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異国令嬢の作法検証〜相談女、その振る舞いは正当ですか?〜

作者: 榎本モネ
掲載日:2026/04/22

一万字以内での完結を目指し、いつもより背景描写を減らし、表現を簡略化しています。


 私の婚約者に“だけ”相談する女がいる――しかも、繰り返し。


 隣国からの輿入れとは、飾り立てられた婚礼だけではない。それは条約の延長であり、外交の一手であり、そして――互いの国が互いをどう扱うかを測る試金石でもあるのが一般的だ。

 私ミルルは、華やかな式を迎えるよりも前に、この国へと招かれた。公爵家の客人として。そして未来の公爵夫人として。

 慣習の違いで軋轢を生まないように、不用意な一言で関係を損なわないように。

 

 そんな前提があるからこそ、私は“見ている”。何を言うべきか。何を言わざるべきか。どこまでが文化で、どこからが逸脱なのか。

 

 だから。

 

「……また、いらしているのね」

 

 回廊の柱の陰に足を止めたのは、偶然ではない。

 中庭に面した石畳の上。午後のやわらかな光の中で、婚約者――ルシアンが誰かと向き合っている。相手は一人の女性だった。年は私とそう変わらないだろう。姿勢は崩しすぎず、けれども貴族女性特有の“距離を保つ緊張”がない。気楽そうで、自然体。――そして、近い。

 

「ちょっとだけいいですか。これ、誰に聞けばいいかわからなくて」


 軽い声だった。遠慮の形を取りながら、断られる前提を持っていない言い方。相手が応じることを当然としている、柔らかな押し。

 ルシアンは一瞬、言葉を選ぶように視線を落とす。


「……今でなければならない内容か?」

「急ぎじゃないです。でも、こういうの感情抜きで見れる人の方がいいかなって」


 そう言って、彼女は半歩、距離を詰めた。無意識の動きのようでいて、結果として“近すぎる位置”に収まる。

 その距離に対して、ルシアンはわずかに肩を強張らせた。彼女の近寄りに対して、少し身を引いている。

 

「……話してみろ」

 

 結局、そう応じてしまう。

 彼の性格は理解している。誠実で、線を踏み越えることはしない。けれど、押しの強さには少し弱い。“助けを求められると断れない”という種類の優しさ。

 

「ありがとうございます。大した話じゃないんですけど」


 女性は肩の力を抜いたまま、言葉を続ける。


「正直、あの人ちょっと面倒で。悪い人じゃないんですけど」


 軽く笑いながら、他人の話をする。その声音には、罪悪感はほとんどない。

 

 ――相談、なのね。

 

 内容そのものよりも、私はその“構造”を見ていた。

 誰にでもできる相談ではない、という建前で、誰にでも許されるわけではない距離に踏み込む。それを、彼女は自然に行っている。

 

 そして何より、それが、一度きりではないことを、私はすでに知っていた。

 

 

 

 夜。書類仕事を終えたルシアンと、応接室で向かい合う。灯りは落ち着いた色で、窓の外はすでに暗い。静かな時間。こういうときこそ、人は本音に近づく。

 

「ひとつ、お聞きしてもよろしいかしら」


 茶器に手を添えたまま、私は言った。声音はあくまで平坦に。疑問として、純粋に。

 

「どうした」


 ルシアンは顔を上げる。いつも通りの落ち着いた表情。リラックスしている彼に、私はそっと口を開く。

 

「今日、中庭でご一緒だった方についてなのだけれど」

 

 その瞬間。彼の視線が、ほんの一拍だけ揺れた。私はあえて、その揺れをなかったことにするように続ける。

 

「なぜ彼女は、あなたにばかり相談を?」

 

 責める響きは乗せない。ただ、事実に対する疑問として。

 

「……それが、この国のマナーなのかしら?」

 

 静寂が落ちた。ルシアンは眉を寄せ、言葉を探す。

 

「いや、そういうわけでは……」

 

 はっきりとした否定。曖昧さを残さない、明確な線引き。

 

 ――よかった。

 胸の奥で、静かに整理する。それはこの国の慣習ではない。彼自身も、それを“正しいもの”とは認識していない。


「そう……では」

 

 私はカップを静かに置いた。わずかな音すら、会話の一部にするように。

 

