男を支える恋はダメですか? 女尊・腕力逆転世界で見つけた未来のオレ様英雄
◇(1/6) 勘当される私◇
「ミルク。あなたは勘当よ」
低く澄んだ声が、黒檀の長テーブルを滑って私の耳に届く。
窓越しの朝の光が銀器の縁で細く跳ねた。壁の家紋旗は動かず、部屋の空気だけが重い香木の匂いで満ちている。
母は深緋のドレスを纏い、硬く締めた身頃の上に細い革の飾り帯を交差させている。
私は薄藍の若娘用のドレスを着て、椅子の縁で背筋を伸ばす。胸紐が少しきつく、息が浅い。レースの袖口が手首でこすれて、糸のささくれが肌に触れた。
「……へ?」
喉がからからで、情けない音が漏れる。
薄藍の裾が絨毯の毛足を掃き、布の重みが膝へ落ちる。
室内飼いのオウムの鳴き声が、急に大きく聞こえた気がした。
私はきっと、不幸な転生者なのだと思う。
だってそうじゃない?
異世界転生ものの悪役令嬢として生まれたわけでもない。
ただの侯爵家の娘に生まれたなら、十五歳を迎えた日にこうやって勘当されるはずないもの。私の誕生パーティどこ?
「聞こえなかったのかしら? 女で十五にもなってレベル1。妹のカウはもうレベル2に上がっているのに。ダンジョンに潜らせてもまだ一匹もモンスターを倒せていない。男みたいに料理と裁縫にかまけて屋敷に引きこもる――もう我慢の限界よ。軟弱者はバレンタイン家にいらないの。せめてもの手切れ金は用意したから、午前中に荷物まとめて出てきなさい。――でなければ」
「……で、でなければ?」
舌が張り付いて、言葉が引っかかる。金の杯の内側に映る赤色の瞳が歪み、襟のレースが呼気でふるえた。
視線を上げる。
私と同じ長い黒髪で褐色肌の母はもう笑っていた。
「”殺すわ”」
「し、失礼しましたぁ!」
椅子脚が絨毯で軋む。裾を踏みそうになって慌てて摘み上げると、ペチコートの層がしゃらりと鳴った。形ばかりの会釈が、逃げ腰の前置きになる。耳の奥で自分の鼓動が高鳴り続ける。
私は、当主の間を走って出た。
殺意を持った母親の前で、泣きわめかないという分別は、さすがの私も持ち合わせていた。
◇(2/6) 未来のオレ様英雄と出会う私◇
――こんな重たい鎧を身に着けて、一人でダンジョンの入り口に立っているなんて、異世界転生解釈違いだよ!
岩を穿った門が、灼けた鍋みたいに口を開けている。
風に乗って、内側から低い唸りが聞こえて来る。
多くの女冒険者とサポーターの男性が出入りしているのを、私は少し離れた場所で眺めていた。
このゲームみたいな世界に転生してから四回目のダンジョン。
今まではお付きの従者たちと挑んだものの、前世の倫理観が邪魔して私は剣が振れなかった。
そのせいで今に至るんだから、笑えない。
なんでこんな世界に転生しちゃったんだろう、と嘆く。
弱音は言えない立場なのに、こぼれた。
「ええと、装備は……」
震える指で腰の〈魔法の携帯袋〉の紐を開く。
収納魔法で見た目以上に拡張された袋の中を覗き、もやの向こうから飴玉を一つつまみ上げた。
「……」
かれこれ一時間、私は同じことを繰り返している。
本当は武器を手に取ってダンジョンへ向かわなきゃいけないのに、心は背きたがっている。
「……無理だよぉ、私には――」
怖い怖い小岩井。
勘当された元侯爵家のレベル1令嬢と組むようなおバカさんはいないし、私から声をかける勇気もない。
見下されて、否定されるのが怖い。
同じブロンズランクの冒険者たちに蔑まれるのは目に見えている。
いっそ市井で仕事を探したほうがいいのだろう。
