「退屈な女だ」と婚約破棄されたので去りましたが、翌日から国政が止まったそうです。え、私はもう存じませんけど?
今朝、私は七年ぶりに寝坊をした。
窓から差し込む朝陽が頬をくすぐって、私はゆるりと目を開けた。時計を見て驚く。九時を過ぎている。普段ならばとうに王宮に出仕して、三通の書簡を処理し、宰相閣下のお茶を淹れ終えている時刻だ。
けれど今日は必要がない。昨夜、ユリウス王太子殿下に婚約を破棄された。
寝台の中で大きく伸びをした。七年分の凝りが詰まった背骨がぱきぱきと音を立てる。婚約は解消されたのに、肩凝りのほうは居座るつもりらしい。
天蓋付きの寝台から降りて、窓を押し開ける。三月の朝の空気が肌を刺した。冷たい──けれど胸の奥まで満ちるような清々しさだ。
「……良いお天気ですこと」
こんな穏やかな朝を迎えたのは、いつぶりだろう。
思えば十三歳で婚約が決まって以来、私の朝は常に書類の山と共にあった。
さて、お茶でも淹れましょうか。
本日は何の予定もない。何の締め切りもない。初めて自分のためだけに紅茶を淹れる贅沢な朝だ。
茶葉を選びながら、昨夜のことをぼんやりと思い返す。
◇
「クラーラ。僕は君との婚約を破棄する」
春の夜会の大広間。シャンデリアの明かりの下で、ユリウス殿下はそう宣言した。
隣には男爵令嬢のソフィアが寄り添い、まるで自分も被害者であるかのような表情を浮かべていた。
「君は退屈な女だ。七年もの婚約期間で、僕は一度も君の笑顔を見たことがない」
殿下の声が大広間に響き、視線が一斉に私へ集まった。
「笑わない、喋らない、何の取り柄もない。氷の公爵令嬢と呼ばれるのも当然だ。僕はようやく気づいたんだ──心から笑い合える人が、僕の隣にいるべきだと」
殿下がソフィアの手を取った。ソフィアは困ったように眉を下げてみせたが、殿下の指を握り返すその手つきには迷いのひとつもない。
正直に言えば、昨夜の私の頭の中はこうだった。
──来週の隣国との通商条約の改定案、あの第七条の関税率は据え置きにすべきか引き下げるべきか。引き下げた場合の国庫への影響は年間で銀貨三万枚ほどの減収。しかし輸入量の増加を見込めば二年後には回収可能。ただし北方の毛織物業者への配慮も必要で──。
「クラーラ、聞いているのか?」
「はい、殿下」
聞いておりますとも。
退屈な女で、笑わない女で、何の取り柄もない女──そう仰りたいのでしょう。
否定はいたしません。
殿下の前で私が考えていたことは、常に通商条約か予算案か外交書簡の文面であって、殿下との甘い語らいではなかったのですから。
「……承知いたしました、殿下」
私はスカートの裾を摘んで、完璧な淑女の礼を取った。
「七年間、お世話になりました」
「えっ……、それだけ?」
殿下が呆気に取られた顔をする。何かしらの反応を期待していたのだろう。残念ながら、私にはその手の才覚がない。
私は振り返ることなく、大広間を後にした。
振り返らなかったのは、大広間の柱の陰にいるであろうあの人と目が合ったら、表情が崩れてしまいそうだったからだ。
認めたくないけれど、少しだけ、泣きそうだった。
◇
回想はそこまでにして、私は淹れたての紅茶を一口含んだ。ダージリンのファーストフラッシュ。春摘みの青い香りが鼻腔をくすぐる。
通商条約も予算案も外交書簡も、もう私の仕事ではない。本来は宰相府の仕事だ。私はただ「王太子妃候補の勉強」の名目で出入りするうちに──正確には、誰もやらないから手を出しているうちに──十二の部署の仕事が私の机を経由するようになってしまっただけ。まあ、今後は本来の担当者がやるでしょう。きっと。おそらく。
二杯目の紅茶を淹れようとしたそのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
◇
「……朝から何用でしょう、レオン様」
玄関を開けると、予想通りの人物が立っていた。
