んでいることからシャッタが開いていることが分かる。奥には紅色のポルシェが停まっている。手前にもう一台分のスペースが開いている。個人タクシの運転手兼ピンク・ベル明方支店の店長の跡見クウスケは仕事からまだ帰っていないようだ。
カノンは二階に上がる。電気ストーブが付いていて地下室よりは暖かかったが、それでも息は白い。二階フロアはまるまる事務所で階段から奥の方に跡見の机があり、その手前に応接セット。右のソファの後ろに簡単なキッチンがあり、その隣にトイレがある。
左手側のソファではリクライニングを倒して、ピンク色のブランケットにくるまり、二人の魔女が寄り添うようにして眠っていた。カノンと同じくピンク・ベル所属の汎野マリと平戸ベニだ。マリは十五歳、ベニは十九歳、カノンは先月十七歳になったばかり。
カノンは一度家に帰って眠ろうかと思ったが、二人が跡見に悪戯される可能性がある。二人が目を覚ますまで、優雅にコーヒーでも飲みながら、ミステリィでも読もうかなと思う。
カノンは冷蔵庫の上のコーヒー・メーカをセット。静かな室内にコーヒーが産まれる音がする。カノンはポットに注がれる間にシンクに溜まった洗い物を片づけた。一度片づけ始めると、他のキッチン以外の乱れも気になってくる。カノンは自分の乱れたショートヘアをゴムで後ろにまとめた。とても小さなポニーテールの完成。いや、パンダのしっぽだ。そしてコートを脱いでソファに置き、袖をまくって掃除を始めた。
窓ガラスを拭いていると、一階のガレージにイエロのメガーヌがゆっくりと滑り込むのを見つけた。
跡見が帰ってきたのだろう。特徴的なエンジンの回転音の響きが消え、しばらくして階段を叩くような、体重のかかった足音が聞こえてくる。酔っぱらっているのだろうかと思ってカノンは身構える。酒臭い跡見にエッチなことをされそうになった経験は一度や二度じゃない。カノンは雑巾をバケツの中に放り込んで、装備をモップに持ち替えた。跡見の顔が見える。無造作な長髪に、切れ長の目に鼻筋が通った中性的で、いわゆるハンサムな顔が見えた。三十六歳だが、その歳よりは随分若々しく見える。
「あ、仲春、早いな、もしかして僕の帰りを待っててくれたの?」跡見は片手を持ち上げてカノンを見た。その顔にはいつものような薄ら笑いは浮かんでいなかった。酔っている風でもない。無表情に近い微笑みをかろうじて作ったが、なぜか憔悴しきっているように見えた。そんな彼の顔を見るのは初めてだった。「掃除? 悪いね、いつも僕のために、やっぱり仲春は高校を卒業したら僕の屋敷のメイドになればいい、分かってるんだ、本当は僕のことを愛しているんだってことをね、ただ君は、君だけじゃないな、汎野も平戸も、恥ずかしがり屋さんだから」
カノンは跡見の通常営業の戯れ言を無視する。跡見も反応なんて気にしちゃいないだろう。跡見は憔悴しきった表情のままマリとベニが眠っている反対側のソファに腰掛けた。一度目を瞑って、テーブルの上のシガレロの箱に手を伸ばす。跡見が指でシガレロを挟んだタイミングでカノンは火をつけた。契約では、キャブズ以外に絵のモデル、それからシガレロに火をつける仕事も含まれていた。ライタよりも魔法で編んだ火で吸うシガレロは、違うのだという。その違いはカノンには謎だ。「……あ、仲春、コーヒーを淹れてくれない? ……いや、いい、僕がやろう」
「もう淹れてますよ」カノンはポットからマグカップにコーヒーを注いで跡見の前に置く。
「ありがとう、」跡見はカップに口を付けた。「どうした、仲春、今日は飛びきり優しいじゃないか」
「いいえ、タイミングの問題です、」カノンは掃除用具を片づけながら答える。「コーヒーが淹れてあったのは私が可愛い二人と同じ空間でミステリィを読みながら飲みたかっただけですし、朝は早くからここにいるのは、昨日の夜から地下室でチョコレートを作っていたからですし、クウスケ君が何か猥褻なことを二人にしないように見張っていただけです」
跡見のことをクウスケ君と呼ぶのも契約の一部である。本当に気持ち悪い。
「……なるほど、」跡見は僅かに微笑んで頷く。「とても分かりやすい説明だ」
やっぱり変だ。
そうカノンは思った。
無駄口が圧倒的に少ない。
「どうしたんですか?」カノンは跡見の隣に腰掛け聞く。本当は近づきたくはないのだが、対面のソファには可愛い魔女二人がご就寝中である。「なんていうか、変ですよ?」