家からゴールドランク相当の装備は持ち出せた。だから冒険者のほうがまだ勝算があると――思っていた。
飴玉を片手に、私は腰を下ろす。
岩を穿った門の前で、掲示の紙片がはためくのをぼんやり眺めた。
『女神教より告示――“レベルが下がらない男子”は保護・収容の対象とする』
「……?」
チラシを見つめている間に、ふと右手に重みが増す。
視線を落とすと、薄汚れた骨ばった指先が、私の飴玉に触れていた。
私の影で、布切れみたいな上着が小さく揺れた。
少年が、ひび割れた唇を舌で舐めとる。
血の気のない白い手の甲に、細い傷跡が浮いていた。
ぼさぼさの長い土まみれの髪の間から、瞳が覗く。薄い灰の中に、炭火みたいな橙が一点、かすかに灯っている。
「ひゃぁあっ!?」
私は慌てて飛びのいた。
お尻を打って痛みで眉をひそめたけれど、それどころじゃなかった。
私の手の内から浮いた飴玉は、白く骨ばった指先に収まった。
彼は透明な光沢のあるそれをまじまじと見た後、口の中に放った。
がりがりと音を立てる。
舐めるじゃなくて――食べていた。
「ちょ、ちょっとぉ。食べ方違う……」
「……うまい」
そう言って彼は手を差し出してきた。
よくよく見ると反対側の手に、彼は錆びたナイフを握り締めていた。
刃に残る赤茶けた斑点の向こうで、指は細く、爪の間に黒い土が詰まっている。
……追剥かなんかなのだろう。
怖くなって、私は袋の中に手を伸ばす。飴玉を三粒取り出した。
柑橘の皮を削ったような香りに、遠いところでシナモンの辛さがほんの少し混じる。
この飴玉は私の自家製。
屋敷に居た時に、前世でよく食べていた飴を懐かしがって再現したものだ。
蜂蜜色に澄んだ小さな球の芯に、髪の毛ほどの緋が一本、炎の舌のように細く通っている。薄く散らした金箔が日差しを拾って、砂粒みたいにきらりと瞬いた――屋敷ではこの配色を『焔の宮廷』と呼んでいた。
彼は私の右手のひらから素早く飴を奪い取ると、全部口に入れた。
またしても歯を使って咀嚼している。
ひとしきり味わい終わると、彼はナイフを刃先が地面を向くよう握り直した。
脅す気はないの合図だ。
もう一度、手を差し出してくる。
「うまい」
「も、もうないんだけど……」
「……お前の、手作りか?」
私は恐る恐る頷く。
なんとなく、左手に持つ盾はこの少年の前では意味をなさない気がした。
歳は十二歳ほどだろうか? 男の子だというのに、鋭い刃のような青みがかったまなざしを彼は私に向ける。
「女。オレは、もう一度これを食べたいが作れるか?」
「い、今は難しいよ。設備もないし……」
「設備? 設備があれば、作れるのか?」
「まあ、そうだけど……。そ、それよりいったん、落ち着いたところで話さない?」
「?」
ここはダンジョンの入り口付近。
冒険者ギルドの職員と思しき女性警備員が、私たちを不審な目で見ていた。
中には足を止めて様子をうかがう冒険者たちの姿も。
私は立ち上がる。
右手を差し出し、彼の細い手首をつかんだ。
彼の背丈は百五十八センチある私と同程度。
目線の位置は一致した。
彼の手を引いて、私は岩のダンジョンを後にする。
これが私と”未来の英雄”ダークとの出会いだった。
◇(3/6) 未来のオレ様英雄とパーティを組んだ私◇
――あの出会いの後。
私はダークに気に入られ、初心者同士でパーティを組むことになった。
ダークは隣のアギラ地方からの流民らしい。
村は去年、スタンピードによるダンジョンモンスターの襲撃、そして人類を滅ぼそうとする淫魔族の追撃に遭って壊滅。
身一つで火の帝都近郊に逃れてきたとのことだった。