レオン・ヴェルトール。
宰相閣下の一人息子にして宰相補佐官。銀縁の眼鏡の奥に灰色の瞳を覗かせる、王宮随一の切れ者。そして私が王宮で唯一、まともに会話をしていた方でもある。
「おはようございます、クラーラ嬢。本日は公務でお伺いしました」
「私はもう王宮の人間ではございませんが」
「ええ、存じております。ですが、こちらの書類にお目通しいただきたく」
レオン様はそう言って、小脇に抱えた革鞄から書類の束を取り出した。
見覚えのある書類だ。来週が期限の歳出報告書と、大使への返書の草案。先週、私が最後に赤を入れた仕事だった。
「それ、私の管轄ではもうございませんわ」
「奇遇ですね、王宮でも誰の管轄なのか判然としないようで。今朝、財務卿が宰相室に駆け込んでこられまして。歳出報告書がどこにもないと」
「所定の棚の三段目、左から七番目の仕切りに──」
言いかけて、やめた。レオン様がかすかに口の端を上げている。この方がこういう顔をするときは、大抵ろくでもないことを考えている。
「……私を王宮に引き戻そうという策略でしたら、お断りいたします」
「まさか。ただの事実報告です。そうそう、紅茶の良い香りがしますね」
「……お入りになりますか」
「公務の合間に一杯だけ」
公務ではないでしょうに。
けれど私は、この方を追い返す気にはなれなかった。
客間に案内し、お茶を淹れる。レオン様は窓際の椅子に当然のように座った。「書類の確認」の名目で何度も訪れているこの方は、私の自宅でもすっかり勝手を知っている。
「ダージリンですか。贅沢な朝ですね」
「婚約破棄の翌朝ですから、これくらいは」
「同感です」
レオン様が紅茶に口をつけ、ほんの少しだけ目を細めた。この方は砂糖もミルクも入れない。けれど私の紅茶だけは美味しいと仰る。悪い気はしない。
「それで、王宮の様子はいかがですか」
「聞きたいですか?」
「いいえ、まったく。ですが、レオン様のお顔が『言いたくて仕方がない』と語っていらっしゃいますので」
「これは手厳しい」
レオン様は紅茶のカップを置いて、眼鏡の位置を直した。この方が眼鏡を直すときは、長い話が始まる合図だ。
「では報告いたします。本日午前八時の時点で、宰相府に届いた『緊急』の報告が四十二件」
「普段は?」
「三件です」
「……四十二件」
「ちなみに昨日の夜会の後、つまりクラーラ嬢がお帰りになってから今朝までの間に、すでに問題が五つ発生しております」
五つ。まだ半日も経っていないのに。
「第一に、隣国ベルシャインへの通商条約改定案の最終稿が行方不明。財務卿は存在すら知らなかったようです」
「……あれは私の机の引き出しに」
「第二に、北方三州への穀物配給の割り当て表が見つからない。商務卿は『誰が作っていたのか知らない』と仰っています」
「あの表は私が毎月──」
「第三に、東方帝国大使への返書の期限が明後日ですが、草案がない。外務卿は『いつも気がついたら机の上に完成品があった』と」
「それも私が──」
「第四に、王宮の月次予算の締めが合わない。差額は銀貨八千枚。経理官は青い顔をしています」
「あの帳簿は二重照合しないと──」
「第五に」
レオン様はそこで言葉を切った。灰色の瞳がまっすぐに私を見る。
「宰相補佐官が、一杯の紅茶を口実に仕事を抜け出してきたこと。これが本日最大の問題です」
「……それは私の責任ではございませんわ」
「全面的にクラーラ嬢の責任です。貴女がいなくなった王宮は、控えめに申し上げて、地獄です。私が現実逃避したくなるのも無理からぬことでしょう」
紅茶のカップに口をつけた。ダージリンの渋みが舌に広がるまでの数秒で、表情を整える。
「お気の毒ですが、私はもう関係のない身ですわ」
「ええ、承知しております。ですから本日はこちらに逃げてきたわけです」
そう言ってレオン様は、鞄の中からもうひとつのものを取り出した。
紙袋だ。中を覗くと、焼き菓子が入っている。王都の東通りにある人気店のフィナンシェだ。