「個人的に親しい間柄、ということ?」

「違う。……距離の取り方は、正直悩んでいた」

 

 即答だった。迷いも、含みもない。 

 

「そうなのね。教えてくださってありがとう」

 

 私は微笑んだ。それ以上は、何も言わない。あの行動は、マナーでもなければ、特別な関係に基づくものでもない。その確認が取れただけで、今の時点では十分だった。

 ルシアンは、何か言いかけて、やめた。説明するべきか迷い、けれど言葉を選べない――そんな沈黙。

 彼からの視線を感じながら、私はそっと茶器を口元に当てた。

 

 

 翌日から、私は“見ないふり”をすることにした。

 

 朝の回廊。昼の中庭。夕刻の書庫前。彼女は、思っていた以上の頻度で現れる。

 

「また来ちゃいました。すみません、頼りやすくて」

 

 軽やかな声。謝罪の形を取りながら、まったく遠慮していない響き。

 

「他の人だと感情論になるから、あなたに聞いちゃうんです」

 

 一度、二度ではない。三度、四度と続けば、それは選択ではなく習慣だ。

 内容もまた、興味深い。

 

「誰にも言えなくて、でも溜めるのも無駄じゃないですか」

「正直、ルシアン様は話しやすくて」

 

 軽い調子で語られる、他者の評価。そしてそれを受け止める側として、彼を固定している。

 さらに、茶会の席で、私は直接彼女――ユリアナの言葉を聞いた。

 

「私、あんまり女の子同士のノリ得意じゃなくて」

 

 さらりとした口調。誰かを強く否定するわけではないが、線は引く。

 

「変に気遣うより、普通に話せる人の方が楽なんですよね」

 

 そう言って、視線は自然に男性側へ向く。そこに迷いはない。

 ――なるほど?

 

 

 数日後。私は公爵家の侍女に、何気ない調子で問いかけた。

 

「この国では、婚約者がいる異性の方に私的な相談を重ねるのは一般的なの?」

 

 侍女は一瞬言葉を失い、それから首を横に振る。

 

「いいえ、そのようなことは……通常はありえません」

 

 少し声を潜めて、続ける。


「むしろ、誤解を招く振る舞いとして避けられるかと」

 

 別の側近にも同じ問いを投げる。返答は、変わらない。つまり、ユリアナのあの振る舞いは、この国の文化ではなく、許容された礼儀でもない。ただ、誰も、はっきりと言葉にしていないだけ。

 私は静かに息を吐いた。何度も繰り返されると、さすがに見過ごせない

 ――ならば、どう問いを重ねるべきか。どの順序で確認すれば、誰も否定できない形になるのか。



■■■


 観察を続けて、数日。結論を急ぐ必要はない。むしろ、急げば形を崩す。

 まず必要なのは、“彼女自身の言葉”だった。誰かの評価でも、第三者の証言でもない。ユリアナがどう考え、どう正当化しているのか。それを、公の場で引き出すこと。

 その機会は、思ったよりも早く訪れた。

 

 午後の小さな茶会。格式ばったものではなく、数名の貴族が顔を合わせる程度の穏やかな集まり。こうした場では、人は気を緩める。そして――本音に近い言葉を選ぶ。

 私は席に着きながら、自然な流れで彼女の正面を選んだ。視線が合う。ユリアナは一瞬だけ不思議そうにしたが、すぐに軽く笑った。

 

「初めてちゃんとお話ししますね。こういう場、あまり得意じゃなくて」

 

 気負いのない言い方。あくまで自分のスタンスを先に提示する。

 

「そうなの?」


 私は柔らかく返す。公爵家出身で、この国の公爵夫人になることが確定している私は、この場では最も身分が上だ。私の国と同様に、この国でも、身分が上の者から声をかけるのがマナーのはずだけど。

 周囲が少し、ざわめいて私たちのやりとりを見守っている。きっとユリアナとの会話が終わったら、主催者から私に対して、謝罪の言葉があるだろう。


「ええ。形式ばったやり取りって、正直疲れてしまって。得意じゃないんです」


 肩をすくめる仕草。


「その分、話が通じる人とは楽なんですけど」

  

 私は軽く頷き、カップに口をつける。そして、ごく自然な調子で言葉を差し込んだ。

 