「気持ち悪くない?」跡見がそう聞くのは、魔女の三人は何かにつけて彼のことを気持ち悪いと罵っているからだ。跡見に気持ち悪いと言うと隙が産まれるのだ。
「いや、気持ち悪いのは、お変わりありませんけれど」
一瞬の沈黙のあと、跡見はシガレロを吸う。「……カノン、実は」
「黙れ、変態、気持ち悪い、」カノンは表情を変えずに言った。跡見はここぞというときに下の名前を呼ぶのだ。それが格好いいと思っているのだ。本当に気持ち悪いけれど、一体何を話すつもりだろう。「それで、なんですか? 気持ち悪い」
「……あ、うん、えっと、コレは二人に内緒にしておいて欲しいことなんだが、」跡見は灰皿にシガレロを押しつけてカノンに接近して耳に口を近づけてくる。「極秘の話だ」
「いや、ちょっと、離れてくださいよ、本当に気持ち悪いですね、」カノンはソファの隅に移動する。「それで、なんですか? 気持ち悪い」
「真剣に聞いてくれよ」
「少なくとも、クウスケ君よりは、毎日真剣に生きているつもりです」
「いや、僕だって真剣だよ」
「真剣に、気持ち悪いことばかり考えているんですよね」
「……いや、それは個人によって境界が異なるだろ?」
「議論はするつもりはありません、結論を早く言ってください、貴重な土曜日の時間を無駄にしたくありません」
「じゃあ、言おう、言うぞ、」跡見は背筋を伸ばした。色白の頬が僅かにピンク色だ。お酒の色じゃない。乙女チックな色合いだ。それが気持ち悪すぎて、カノンは恐怖で固まってしまった。跡見は目を大きくして言う。「実はな、カノン、僕、好きなコができた、一目惚れだ、お願いだ、つまり、協力の要請だ」
「気持ち悪い、」そう言ったのはカノンじゃない。いつの間にか目を覚ましていたマリだった。マリは跡見を蔑む目で見ている。「アンタ、一体何歳だと思っているわけ、好きなコが出来たなんておっさんの台詞じゃないでしょ、うら若き乙女の台詞よ、全く、信じられないくらい気持ち悪いんだから、朝から不愉快にさせないでくれる!?」
「ああ、確かに、カノンの言うとおりだ、僕が一目惚れだなんて自分でも気持ちが悪いくらいだ、どうやら普通の精神状態じゃないみたいだ、神経細胞が全て入れ替わったような気もする」
跡見はマリが起きたことに気が付いていないようで熱っぽく夢中で話した。おそらく目を擦って欠伸をしているベニにも気づいていないだろう。言葉通り、跡見は真剣なのだろう。信じられないことだが、気持ち悪くてふざけて三十六歳まで魔女を弄んでいた男は、信じられないことだが(何回も言う)一目惚れをしてしまって真剣なようだ。もう、本当に、気持ちが悪いことこのうえない。きっと、マリに罵倒されることが嫌で、すでにすっかりマリには伝達されてしまったが、カノンに打ち明けたのだ。なんて気持ち悪いんだろう! 叫びたかったがしかし、あまりの気持ち悪さにカノンは声が出なかった。
ベニはテーブルの上のリモコンを手にして操作して、神棚の横の高い位置にあるテレビを起動させた。どのチャンネルも朝のニュースの時間だ。ベニは半目でブランケットを抱きしめながら、ぼうっとテレビに視線を向けている。一方、マリは気持ち悪いといいながら、前のめりだ。彼女は極端な男嫌いで、跡見の隙を常に伺って壊滅させようと企んでいる恐ろしい魔女だ。カノンの比じゃない。
背後で騒がしいテレビの音にも気付くことなく跡見はカノンに向かって続ける。「昨日のことだ、昨日の夜のことだよ、カノン、僕はね、先日明方女学院で乗せた魔女をもう一度タクシに乗せたくて、村崎邸まで向かったんだ、そしたら何が起こったと思う、戦闘だよ、戦闘があったんだ、空中戦だ、いや僕とはまるで関係ないんだ、とにかく僕はそれを見ていたんだ、空中戦は一瞬で終わったよ、凄い魔法を見たね、凄い水の魔法だった、僕も今まで見たことのない新しい魔法だよ、僕はその魔法を編んだ魔女を追いかけることにしたんだ、魔女は明方市の公会堂の屋上に降り立った、僕は車を建物の北側に止めて、階段を駆け登った、鍵をチューインガムで壊して、屋上に出るとちょうど雪が強くなっていたね、二人の初めての場所、悪くない、絶妙じゃないか、そう思った、彼女は貯水タンクの上にいた、すぐに分かったのは彼女が群青色に、