「……これは」
「公務です。宰相補佐官として、最も重要な業務遂行者への慰労品の支給を」
「元・業務遂行者でしょう」
「元、ですね。失礼しました」
私はフィナンシェを一つ取り、口に運んだ。バターの香りが広がる。──この方は、私が甘いものに目がないことをよくご存じだ。王宮で遅くまで仕事をしていると、いつの間にか机の端に焼き菓子が置かれていた。差出人の名はないけれど、いつも東通りの店のもので、いつも私の好きな味。犯人が誰か、今さら問うまでもない。
「美味しいですわ」
「それは何よりです」
レオン様が穏やかに微笑んだ。この方が笑うのは珍しい。なのに私が「美味しい」と言うときだけ、こうして少しだけ表情が緩む。
……気のせいでしょう。きっと。
◇
──すべての始まりは六年前だった。
十四歳の私は、王太子妃教育の一環として宰相府の見学をしていた。
退屈な見学だった。案内役の役人は私を子供扱いして表面的なことしか話さない。私は隙を見て一人で抜け出し、宰相府の奥にある書庫に迷い込んだ。
そこで開いた帳簿の数字が、おかしかった。
予算の配分が明らかに間違っている。北方の防衛費が過少計上されていて、このままでは冬までに砦の修繕費が足りなくなる。
私は誰もいない書庫で、勝手に正しい数字を書き込んだ。おせっかいだったと思う。けれど、間違った数字をそのままにしておくことが、どうしてもできなかった。
「──誰ですか」
背後から声がかかった。
振り返ると、十八歳の青年が立っていた。銀縁の眼鏡の奥から、鋭い灰色の瞳が私を見下ろしている。
「宰相補佐官のレオン・ヴェルトールです。ここは関係者以外立入禁止ですが」
「申し訳ございません。見学の途中で迷ってしまって」
嘘だった。迷ったのではなく意図的に来たのだが、十四歳の小娘がそんなことを言ったところで信じてもらえまい。
レオン様の視線が私の手元に落ちた。帳簿の余白に私が書き込んだ修正値を見て、眉根が寄る。
「……この修正を入れたのは、貴女ですか」
「申し訳ございません、勝手なことを──」
「いえ」
レオン様は帳簿の数字をしばらく黙って追い、ゆっくりと私に視線を戻した。
「正しい。むしろ、なぜ今まで誰も気づかなかったのかが問題です」
「……えっ」
「失礼ですが、お名前は」
「クラーラ・シュテルンと申します」
「シュテルン公爵家の──ああ、王太子殿下の婚約者でいらっしゃる」
レオン様が眼鏡を直す。この時はまだ、それが長い話の合図だとは知らなかった。
「クラーラ嬢。一つ伺いますが、この帳簿の誤りに気づくのにどれくらいかかりましたか」
「……一目で、わかりました」
レオン様がしばらく黙って私を見つめていた。眼鏡のレンズ越しに、灰色の瞳の色が変わる。やがて、小さく息を吐いた。
「明日もいらっしゃいますか」
「えっ」
「見学は数日続くと伺っています。もしよろしければ、明日もこちらに。お見せしたい帳簿が、いくつか」
それが始まりだった。
翌日も書庫を訪れ、三冊の帳簿に十七箇所の誤りを見つけた。レオン様は「やはり」と呟いた。その翌日も。そのまた翌日も。
帳簿の監査が予算案になり、外交書簡になり、政策提言になり──六年が過ぎた。すべて匿名。完成品は各部署の棚にそっと戻す。追及するより黙認するほうが全員にとって都合がよかったのだ。その構造をレオン様が裏で維持していたと知るのは、もっと後の話だ。
ある冬の夜のことを、よく覚えている。
時計の針は日付を跨いでいた。書庫には暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いている。
私は十七歳で、北方三州の防衛予算案と格闘していた。いくら数字を組み替えても、砦の修繕費と兵站の輸送費が競り合って収まらない。
ペンを止めて、こめかみを押さえる。指先はインクで汚れている。公爵令嬢の手ではない。けれど、この手で書いた数字が北の砦を守る。