「あなた、とても頼り上手なのね」

 

 一瞬、彼女の視線がこちらに定まる。否定ではなく、評価として受け取らせる言い方。

 

「そう見えます?」

「ええ。必要なときに、必要な方へきちんと相談しているように見えるわ」

 

 少しだけ間を置いて。

 

「この国では、男性にだけ相談するのが一般的なの?」

 

 あくまで、文化への疑問として問いかける。私がこの国出身ではないこと、そしてルシアンの婚約者であることは、社交界で周知されている。首をかしげる私に対して、彼女は小さく笑った。

 

「一般的かどうかはわかりませんけど……私はそっちの方が楽ですね」

 

 迷いのない答え。

 

「女の人同士だと、どうしても気を遣うじゃないですか。変に裏読んだり」


 軽く指先でカップの縁をなぞりながら続ける。


「その点、男の人の方が話がシンプルで。余計なこと考えなくて済むので。私、さばさばしているから、男の人の方が話が合うんです」

 

 言葉の調子はあくまで淡々としている。誰かを強く否定するわけではない。けれど、はっきりと線は引いている。

 

「まあ……そう」

 

 私はわずかに首を傾げた。驚いたようにも、考え込んでいるようにも見える角度で。

 

「では、この国では……同性との関係構築が難しくても、特に問題にはならないのね?」

 

 静かな問い。空気が、わずかに変わった。

 ほんの一拍。それまで滑らかだった会話の流れが、微かに引っかかる。話を耳に入れていた周囲の視線が、意識的か無意識か、こちらへ向けられた。

 彼女は一瞬だけ言葉を選び――それでも、崩さなかった。

 

「そこまで大げさな話じゃないと思いますけど」


 小さく笑う。


「単に合う合わないの問題というか。無理に合わせる方が不自然ですし」

 

 ――予想通り。

 

「なるほど」


 私は素直に頷く。否定はしない。評価もしない。ただ、一つずつ確認する。

 

「それに」

 

 私は、ほんの少しだけ言葉を重くした。

 

「婚約者のいる方に、個人的な相談を繰り返すのも……」

 

 彼女の視線が、わずかに動く。

 

「この国では、礼儀に反しないの?」

 

 今度は、はっきりと沈黙が落ちた。

 彼女はすぐには答えなかった。ほんのわずかに、指先の動きが止まる。そして、軽く息を吐くようにして。

 

「……あまり意識したことはなかったですね」

 

 逃げでも肯定でもない、曖昧な位置。

 

「相談してるだけなので。そこまで気にすることでもないかなと。……あ、ルシアン様と私の関係、疑ってます?」

 

  “意識していない”。それが、最も都合のいい答え。そして、関係についての言及は、否定しているようで、匂わせている。彼女の笑顔の歪みが見て取れる。

 当事者の私には伝わる、彼女の優越感。さて、周囲には伝わっているのかしら。 

 

「いいえ?まったく。教えてくれてありがとう」

 

 私は微笑み、話題を切り替えた。それ以上は、踏み込まない。今はまだ、“形”を整える段階なのだから。

 私が受け流したことに、彼女は苛立ちを覚えたようだ。その様な空気は意に返さず、私は美味しいお茶菓子を口に運んだ。



■■■


 数日後。舞踏会ほどではないが、それに近い規模の夜会が開かれた。貴族たちが広く集い、情報と印象を交換する場。こういう場では、一つの言葉が、そのまま評価になる。

 私は会場を見渡しながら、タイミングを待つ。そして――予想は外れなかった。


「ルシアン様、ちょっとだけいいですか」

 

 柔らかな声が、ルシアンに向けられる。あの日と同じ距離。あの日と同じ、遠慮のない自然さ。これまでは堂々としつつも、まるで隠さなければいけない関係かのように話しかけていたのに、今日は随分と大胆だ。

 ーー私の挑発が効いたらしい。

 

「それは、私でなければならない話か?」

 

 ルシアンの返答は、以前よりもわずかに硬い。隣に私がいるのだから、当然だ。

 

「他の人に話すと面倒になりそうで…ルシアン様にしか相談できないんです」

 

 変わらない理屈。変わらない選び方。

 