そして白く輝いていたからなんだ、本当に不思議だ、彼女はペタンと座って虚ろで純粋で煌めく瞳を空に向けていた、まるでこの雪は彼女が降らせているんじゃないかって思うほど、幻想的で、キネマみたいだった、僕はゆっくりと貯水タンクに近づいて音を立てないように梯子を登った、影から頭を出すとちょうど彼女の背中が見えた、左手の薬指に輝くブルーの指輪も見えた、僕はしばらく彼女の後ろ姿を眺めていたんだ、身動きは取れなかった、これからどうやって彼女に近づこうか考えたんだが、全く浮かばない、浮かぶのは彼女の水の魔法に呑まれる光景ばかり、そんな風に全く生産的じゃないことばかり考えているうちに彼女は後ろを振り向いた、目が合った、しまったと思った、完全に油断していたんだ、意表を突かれた、まさに、しかし、もう引けない、僕は貯水タンクの上に登って彼女に近づいた、彼女は無表情だった、絵画の中の魔女のように表情を変えなかった、僕は近づいて確か、寒いですね、と言ったんだ、なんて気持ち悪いことを言ったんだろうってすぐに後悔した、でもそれ以外に言葉が見つからなかったんだ、幸いにも、幸いかどうかは分からないけれど、そのときの僕はとりあえずよかったと思った、何がよかったのか曖昧だったけど、そう思ったんだ、彼女は僕を無視した、再び空を見ている、近くで見るとその姿はさらに魅惑的に移った、一刻も早くアトリエに連れていかなきゃと思ったんだ、絵を描きたいと思った、僕は彼女に近づいて彼女の肩にそっと触れた、そしたら、どうなったと思う?」
「貯水タンクが爆発した」カノンがそう答えたのは、公会堂の屋上の無惨な様子がテレビ画面に映し出されていたからだ。貯水タンクは枯れた観葉植物のような有様だった。水が暴れた様子がよく分かる。敷かれたパイプやフェンスも外側へ向かって捻れていた。
「よく分かったな、エスパか、カノンは」
「……よく生きていましたね」
「ああ、きっと神様が近くにいたんだよ、」跡見は調子が戻ってきたのか、いつものように薄ら笑う。「つまり伊達エリコ様が近くにいたんだ」
「死んでくれればよかったのに、気持ち悪い」
「酷いなぁ、」言って跡見はテーブルの上のマグカップ手にしてから、口を半開きにしてマリを見た。二秒の沈黙の後、長髪をかきあげ、再び薄ら笑いを始める。「……なんだ、起きていたなら、挨拶をしてくればよかったのに、……参ったなぁ」
「それじゃあ、お疲れさまでした、」マリは言って立ち上がった。ブランケットを畳み、ソファに置く。「さ、ベニ、行きましょう」
「うん」ベニは頷いて立ち上がった。
「ちょっと待って、」跡見が聞く。「行くってどこに?」
「アンタには関係ない」
「仕事はどうするんだ? 今日は土曜日だ、君たちを指名しているお客は、たくさんいるんだから」
「なんでもいいから理由を作って断っておいて、ね、お願い、」マリは五指を胸の前で組んで、首を傾けて微笑む。「お願いよ、クウスケ君」
「いや、駄目だ、信用問題だ」
「……あっそ、」マリは簡単にお願いのポーズを終了させ、跡見を睨む。「べぇ」と真っ赤な舌を出す。跡見は観念した様子で目を瞑って首を横に振った。マリはカノンに向かって顔の横で手を振る。「じゃあね、カノン、あとはよろしく、行くよ、ベニ」
「うん」
マリとベニは手を繋いで仲良く階段を降りていく。
「……ええ!? ちょっと待ってよ、」カノンは少し反応が遅れてしまった。「わ、私も、連れってってよぉ!」
「駄目だ、」跡見はカノンのスカートの裾をギュッと摘んでいた。逃げるためにはスカートを脱がなきゃならないと思った。でも、そんな恥ずかしいことは出来ない。跡見にパンツを見せるなんて、嫌だ。「カノン、とにかく、話の続きをしよう」
「私、帰って眠るつもりだったんですけど、予約、午後からだし」
「午後まで作戦会議だ、カノン、僕とあの素敵な魔女の恋のキューピットになってくれないか?」
「そんなの死んでも御免だ!」カノンはヒステリックにがなった。
「大丈夫」
「何が、大丈夫なんだよ!」カノンの言葉は乱暴になる。
「彼女の肩に発信機をつけておいた、」跡見は「くくっ」と愉快そうに声を漏らした。「だから、大丈夫だろ?」
「気持ち悪いんだよ!」カノンは跡見の左頬を叩いた。「発信機なんて!」
跡見は動じない。
瞳は子供みたいに、輝いている。