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短編童話シリーズ

答え合わせ

作者: 八代 秀一
掲載日:2025/11/30

「もう限界だ」


 憔悴しきった男は、布団を頭からかぶって泣いた。

隣の部屋では認知症の母親がまたぞろ奇声を上げている。


 ――これで何回目だろうか。


 もう息子のことはおろか、自分自身が誰なのかもわかっていない。


 自分が何をしているかも理解できず、数分前のことも覚えていない。

ただ、赤子のように泣き喚き、感情に任せて暴れ狂い、所かまわず糞尿を垂れ流す。

あんな風になってまで生きている意味などあるのだろうか。


 行き場のない憤りをぶつけるように、男は拳を膝に打ち付けた。


 ――呆けた本人はいい気なものだ。


 ああなってしまえば、死の恐怖に怯えることもあるまい。

ただ、本能のままに残された人生を漫然と生きていればいいのだから。

けれども、周りの人間は溜まったものではない。

仕事に、家事に、介護に――。


 もう限界だった。

現に妻はそんな生活に嫌気がさして、昨年、娘を連れて出て行った。

突然いなくなり、後日離婚届が送られてきた時には腹が立ったものだが、今なら妻の気持ちが痛いほどよくわかる。

結婚したとはいえ、他人の親の介護をしながら、家事に、パートに、子育て。

誰だって逃げ出したくなるだろう。


「……こんな生活が、一体いつまで続くのだろうか?」


 身も心もボロボロで、仕事はミスばかり。

上司に怒られ、部下に笑われ、自己肯定感が下がる一方。

それでいて家に帰れば、介護に追われ、自分の生活もままならない。


「一体、俺は何が楽しくて生きているんだろう?」


 母親が死んでくれたら、楽になれるのに――。

いや、もういっそのこと自分自身が死んでしまいたかった。


「……あーあ、ホント、何の為に生きているのかわからなくなっちまったな」


 自分は何の為に生まれてきたのだろうか。

そもそも生まれたことに意味などあるのだろうか。

自問自答するが答えは見つからない。

が、それでも一つだけ確かなことがあるとすれば、それはこんな毎日の為に生まれたわけではないということだろう。


「そうだよ。俺はよく頑張った。もういいだろ。母さんだって、あんな風になってまで生きていたくなんかないはずだ。きっと許してくれる」


 そう自分自身に言い聞かせると、男は母親を背負い、意を決して家を出たのだった。


 幸い、家の裏手には小高い山々が連なっており、生い茂る森は熊が出るとあって誰も近づこうとしない。

例え認知症の老人が深夜徘徊の末に道に迷い行き倒れたとしても、誰も不思議には思わないだろう。


「母さん、明日の晩御飯は母さんの好きな山菜の天ぷらにしようと思うんだ。だから一緒に山菜を摘むのを手伝っておくれよ」


 取って付けたような言い訳だが、認知症の母親を騙すにはそれで十分だった。

母親も久々の外出とあって、先程までぐずっていたのが嘘のように上機嫌だ。

そのせいだろうか、いつになく母親の受け答えがはっきりしていたのは――。


 ――こんなに母親と会話をするのは、いつぶりだろうか。


 道中、男は走馬灯よろしく母親とたくさんの思い出話をした。

幼稚園の入園式、小学校の遠足、中学校の体育祭、高校受験、そして大学を卒業し、就職が決まった時には家族で盛大に祝ってくれたものだ。

どれも懐かしく、忘れられない大切な思い出だった。


 そうして獣道が山頂に近づいた頃、男は喉の痞えを吐き出すように尋ねたのである。


「母さん、俺たちが生まれたことに、一体何の意味があったのかな?」


 思い詰めた男をよそに、母親は欠けた歯をカタカタと鳴らして笑った。


「人が生まれたことに意味なんてありゃせんよ」


「じゃあ、俺たちは何の為に生きているというんだい?」


「さぁねぇ、あたしには難しいことはわからんよ。でも、死んだお父さんは一丁前に悟ったみたいな口ぶりで、人生についてこう言っとったね。生まれたことに意味なんてない。故に意味のないものに意義を見出すのが人の生なんだって、ね」


 なるほど、他人に与えられるものはではなく、自分で見つけろということか。

男は自嘲気味に肩を竦めると、その背から母親を下ろして切り株に座らせた。


 ここまでくれば、老いた母親の足腰では自力で家に帰ることは出来まい。


「母さん、俺はまたうっかり籠を忘れちまったから、ちょっくらそこまで取りに行ってくるよ。悪いけど、ここで少し待っていてくれるかい」


 気まずそうに後ろ頭を掻く男を、呆けた母親はケタケタと笑い飛ばして、


「何だい、若いのにもう物忘れかい。そんな調子だとあんたのほうが先に呆けちまいそうだね」


 今生の別れにしては、何とも皮肉が効いているではないか。

とはいえ、これですべてが終わる。

ようやく地獄のような介護の日々から解放されるのだ。


 男は踵を返し、逃げるように山を下りていく。

その矢先、ふと気になることがあってその足を止めた。


「ああ、そうだ。ちなみに母さんは、自分の人生に一体どんな意義を見出したんだい?」


 肩越しに振り返り、月明かりに浮かぶ母親に向かって尋ねる。

すると、母親はニタリとほくそ笑み、男を指さしてこう答えたのである。


「あんただよ。あんたを産んで、育てたことがあたしの生まれた意味さね。そしてこの結末が、その答えってわけだ」


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