「ごめんなさい、少しよろしいかしら?」

 

 二人の間に、自然に入る。無理に割り込むのではなく、あくまで“会話に加わる”形で。二人の視線が集まる。私はそのまま、穏やかに続けた。

 

「先日から気になっていて……確認させてほしいの」

 

 彼女の表情が、わずかに強張る。ルシアンは驚いたようにこちらを見るが、言葉は挟まない。

 

「この国では」

 

 私はゆっくりと言葉を置いた。

 

「婚約者がいる方に、繰り返し私的な相談を持ち込むことは、正式な礼儀として認められているの?」

 

 ざわり、と空気が揺れた。近くにいた数人が、はっきりとこちらを見た。遠巻きにしていた視線も、静かに集まってくる。

 彼女は一瞬、言葉を失う。

 

「え……そんな大げさな話じゃ……」

 

 小さく笑って、流そうとする。だから、私は続けた。

 

「それとも」

 

 ほんのわずかに、間を詰める。

 

「特別に親しい関係ということ?ーーでも」

 

 さらに一歩。

 

「先日、ルシアンはそれを否定なさっていたわ」

 

 もう一つ、逃げ道を塞ぐ。

 沈黙が落ちた。先ほどまで軽やかだった空気が、形を変える。誰も、軽々しく言葉を挟めない。

 私はただ、首を傾げたまま待つ。あくまで――答えを求める立場として。


 沈黙は、長くは続かなかった。けれど、誰も、軽々しく言葉を選べる空気ではない。彼女は視線を揺らしながら、わずかに口を開いた。


「……普通に、相談していただけで」

 

 それは弁明としてはあまりにも薄い。だが、それ以上の言葉を選べないことも、また明白だった。

 私は頷いた。あくまで、その言葉を受け取るように。

 

「ええ。そうね」

 

 否定はしない。評価も乗せない。ただ、整理する。

 

「マナーでもなく、特別な関係でもないのに」

 

 ゆっくりと、言葉を積み上げる。一つひとつ、先ほどまでの確認をなぞるように。

 

「特定の男性にのみ、繰り返し相談を持ち込むのは……」

 

 わずかに間を置く。誰もが続きを待つ、その呼吸を感じながら。

 

「私の国では、“節度を欠く振る舞い”と評価されるの」

 

 静かに、言い切った。ざわり、と、今度ははっきりと、空気が揺れる。 

 私は、ほんのわずかに首を傾げる。

 

「この国では違うのなら、ぜひ教えてほしいわ」

 

 柔らかな声音。だが、逃げ道は一つも残していない問い。


 誰も、答えない。いや――答えられない。

 ここまで積み上げられた前提を、覆す理由がないから。マナーではない。特別な関係でもない。その上で繰り返されていた行動が、何に見えるのか。

 

 言葉にする必要すら、なかった。彼女の表情が、わずかに崩れる。それまで保っていた“自然体”が、ほんの少しだけ歪む。

 笑おうとして、笑えない。言い返そうとして、言葉が出てこない。

 

 私は、それ以上何も言わない。これ以上の言葉は、過剰になる。そして、言葉をかける必要もない。

 

