パンドラの箱
独裁者は、辞書からある言葉を抹殺するように命じた。言葉が消えると、実体もなくなる。
言葉が抹殺されてしかるのち、異様な現象が世界各地で起こり始めた。自殺者が増加したのだ。私はその不可解な現象を研究するよう独裁者から命令された。
時期から考えて独裁者があの言葉を消したからだと思われるが、私にはなぜあの言葉が消えて、そんな現象が現れるのか理解ができなかった。
各地で自殺者だけが増え続けるにも関わらず調査は停滞していた。そんな時、私の家に小包が送られてきた。中にはビデオテープが入っており、差出人は海外の大学で研究している古い友人だった。
私は訝しみながらもそのテープをデッキにセットした。ブラウン管に映った友人は襟を整え、しばらくして話し始めた。
「やあ、久しぶりだね。突然のことで驚いただろうと思うけど、君に教えたいことがあってこのテープを撮ってる。僕はね、君が調べてる自殺増加の原因が分かったんだよ。
ふふ、君の驚く顔が目に浮かぶよ。君は冷静に見えてプライドが高かったからね。さて、さっそく本題に入ろうか。
君もこの現象は独裁者がこの世から『絶望』を消し去ったことが始まりだということは気づいていると思う。それは近年の自殺者の数を調べたデータを見れば明らかだ。けれど、なぜ『絶望』を消したことで自殺が増えたのか分からないんだろう。さあ、ここで発想を逆転させよう。『絶望』できないということはどういうことか?
何の苦労もなく今の職についた君には理解できないかな。じゃあ、私から答えを教えてあげよう。『絶望』できない人たちはね、希望を持ち続けるんだよ。
そんなことは当然だ、君はそう思ってるだろう。でもそれが常人には辛いことなんだ。考えてみてくれ、目の前に現実不可能な夢があるとしよう。そうだな、天に届く塔を作ろうとして崩れてしまったバベルの塔を思い浮かべてくればわかりやすいかな。
残酷な話だよ。『絶望』がなくしてしまった人々は崩れたバベルの塔が作りなおさなければならない。永遠に建てられない矛盾を抱えながらも、希望しかないあまりに他の方を向くことができなくなったんだ。
ある日、自殺した人たちはそんな運命に気づいてしまった。永遠に建てることのできないバベルの塔を、希望を持ち続け作らなければならない地獄に。そして、残ってしまった希望に『絶望』もできず、人々は狂って自分を正当化するか、自らの死しか逃げ道がなくなってしまった。これが自殺者増加の原因なんだ」
テープが切れ砂嵐がうるさく音をたてた。テレビのスイッチを切る。暗くなったブラウン管に古い友人の顔が映っていた。