『わ、私が前に出てダークを守るよ!』
『いらん。脆いから却下。盾の才能ないよ、お前。でかぶつを囮で釣りだせ』
『え……? あ、足の速さも、そんなには……』
『うるさい。体力つけろ。死ぬ気で走れ阿呆』
「ひぃいいいいいいっ!!」
マンモスほどの大きさの〈火炎ムカデ〉を背に、私は走っていた。
後ろでまとめた黒髪が薄藍の外套共に尾を引く。
革ブーツが岩肌を叩き、けたたましい足音が響いた。
氷耐性ポーションを片手に握り締め、私は一心不乱に黒岩の廊下を駆ける。
ちらと後ろを見ると、暗赤の光が石壁の縁を舐めている。
焼けた空気が褐色の頬を打ち、金属を焦がす匂いが鼻を刺す。
無数の脚が岩肌を擦る。甲殻の継ぎ目が素早くうねり、私に近づいてくる。
わき腹が痛い。
ふくらはぎはつりかけで、肺がつぶれそう。
喉の奥は砂を飲んだみたいにざらつき、舌に鉄の味が広がる。
「だ、だぁあああああああくぅぅううううう!」
指定のポイントまで、あと少し。心の中で合図を刻む――三、二、今。
目の前の竪穴が口を開ける。私は踏み切る。空気が一瞬軽くなる。
岩肌に肩をぶつけ、背で転がって受け身を取った。
手袋越しに感じる石の温かさが、さらに身体から水気を奪う。
――はやくはやくはやくっ!
氷耐性ポーションの蓋を歯で引く。
苦い薬草と薄い甘さの混じった液を口に流し込む。喉の内側を冷気が駆け下り、胃の底で小さく弾けた。
飲み干すと同時に、私を見失って地上で右往左往するムカデの身体に、白い霜が降りていた。
『氷の牢獄』
ダークの声が遠方から届く。
空気が一拍だけ凪ぎ、次いで、白い霧が〈火炎ムカデ〉の足元から生えるように立ち上がった。
霧は石壁の光苔まで凍らせ、甲殻の稜線に沿って氷が走る。
透明な柱が幾本も芽吹き、紅い体躯を格子状に抱きとめる。
「うぅ……!」
私は穴の底で薄藍の外套に顎まで潜り込み、膝と胸をくっつけて身を縮める。
皮膚の上を冷えが針の群れになって走った。
奥歯が勝手にカタつく。
耐性ポーションの膜を、ダークの規格外の魔力の寒気が易々と貫いてくる。
いつの間にか、大仰な氷の花がそびえ立っていた。
下から見上げるそれは、洞窟の天井に届こうとする塔。
氷の表面に走る細かな文様が灯りを拾い、青白い光の筋が私の頬を横切った。
『氷の破壊』
短い詠唱が、刃の背で叩いたみたいな音を残す。
氷華に蜘蛛の巣状のひびが走り、私の目の前で、包まれていた〈火炎ムカデ〉ごと塔は崩れた。
――ぱりん。
砕けた破片は光を孕んだ粉となり、洞の気流に乗って舞い上がる。
マンモスほどの大きさだった虫は、ダイヤモンドダストへ変わり、手を伸ばせば溶ける距離で消えていった。
頬に触れた粒が、一瞬だけ夏の雪みたいに冷たい。
私はそうっと穴から顔を出す。
さっきまでムカデがいた場所に、まばゆい光を宿す核晶と、火晶珠、甲殻片、それから巨岩サイズの白い肉塊が一つずつ落ちている。
雪のような銀髪を払うダークが、粉雪の向こうから歩いてくる。
黒外套の留め具が小さく鳴る。
筋肉質な両腕を組んで彼は立ち止まる。
霧氷の粒が肩に降り、即座に溶けて、黒外套に濃い色の斑を作る。
短く、彼はつぶやいた。
「ふん、雑魚が」
「ざ、雑魚って……。レベル4の〈特殊徘徊魔物〉じゃん……。レベル4のプラチナランクのパーティでも逃げ出すレベルじゃん……。シルバーランクの私たちじゃ、本当は相手にしちゃいけないじゃん……」
「うるさい。他のより、こいつのほうが稼ぎがいいだろうが。オレ様には雑魚だったぞ?」
「そんなこと言うの、ダークだけだって! ……あ」
