第二章②
村崎邸別邸の消火活動が完全に終わった後、警察署に戻り事後処理を済ませ、那珂島ナナは自宅マンションに戻ってシャワーを浴びて眠った。すぐに目が醒めた。一時間も寝ていないが、頭は回転していた。様々なことを考えた。すると眠れない。まだ起きる必要はない。那珂島は起きた。部屋は散らかっている。ベッドの周りには服と下着とベイビィドールと恋愛雑誌が転がっている。それらを見回し、本格的にメイドさんを雇おうかどうか悩んでお腹が空いていることに気付く。冷蔵庫を開けて、中にビールしかないのを確認してから、パジャマの上からダウンジャケットを着て、外に出た。まだ外は暗い。那珂島はマンションの一階に入っているコンビニに行って籠いっぱいに食料を詰め込んだ。コレだけあればパーティが出来る。レジ打ちをしているのは高校生くらいの女の子で、那珂島は何度か見かけていた。彼女の印象は暗くて不気味。伸ばしっぱなしっていう感じの長い黒髪と青白い顔色はまさに和製ホラーの幽霊。まあ、そういう人種は少なからずいるが、那珂島が変わっているなって思うのは、口元が真っ赤であるという点だ。出血したばかりの血の色みたいな濃い口紅を塗っている。それと目を縁どる濃いアイシャドウ。あと二ミリ太くすればエジプトの女王様だ。那珂島が彼女のことをなんとなく覚えているのはその個性的な化粧のためだった。ただ幽霊みたいな女の子ならばきっとすぐに忘れてしまうだろう。とにかく、早朝のコンビニにいるのは彼女と那珂島だけだった。
那珂島はちらっとレジの方を見る。
彼女はぼうっと濃い色の唇を半分開けて呼吸をしている。
当たり前だけど。
那珂島はティラミスを手にしながら彼女のことを考えていた。
少し大胆な気分になって妄想してしまった。
するど、彼女と会話をしなければ後悔する気がした。
那珂島はティラミスを籠いっぱいの食料のメンバに加えてレジに向かう。
籠をレジに置く。
「……いらっしゃいませ、」彼女の声は本当に聞こえたのか、はたまた幻聴なのかは分からないけれど、とにかく彼女の声は小さかった。表情も笑顔とは程遠い無表情。近くで見ると、まあ、愛嬌のある顔をしている。奇妙な化粧を洗えば素顔は可愛らしいのかもしれない。コンビニの業務を終えた彼女はもしかしたらよく笑う女の子なのかもしれない。彼女はずっと同じ表情で雑に商品をスキャンして袋詰めしていく。名札を見る。平戸ベニ。平戸ベニ。袋詰めが終わる。一番大きなビニール袋二つ分になった。「……一万二百五十八円です」
「ねぇ、君、」那珂島は二万円をカウンタに置きながら言う。「時給いくらで働いてるの?」
ベニは不審な目をして何も言わずに会計を処理する。「……九千七百四十二円のお返しです」
「私、このマンションの住人なんだけど、うちでメイドとして働かない?」
ベニは意味が分からないという風な無表情で那珂島を見ている。
「ここの時給の三倍は出してあげる」
ベニの表情に変化があった。もしかしたらいけるんじゃないかと那珂島は思う。「別に住み込みで働いてって言ってるんじゃないわよ、適当な時間に洗濯と掃除と料理をしてくれればいい、たまにマッサージをたのむかもしれないけれど」
ベニは表情を困らせている。「……おつりです」
「四〇五号室よ、四〇五号室、働いてくれるっていうならベルを鳴らして、私に会いに来て、」那珂島はビニール袋を持ってコンビニを出る。「それじゃあね、ベニちゃん」
「あ、待って!」ベニは大きい声を出して那珂島を呼び止めた。なんだ、声が出ないわけじゃないんだ、と那珂島は思う。「おつり!」
「とっといて、」那珂島は首だけ後ろに向けて言う。「よく働く女の子、お姉さん、嫌いじゃないから!」
那珂島はオートロックを解除。エントランスの小さな噴水の脇を通ってエレベータに乗り込む。ボタンを押してすぐに後悔していた。滅茶苦茶恥ずかしいことをしたと後悔していた。もうあのコンビニで買い物出来ないなと思った。きっとベニは私を酔っ払いか何かだと思っているのだろうなと思って、顔がピンク色になる。本当に恥ずかしい。忘れよう。エレベータから降りて自分の部屋に戻り、買い込んだお菓子の封を開けて食べながらパソコンの電源を入れる。コンビニの出来事は既に忘れた、と思い込む。インターネットに接続。気になるキーワードを入力。
『雪中遊禽連盟』
室町、あるいは江戸時代の日本画がヒットする。雪中遊禽図。雪の降る中で戯れる鳥たちが描かれている絵画にそういう名前が当てられている。那珂島はしばらく画像を見ていた。花升エナガ、それから三人の赤毛の魔女たちとの関連性は、見られない。無理にあげるとすれば、エナガの氷、雪、そういう取り留めのないものに過ぎない。キーワードを変更。
『南蘋型録』