 「……っ」


 彼女の表情が、初めてはっきりと崩れた。それまで保っていた“余裕”が剥がれ落ちる。


「そんな言い方、ずるくないですか」


 小さく、だがはっきりとした声だった。


「ただ相談してただけなのに、そこまで言われる筋合い……」


 言葉が荒れる。だが、それでも止まらない。


「そもそも、相談する相手くらい自由でいいじゃないですか」


 視線が、ルシアンへ向く。


「話が通じる人に頼るのって、そんなにおかしいですか?」


 ――選んでいる。その前提が、はっきりと表に出た。


「無駄に気を遣うくらいなら、ちゃんと価値のある人とだけ関わった方がいいと思うんです。ルシアン様は、そういう意味でちゃんとしてる人だと思いました」


 さらに距離を詰めるように、言葉を重ねる。


「立場とかじゃなくて、ちゃんと中身見てくれるし」


 そして。


「だから、隣に立つ相手としても、ちゃんと選ぶべきだと思っただけです」


 場の空気が、完全に変わる。それは“相談”ではない。


「最初から決まってる関係より、ちゃんと見て選ばれた関係の方が、よっぽど健全じゃないですか?」


 視線が、こちらに向く。わずかに歪んだ笑み。


「……何もせずに決まった人よりは」


 ――言い切った。その瞬間、私は小さく息を吐いた。


「そう。あなたの考え方は理解したわ」


 嫋やかに笑みを浮かべながら、彼女の言葉を丁寧に整理する。


「必要な関係だけを選び、不要なものは切る」


 一つ。


「その上で、自分にとって価値のある相手に近づく」


 二つ。


「そのために、すでにある関係や立場は考慮しない」


 三つ。


「――とても合理的ね」


 一拍。ほんのわずかに首を傾げる。


「ただ」


 静かに言葉を落とす。


「それは“関係を築く”のではなく、“利用する”というのよ」


 彼女の表情が固まる。否定しようとして――言葉が出てこない。私はそれ以上言わない。これで十分だ。

 沈黙を破ったのは、ルシアンの低く明確な声だった。


「ひとつ言っておきたい」


 今までのどの声音よりも、はっきりと線を引く響き。彼は一歩前に出る。それは庇うためではない。


「勘違いしているようだが」


 視線は、まっすぐ彼女に向けられている。逃げも、曖昧さもない。


「俺がお前の話を聞いていたのは、“役目”だ」


 その言葉に、彼女の表情が固まる。


「同じ職場の同僚から相談を持ち込まれた以上、人事担当として無下にはできない。だから聞いていた。それだけだ」


 一つずつ、関係を分解する。


「そこに、個人的な意味はない」

 

 はっきりと、線が引かれる。それは拒絶ではなく、定義だった。

 役割の明確化。立場の整理。だからこそ――覆しようがない。


「お前のやり方は理解はできる」


 ルシアンの言葉に、彼女がパッと顔を上げた。少し期待しているような表情。しかし、彼の表情から、肯定の意ではないことは読み取れたはずだ。彼女はすぐに顔色を失っている。


「だが、それは“信頼を築くやり方”じゃない。都合で近づいて、都合で距離を詰める相手は、信頼しない」


 そして。


「ミルルとお前は、根本が違う」

 

 彼女は何か言いかけて、止めた。これまでならば、軽く流せたはずの言葉が、今はどれも適切に思えないのだろう。

 やがて、誰かが小さく話題を変えた。音楽が再び意識され、会話が戻り、場はゆっくりと元の流れを取り戻していく。

 だが誰も、彼女に気安く声をかけない。距離を測るように、視線だけが一瞬触れて、すぐに離れる。それだけで十分だった。 

 

 

 その夜が終わる頃には、彼女の周囲から、自然と人が引いていた。露骨な排除ではない。ただ、必要以上に近づかない。一人、また一人と、彼女から視線を外していく。それだけで、十分だった。


 社交とは、距離でできている。その距離を誤った者は、それだけで居場所を失う。


 数日後。彼女の姿は、夜会から消えた。正式な理由は告げられない。ただ、「しばらく静養する」とだけ。

 後に伝え聞いたところによると、ユリアナは王宮で侍女として働き、中央貴族への嫁入りを希望していた。しかし、今回の件をきっかけに、中央貴族に嫁ぐには不適格と判断され、親戚筋の地方貴族に嫁いだそうだ。