ふと、右手の先に温かいものが触れた。
頼んだ覚えのない紅茶が、いつの間にか傍に置かれていた。白い湯気がほの暗い書庫にゆらりと昇る。
顔を上げると、向かいの机でレオン様が帳簿に目を落としている。こちらを見てはいない。まるで最初からそこに紅茶があったかのような顔をしている。
一口含んで、口の中で渋みが暴れた。茶葉を蒸らしすぎだ。この方の淹れるお茶は、何年経っても一向に上達しない。
けれど、温かい。真冬の深夜の書庫で、他に誰もいない場所で、この温もりだけが私の指先を解かしてくれる。
「……レオン様」
「はい」
「なぜ、私の名前を書類に入れてくださらないのですか」
向かいの机のペンが止まった。顔を上げずとも、レオン様が眼鏡を直す気配はわかる。三年も隣で働いていれば、相手の癖は全部覚える。
「十四歳の少女が国政の中枢を動かしていると知られたら、政治的に問題になります。父の立場も危うい。ですから、もうしばらくは」
「では──いつまで影のままでしょうか」
私の声は思ったよりも小さかった。疲れていたせいだと、その時は思った。
レオン様は少しだけ間を置く。
「然るべき時がくるまで。ただし──」
灰色の瞳がこちらを向いた。暖炉の火が眼鏡のレンズに映って、小さく揺れている。
「貴女の仕事は、一行も残さず私が記録しています。いつか必ず、正当な評価を受けられるように」
一行も残さず。
その言葉の重さに、十七歳の私は気づかなかった。
ただ、いつの間にか机の端に焼き菓子が置かれていることだけに気づいて、口に運んだ。フィナンシェだ。冷えた指先がバターの温もりで少しだけ緩む。
「……美味しいですわ」
「それは何よりです」
レオン様は何事もなかったかのように帳簿に目を戻した。
あの冬の夜から今日まで、ずっと。
◇
六年間、名前のない書類を書き続けた。弁明はしない。数字は正しかったのだから。
恋愛小説の最初のページを開いたところで、また玄関の呼び鈴が鳴った。
◇
「本日二度目ですが」
「緊急事態です」
レオン様だった。朝とは打って変わって、わずかに息が上がっている。この方の呼吸が乱れるのを見るのは初めてかもしれない。
「ベルシャインの通商使節団が予定より五日早く到着しました」
「……五日も早く?」
「先方の書簡に記載されていた日程と、王宮側の認識がずれていたようです」
「あの書簡の翻訳は私が──」
言いかけて口を閉じる──私の仕事は完成品を棚に置くところまで。その先の伝達は各部署の責任だ。──「気づいたら完成品がある」に慣れきっていた弊害が、こんな形で出るとは。
「それで、使節団はいま」
「迎賓館で使節団が待たされています。殿下は改定案を見て『こんなに複雑だったのか』と部屋に閉じこもり、ソフィア嬢は『お祈りをすれば良い知恵が』と。財務卿は胃痛で倒れ、典礼官は泣いています」
「嘘泣きではなく?」
「本泣きです」
私は深いため息をついた。すべて、私が普段こなしていた仕事だ。
「……それで、私にどうしろと」
「何も。事実報告です」
「事実報告にしては切迫していますが」
「切迫しているのは事実で、報告も事実です。矛盾はありません」
この方の屁理屈は一級品だ。
「殿下に捨てられた退屈で無能な元婚約者に、何のご用ですの」
「退屈かどうかは異議を申し立てたいところですが。──これは命令でも依頼でもありません」
レオン様が眼鏡を外し、丁寧に布で拭いてからかけ直した。
「ただ、一つだけお伝えしたいことがあります」
「なんでしょう」
「私は今夜、父──宰相に進言するつもりです。この国の行政の大半を実質的に担ってきたのが誰であるか、すべてを明らかにすると」
「レオン様、それは──」
「もう隠す理由がありません。──父は最初から知っていましたよ」
「……えっ?」
「宰相が六年間気づかないとお思いですか。最初の一週間で把握し、黙認した。貴女が有能だったからです。そして『あの娘が自ら表舞台に立つ日を待て』と」