沈南蘋。これでヒットする。中国の画家のようだ。日本との関わりは、長崎に二年半滞留。円山応挙、伊藤若冲、江戸時代中期の画家に影響を与えたようだ。伊藤若冲の作品に雪中遊禽図がある。そのつながりはなんなんだろうと考えるが、思考が空回り、途端に収束、ストップするだけだった。沈南蘋についてのページをいくつか閲覧した。彼が与えた影響や彼の花鳥画の解説が主だった。型録の字並びを見つけることは出来ない。魔具との関連もない。南蘋型録は一見して魔具のリストだった。その判断に間違いはないだろう。問題はそのリストの意味である。村崎組の空閑、そしてスズのブランケットを初め、様々な百九の魔具に番号が当てられている。魔具の並びに規則性は認められない。きっと中国語が読めなければ何もかも分からない。リストには中国語で魔具の解説が掛かれていたのだ。それぞれ四行程度。南蘋型録は本日中にS大に届けられて、一か月後に全て翻訳されて帰ってくる予定だ。あいにく警察に中国語に堪能な人材はいなかった。それゆえ仕事が遅い大学の力を借りるしかない。大学は警察をいつだって見下していやがる。
「はあ、」解決に時間が掛かると思うとイライラしてきた。ナナはシガレロに火を点けて吸った。禁煙中であることを思い出して二口目を躊躇うがテーブルの上で裏返った灰皿を引き寄せて口を付ける。「……ふぅ」
那珂島はエナガに全てをしゃべってもらうのが一番の近道だと思った。
しかし、本当に、ミステリィに紛れ込んでしまったように、未来のことが分からない。
だから不愉快。
シガレロを灰皿に押し付ける。
しばらく検索を続けていると眠気が来た。那珂島はパソコンの電源を入れたままベッドに横になった。はっとして目を覚まし、枕元の時計を見るといい時間だった。那珂島はシャワーを浴びて短い時間で化粧を済ませ灰色のスーツを着た。ダウンジャケットを羽織り、首にマフラーを巻いて自宅を出た。マンションのエントランスを出てから気付く。
「あ、しまった、」那珂島は額を押さえた。「箒、忘れたぁ」
「の、乗りますか?」
「えっ?」後ろから声がして振り返ると彼女がいた。コンビニのアルバイトの平戸ベニがいた。彼女はコンビニの制服じゃなくて、古風な、昔ながらの、レトロな黒いセーラー服姿だった。スカートがとても長い。とても懐かしい。そう思ったのは明方女学院大学付属高校の、確か五年前に廃止された制服だったからだ。つまり、那珂島が高校生だった時の制服。それはベニにとてもよく似合っていた。それとモコモコの紅色のマフラーを首に巻いている。まるで大蛇に首を絞められているみたい。「乗りますかって、君の後ろに、ってこと?」
「はい、」ベニは那珂島から視線を逸らして頷く。その仕草は『当たり前だろっ』っていう苛立ちだろうか。それとも綺麗なお姉さんに見られて恥ずかしいのか。はたまた横を幽霊でも通り過ぎたのだろうか。とにかく、彼女は箒を持っている。魔女だ。黒髪。つまり、風の魔女だ。意外だ。いや、ベニほど魔女らしい雰囲気の女の子も今時いないだろう。箒が似合う魔女だ。ベニはマフラーを解いて見せてくれた。首にチョーカー。そしてピンク色のベル。ピンク・ベル。つまり女性専用キャブズだ。「あの、距離に応じて料金は頂きますけど、あ、でも、おつり貰ったし、今回は、タダでいいです」
「うん、乗る、それとおつりとコレは別、お金も払うよ、偉いね、コンビニでバイトして、キャブズで働いて、」那珂島はルンルンしていた。でも、不思議だった。不思議だ。夢を見ているような気もする。「アルバイト、今終わったところなの?」
ベニは首を横に振って言う。「一時間前に上がりました」
「え、じゃあ、えっと、なんで?」どうしてベニはここにいるのだろう。
「部屋の番号、」ベニは消え入りそうな声で言う。「部屋の番号、忘れちゃったから、その、待ってたんです」
「え、それじゃあ、つまり、」那珂島は手の平を合わせた。「私のメイドさんになってくれるの?」
ベニは無言で頷いた。
那珂島は満面の笑み。きっと久しぶりに満面に達した。ベニに抱き付きたい衝動に駆られた。しかし思いとどまる。警察官だという事実が理性を叩き起こしてくれたのだ。ベニはとても真面目な顔をしていた。無表情ともいう。紅色の唇を動かしてベニは那珂島に確認する。「……時給三倍はホントですか?」
「うん、出す、出す」
那珂島は特殊生活安全課勤務の手当てによって裕福な暮らしをしている。このマンションの家賃だって支給される。那珂島は一般的にお金持ちにカテゴライズされるくらいの貯金もある。コンビニの時給の三倍くらいポンと出せるのだ。
「コンビニとキャブズと兼業してもいいですか?」
「構わないわ」
「出来れば住み込みで働かせて欲しいです」
「うん、空き部屋は二つあるし、」那珂島は少し、イケない想像をしてしまう。人肌が恋しいのだ。「全然オッケーよ」
「……契約書とかは?」
「いらない、いらない」
「もし、私がその、ご主人様の壺を割ったとして、」
「壺って、」那珂島は可笑しかった。「大丈夫、大丈夫、壊しても請求したりなんてしないし、高級な壺なんてないし、絵だってないし、フィギュアだってないから安心して、他に聞きたいことは?」
「……ご主人様のお名前は?」
「那珂島ナナよ、」那珂島は微笑む。「無理して、ご主人様とか言わなくていいからね」
「いいえ、全然、無理なんて、」ベニはほんの少し微笑んだ。微笑むと可愛い。「あっ、お時間は大丈夫ですか? どこへ飛べばいいでしょう?」
「ああ、うん、南明方署に」
「……免許の更新ですか?」
「ああ、私、こういうものなの」
那珂島は警察手帳をベニに見せる。
ベニは僅かに驚いたように目を大きくした。凄いとか、カッコいいとか、素敵とか言ってもらいたかったけれど、ベニは顔を無表情に戻して箒に跨って那珂島を乗せて飛んだ。