  帰りの馬車の中で、ルシアンはしばらく何も言わなかった。やがて、小さく息を吐く。


「……不快な思いをさせてすまない」


 短い言葉。だが、その中に含まれるものは重い。

 ……正直に言えば、少しだけ、不快だった。私は窓の外に視線を向けたまま、ゆるやかに首を振った。


「いいえ。あなたが謝ることではないわ」


 静かに続ける。


「……ただ、少しだけ確認したかったの」

「何をだ?」

「あなたと、あの方の関係を」


 曖昧にしていたものを、曖昧なままにしないために。


「マナーでもなく、特別な関係でもないのに、あの距離を許しているのなら」


 そこで、初めて彼の方へ視線を向けた。


「――私は、考え直す必要があったもの」


 空気が止まる。ルシアンの表情が、はっきりと強張る。


「……それは」

「ええ。婚約者として、ね」


 静かな言葉。けれど、その意味は十分すぎるほどに伝わる。政略で結ばれた関係なら、仮面夫婦でもいい。だが――


「……あのとき。貴方は留学中に、何度も私を訪ねてきた」


 書庫で。庭で。時にはわざわざ理由を作って。


「“私自身”が欲しいと言ったのは、あなたよ」


 わずかに沈黙が落ちる。その静けさを、ルシアンが破った。


「……最初から、変わっていない」


 低く、はっきりとした声。


「お前が、最初に俺を断ったときから」


 一瞬、言葉の意味が遅れて落ちる。


「……断った?」

「覚えていないのか」


 わずかに、呆れたような気配。


「“結婚するつもりはありません”と、はっきり言われた。家にも、身分にも頼る気はない。自分で立つと決めている、と」


 ――ああ。そんなことも、言ったかもしれない。

 私は、伯爵家の妾の子だ。幸い、家族仲は良かった。本妻の子である兄も姉も、私を排除することはなかった。けれど――だからこそ、甘えるつもりはなかった。

 いずれ家を継ぐ者がいるなら、自分は別の道で立つべきだと。結婚に依らず、生きる術を持つべきだと。だから、勉強した。ただ、それだけのことだった。


「……あのときは、本気で断るつもりだったのよ」


 まさか自分が、公爵家の養女となり、他国に嫁ぐ立場になるとは思っていなかった。小さく呟くと、彼は短く息を吐いた。


「だろうな」


 即答だった。


「だから、興味を持った」


 迷いのない声音。


「何も持たない立場で、周囲に流されず、自分で道を選ぼうとする人間」


 一歩も逸れない視線。


「だから、何度断られても、諦められなかった」


 あまりにも当然のように言い切る。

 ――本当に、この人は。私は小さく息を吐いた。


「……口説き落とされた側としては、それなりに、期待してしまうの」


 ほんの少しだけ、柔らかく。ほんの少しだけ、個人的な温度を乗せて。わずかに、笑みを浮かべる。

 ルシアンは、しばらく何も言えなかった。やがて、低く、しかしはっきりと口を開く。


「……変わっていない」


 一拍。


「最初から、今まで、俺が選んだのは、ミルルだ」


 迷いのない断定。それだけで、十分だった――はずなのに。私は、わずかに首を傾げる。


「ええ。それは知っているわ」


 静かに、言葉を返す。


「でも、“選ばれた”だけでは、足りないの」


 ルシアンの眉が、わずかに動く。


「私は、“選ばれ続ける側”でいたいのよ」


 政略でも、偶然でもなく。自分の意思で。何度でも。


「……あなたは、それができる人だと思っているから」


 ほんの少しだけ、視線を和らげる。


「私は、ここにいるの」


 沈黙。だが、それは迷いではなかった。ルシアンは、はっきりと頷く。


「もちろんだ。何度でも、ミルルを選ぶ」


 即答だった。


「状況が変わっても、立場が変わっても」


 迷いなく、言い切る。


「お前を手放す理由にはならない」


 その言葉に、私は小さく息を吐いた。


「……そう。それなら、安心したわ」


 ほっと満足して微笑むと、ルシアンは私の頬を優しく撫でた。


 ――奪うつもりで近づくのなら。最初から、勝てる場所に立っていなければいけない。

 けれど、その場所に、もう私は立っている。そして、そこに立ち続ける理由を、彼は何度でも与えてくれる。


 馬車は静かに進む。外の灯りが流れていく中で、温かな彼のぬくもりが近づき、私はそっと目を閉じた。

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― 新着の感想 ―
どなたかも書いていらっしゃいましたが、婚約者がアカンのでは?自身で「距離感が困っている」と言いながら、その距離感を継続しているのは、相談女よりも厄介じゃないかしら。主人公に指摘されなければ、その距離感…
すみません、この相談女と公爵家嫡男の職場が一緒というのはどういう仕事なのか?最初に書いて貰わないとよく分からないのですが。あと、毎回公爵家の屋敷に押しかけ来るんですか?この人?おかしくないですか。
AI小説が流行っているから踏襲されたのか、使われているのかはわかりませんが、設定に無理がありませんか?職場だったの?学園だったの?結局職場だったのでしたらどうやってこの3人や他の同年代の女性が混在して…
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