私は言葉を失った。最初から。六年間ずっと。
「昨夜、貴女は婚約を破棄されました。退屈で無能な女だと。──けれどクラーラ嬢、貴女は今、自由です。もう誰かの影に隠れる必要はない」
レオン様は私の前に一枚の書類を差し出した。
「宰相府特別顧問の任命書です。正式な官職として、貴女の名前で、この国の政務に携わっていただきたい」
「……これは」
「もちろん、強制ではありません。このまま穏やかな日々を過ごされるのも結構です。ただ──」
レオン様は、そこで言い淀んだ。
いつもの涼しい表情が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
「ただ、私個人としては。貴女がいない宰相府は、とても──」
また一瞬の沈黙。
「……業務効率が著しく低下するので、困ります」
「業務効率」
「はい。数値で申し上げますと、処理速度が約七十パーセント低下しておりまして」
この方は。
本当に、この方は。
「お気持ちは嬉しいのですが、即答はいたしかねます」
「もちろんです。ご検討いただければ」
「ただし──」
私は任命書をテーブルの上に置いた。
「一つだけ条件がございます」
「何なりと」
「二度と、私の仕事を匿名にはしないでください。やるならば、私の名前で」
レオン様は──笑った。
朝の微笑みよりも、もっとはっきりとした笑みだった。
「最初から、そのつもりです」
◇
使節団への対応は、王宮に一歩も足を踏み入れることなく片付けた。方針だけ出して、実務は各担当官に委ねる。三日後には形になっていた。
その翌日、私のもとに王宮から使者が訪れた。
使者、というか──。
「クラーラ。僕だ、ユリウスだ」
玄関に立っていたのは、王太子殿下ご本人だった。
目の下に隈ができている。わずか四日でずいぶんとやつれた様子だ。
私は玄関の扉を開けたまま、敷居の内側に立った。客間に通す気はない。
「殿下、どうされましたの」
「国政が回らない。人が足りない、何もかもが滞っている」
「それはお困りでしょう」
私は穏やかに相槌を打った。
「僕が思うに、君がいなくなってから何かがおかしくなった気がするんだ」
「私は退屈で無能な女でしたが」
「い、いや、それは──」
「七年間で一度も笑わず、何の取り柄もない女でしたが、何かお役に立てることがございましたかしら」
「……く、クラーラ。あれは、言い過ぎたかもしれない」
「かもしれない、ではなく、言い過ぎましたわね」
殿下がびくりと肩を跳ねさせた。
私は自分でも驚くほど冷静だった。手は震えていないし、声も詰まらない。胸の奥はとうに凪いでいる。長い仕事を終えたあとに似た、乾いた空気だけが残っていた。
「殿下。私が王宮で何をしていたか、ご存じでしたか」
「え? それは──王太子妃としての勉強を」
「ええ、お勉強をしておりました。六年間。通商条約から歳出報告書、外交書簡から穀物配給表、陛下のご予定管理から月次決算まで。すべて一人で」
殿下の顔が、蝋燭の蝋のように白くなっていくのがわかった。
「な──なんだって?」
「私が退屈で無能な婚約者だった七年間、殿下が国政会議で発表なさった政策提言の六割は、私の原案です。殿下がお手柄として報告された北方の防衛予算改革も、東方との関税協定も、すべて」
「嘘だ……」
「嘘ではございませんわ。宰相補佐官が裏を取ってくださっています。証拠もすべて」
殿下が後ろに一歩退いた。
その後ろに、ソフィアの姿が見えた。殿下についてきたらしい。
ソフィアが私に向かって、涙ぐんだ瞳で言った。
「クラーラ様、殿下はとても反省していらっしゃいますの。どうか王宮にお戻りになって──私からもお願いいたします」
殊勝な態度。完璧な演技だった。けれど、私は六年間、嘘の数字と本当の数字を見分けてきた女だ。この女が望んでいるのは、私を「影」に戻すこと──六年間の構造の維持だ。
「ソフィア嬢」
私はソフィアに目を向けた──いつもの通り、笑ってはいない。けれど、口調は穏やかだ。
「ご提案ありがとうございます。ですが──お祈りで通商条約は結べましたか」
「なっ──!」
「それから、殿下のどこがお好きなのかしら。殿下のお立場? 殿下のお家柄? それとも──私が書いた政策を自分のものとして語る、殿下の『有能さ』でしょうか」
「わ、私は殿下のお人柄を──」
「殿下のお人柄は、私の原案を自分の手柄として国政会議に提出するようなお人柄ですが」
ソフィアの唇から色が失せていく。
殿下も同様だ。二人揃って、石膏の彫像のように固まっている。
「と、取り消してくれ、クラーラ。婚約破棄を取り消す。いや、撤回する。だから──」
「お断りいたします」
「なっ──!」
「殿下、私は七年間、ただの一度も殿下に笑顔を向けませんでした。その理由をお考えになったことはございますか」
「それは──」
「笑う理由がなかったからですわ」
ぴしゃりと言い切って──自分でもびっくりするほど、すっきりした。
「殿下は七年間、私に花の一輪も贈ったことがない。好きなお茶の銘柄も、好きな焼き菓子もご存じない。一度もです」
「そ、それは──」
「ソフィア嬢のお好きなものはすべてご存じでいらっしゃるのに?」
言葉を失くした殿下の前で、私は完璧な淑女の礼をとった。
「どうぞお幸せに、殿下。ソフィア嬢と共に、祈りで国を治めてくださいませ」
「ま、待ってくれ、クラーラ──」
「殿下」
背後からレオン様の声がした。いつの間にか公爵邸の廊下に立っている。
「ヴェルトール! お前からも言ってくれ、クラーラに考え直すように──」
「残念ですが、クラーラ嬢は明日付で宰相府特別顧問に就任されます。王太子殿下の管轄外の官職です」
「は?」
「クラーラ嬢の今後の業務はすべて宰相府の監督下に置かれます。殿下が命じられる立場にはございません。──お帰りはあちらです」
レオン様が玄関の方を手で示す。
にこりともしない、完璧な事務対応だった。
殿下は結局何も言えず、ソフィアの手を引いて帰っていった。
ソフィアは去り際に振り返った。その目から勝利の色は消え──自分が手に入れた王太子が張りぼてだったと、薄々気づき始めたのだろう。
◇
殿下が帰ったあと。
私はレオン様と二人、客間で紅茶を飲んでいた。
「……すっきりしました」
「それは重畳です」
「けれど、言い過ぎましたかしら」
「いいえ。六年分の未払い残業代だと思えば安いものです」
「残業代ですか」
「比喩です。私にも人間的な一面はあります」
私は紅茶のカップを両手で包んだ。温かい。春の午後の陽射しが窓から差し込んで、テーブルの上に明るい四角を描いている。
「宰相府特別顧問の件、正式にお受けいたします」
「ありがとうございます。国が救われます」
「大げさですわ」
「大げさではありません。数値で申し上げますと──」
「もう数値はけっこうです」
レオン様が口を閉じた。紅茶の湯気だけが、二人の間をゆっくりと昇っていく。
「……一つ、よろしいですか」
「なんでしょう」
「先ほどの任命書とは別に、もう一枚。──本来、公務の席でお渡しすべきものではありません」
この方が公私の妥協を認めるのは初めてだった。
「ですが、これ以上先延ばしにすると業務に支障が出ます。──私の業務に」
レオン様が鞄から一枚の紙を取り出して、テーブルの上に置いた。
見覚えのある公爵家の便箋だ。差出人はヴェルトール宰相家。宛先はシュテルン公爵家。
これは──。
「婚姻の申入書、ですか」
「はい」
私は何度か目を瞬いてから、ようやく声を出した。
「レオン様」
「はい」
「これは──公務ですか」
「いいえ。極めて私的な案件です」
レオン様の声が、わずかに震えていた。
六年間一緒に働いてきて、この方の声が震えるのを聞いたのは初めてだった。
「六年前、書庫で出会ったときから。貴女は私にとって最も優秀な同僚で、最も信頼できる仕事仲間で──そして、最も大切な人でした」
「…………」
「書類を届ける口実がなければ、焼き菓子を差し入れました。残業を減らす口実がなければ、業務改善提案を出しました。すべて貴女と過ごす時間を少しでも長くしたかったからです」
私の手の中で、紅茶のカップが小さく震えた。
「業務効率が七十パーセント低下した、と先日申し上げましたが──本当は」
レオン様が眼鏡を外した。いつもの動作。けれど今日はその手が震えている。
「本当は、貴女がいない時間が苦痛だったのです。仕事だけの問題ではなく」
灰色の瞳がまっすぐに私を見た。
「クラーラ嬢。私は貴女を愛しています。同僚としてではなく。──これは初めて、数値で説明できない案件です」
「…………」
私は黙っていた。
黙っていたのは、言葉が見つからなかったからではない。
見つからなかったのは、この感情の名前だ。
六年間、毎日顔を合わせていた。
この方が淹れた紅茶は不味い。けれど嬉しくて、毎回「美味しゅうございます」と嘘をついた。書庫で二人、夜更けまで帳簿を突き合わせた日々。指先が触れるたびに心臓が跳ねるのを、疲労のせいだと思い込んでいた。
──全部、違った。
「私は」
声が出た。自分のものとは思えないほど、震えている。
「私は、退屈な女です」
「知っています。退屈な女が書く通商条約の改定案は、いつも完璧でした」
「笑わない女です」
「知っています。笑わない女が焼き菓子を食べるとき、ほんの少しだけ目が細くなるのも知っています」
「何の取り柄もない──」
「それは嘘です」
レオン様が、初めて私の言葉を遮った。
「貴女は、この国で最も有能で、最も誠実で、最も美しい人です。それを知らなかったのは王太子殿下だけだ」
テーブルの上で、温かいものが私の手を包んだ。
レオン様の手だった。六年間、帳簿をめくり、数字を書き、私の机にそっと焼き菓子を置いてきた手。初めて触れるその掌は、インクの匂いがする。私と同じ匂い。
私の目から、ぽたりと雫が落ちた。重ねられた手の甲の上で、小さく弾ける。
泣いている。
私は泣いている。七年間の婚約期間で一度も泣かなかった私が。
「ずるい方」
「何がですか」
「数値で説明できないなどと仰って──私の心拍数が異常値を示しているのは、レオン様のせいですわ」
「それは私の管轄外の数値ですが、報告書は受理いたします」
私は、笑った。
涙を流しながら、笑った。六年間封じていたものが、一度にほどけたように。
レオン様が一瞬、固まった。
灰色の瞳が見開かれて、手にしていた眼鏡拭きの布がひらりとテーブルの上に落ちた。
「……ああ」
掠れた声で、レオン様が呟いた。
「こういう顔をされるのですね、貴女は」
「お見苦しいところを」
「いいえ。──今のは比喩ではなく事実ですが、とても綺麗です」
私はまた泣きそうになった。
けれど今度は堪えて、テーブルの上の婚姻申入書に手を伸ばした。
「この書類ですが」
「はい」
「受理いたします」
レオン様がもう一度、笑った。
朝の微笑みよりも、さっきの笑みよりも、もっと深く──六年分のすべてを込めたような笑みだった。
「──やはり貴女の書類処理は世界一速い」
「うるさいですわ」
二人の間に、春の風が吹き抜けた。
私は泣き笑いのまま、初めて仕事ではない理由で書類にサインをした。
◇
後日。
就任式の日、六年間の真実が宰相閣下の口から語られた。居並ぶ貴族のどよめき。ユリウス殿下は百を超える視線の中で目を伏せるしかない。「退屈な女だ」と切り捨てた相手が、自分の治世のすべてだったと──この国の全員が知った。
国王陛下は長い沈黙の後、こう仰る。
「──余の国は、一人の少女に支えられていたのか」
そして、玉座から深く頭を下げた。
宰相閣下は私にこう言った。
「六年遅くなったが、ようやく日の当たる場所に来たな。──わしの書庫を荒らしたのは、お前が最後の一人だ。これからは堂々と荒らしなさい」
殿下は王太子教育のやり直しを命じられた。部屋に閉じこもって通商条約に泣いたという話は、瞬く間に社交界に広まっている。ソフィア嬢はその行末を見て足早に身を引いた。
ヴェルトール宰相家とシュテルン公爵家の婚姻は、両家の満場一致で承認された。お父様は「娘が初めて笑顔で報告してきた案件だ。決裁しないわけがないだろう」と仰ったそうだ。
就任して最初の朝。
私は宰相府の──いまは二人の執務室に足を踏み入れた。
レオン様の机の引き出しを整理していて、奥から一冊の手帳が出てきた。革表紙の角が丸くなるまで使い込まれている。表紙には何も記されていない。
開いた。レオン様の筆跡だった。日付入りで、びっしりと、最初のページから最後まで余白なく。
最初のページは六年前──私が書庫で帳簿を直した日の日付。
──クラーラ・シュテルン嬢。十四歳。北方防衛費の過少計上を一目で看破。修正内容に誤りなし。明日も来るか尋ねたところ、承諾。
次のページ。
──帳簿三冊、修正十七箇所。すべて正確。この才能を埋もれさせてはならない。
ページをめくる。六年分の文字が指先から流れ込んでくる。
──深夜まで残業。茶を淹れた。飲んでいたが少し顔をしかめていた。淹れ方を改善すべきか。
──焼き菓子を机に置いた。東通りのフィナンシェが最も反応が良い。目が僅かに細くなる。記録する。
ページが進むにつれて、業務記録の行間から別のものが滲み出す。
──王太子殿下が夜会でほかの令嬢と談笑しているのを見ても、彼女は眉ひとつ動かさなかった。感情がないのではない。注意が別のものに向いている。具体的には、私の机の上の歳出報告書に。……少し安堵した。この感情は業務記録にふさわしくないが、記す。
手帳が揺れている。いや、私の手が震えているのだ。活字のように整ったレオン様の筆跡が、にじんで読めない。
最後のページ。婚約破棄の夜の日付。
──本日、ユリウス王太子殿下がクラーラ嬢との婚約を破棄。殿下の言、「退屈な女だ」。
──六年間の記録はすべて整っている。一行も残さず。
──明日、伝える。すべてを。
その下に一行だけ。業務記録の整った筆致ではなく、震えた文字で。
──怖い。
私は手帳を胸に抱いた。
涙が頬を伝う。この方がずっと見ていてくれたのだと、ようやく全部わかった。
六年分の「書類を届ける口実」の裏側が、ここにある。「業務効率が低下した」の、本当の意味が。
「──勝手に人の机を開けないでください」
振り返ると、レオン様が入口に立っていた。銀縁の眼鏡、いつもの涼しい顔。ただし耳の先が赤い。
「読みましたか」
「読みましたわ」
「……全部ですか」
「全部」
レオン様が天を仰いだ。宰相補佐官の顔ではなかった。六年間で初めて見る、ただの青年の顔だ。
「あの手帳は業務上の記録であり──」
「『安堵した。この感情は業務記録にふさわしくないが、記す』」
「やめてください」
「『フィナンシェが最も反応が良い。目が僅かに細くなる。記録する』」
「本当にやめてください」
銀縁の奥の灰色の瞳が泳いでいる。宰相補佐官の完璧な仮面が、音を立てて崩れていく。
私は手帳を抱いたまま笑った。泣きながら笑うのは、もう得意になりつつある。
「レオン様」
「……はい」
「この手帳、お返しいたしません」
「機密文書です」
「私の名前が書いてある文書は、私の管轄ですわ」
「それは拡大解釈が過ぎ──」
「お好きにどうぞ。百年かけて取り返しにいらっしゃいませ」
レオン様が、観念したように小さく笑った。
窓の外で、春の花が咲いている。
今日の仕事は山積みだ。けれど、まずこの方の紅茶を淹れよう。
六年間ずっと不味い紅茶を淹れ続けてくれたこの方に、私からの一杯を。
ありがとう、と。まだ声にはできないけれど、きっと伝わる。
この方は、私の感情を読むのだけは、昔から少しだけ得意だったから。