「む」
「また、レベルあがったね」
私が氷魔法の残滓に身を震わせていると、ダークの身体を黄金色の光が覆った。
レベルアップを果たした光。
――私が見ている範囲だと、これで三回目だった。
「そろそろムカデの味も飽きてきたな」
坑道に、低い声が反響した。
氷の粉がまだ空に残っていて、坑道内に備えられた火晶ランタンの光を受けて銀砂みたいに流れる。
ダークが長い波がかった髪をかき上げる。
昔は泥や煤で汚れていた髪は、今や白銀のように輝きを放つ。
肌にもつやが戻り、うっすら赤みを帯びた薄橙を取り戻していた。
碧眼が〈火炎ムカデ〉の遺した戦利品――主に白い肉塊を、興味なさげに捉えた。
彼は無造作に、私の頭へ大きな手をのせた。
力みはない。髪が押されて、私は眩しそうに見上げる。
見上げた先で、彼の眉が動いた。
「今日は別の料理を頼むぞ、ちび。飴玉もそろそろ新しいのがいい」
「誰がちびよ! 私は平均身長ですぅ、たぶん! この意地悪男! わがまま! オレ様! 注文多すぎ!」
「うるさい。オレ様のおかげで、お前もレベルあがったし、生活よくなっただろ? 黙って従っておけ」
「むぅ~~っ!」
頬をふくらませて睨み上げても、彼は気にも留めず私の髪をくしゃりとなでつける。
そのまますれ違い、ダンジョンの入り口へ向かって彼は歩を進めた。
熱気で空気が揺らぎ、彼の外套の裾が波みたいに揺れる。今日はもう、潜る気分じゃないのだろう。
「ちょ、ダークっ! 待ちなさい!」
「早くしろ、先行くぞ」
私は慌ててしゃがみ込み、魔法の携帯袋の口を開く。
革の口は小さいのに、落とした白い肉塊や甲殻の破片、赤い結晶まで、呑み込むみたいにするする入っていく。紐を引いて封を締め、立ち上がって彼の広い背中を追う。靴裏に砂つぶてがきしみ、冷えた汗がうなじを伝った。
――魔法を学んでから、ダークはみるみるうちに強くなった。
実家から持ち出していた初級の魔導書だけでは足りず、私は防具屋の重い扉を何度も押した。
家から持ち出した装備を一つ、また一つ。手放しては、ダークのために魔導書を揃え、彼に読み方を教えた。
その甲斐あって、私たちの暮らしは安定した。
今は城壁近くの二階建ての小さな家。
台所には火晶石のオーブンが据え付けられていて、青白い火が石窯の奥で絶えず脈打つ。
夕暮れどき、鍋で糖蜜を焦がすと、部屋じゅうが甘いにおいで満ちた。
私は飴玉を包み紙に落とし、彼は本を片手に窓辺で呪文を口の中でそらんじる。
そんな夜が、もう何夜も続いている。
天性の魔法使い。
おそらく、ダークは魔法関連の才能を持っている。
――それに。
私はまだ、彼のレベルが下がるのを見たことがなかった。
父も従兄弟も、数え切れないほどダンジョン探索に付き添ってようやくレベル2。
市井の一般の男性は、ほとんどがレベル1だと聞く。
この世界の男性は異性と愛し合ったり溜め込んで暴発した際に、経験値を失う。
男性は神に呪いをかけられている――そのためレベルが下がるのだと、子供の頃教わった。
……けれど、ダークは今日で4。
歩幅に合わせて揺れる彼の横顔を見上げ、私は胸の前で指をきつく握り込んだ。指先が汗ばみ、包帯の縁がきゅっと鳴る。
あの日、掲示板で見た紙片を思い出す。
赤い封蝋が押され、黒い文字が石壁に冷たく貼り付いていた。
『女神教より告示――“レベルが下がらない男子”は保護・収容の対象とする』
◇(4/6) 好きを知る私◇
私たちは荷を軽くして、また次の街へ向かう準備をしている。
火の帝国を西へ東へ。
冒険者ギルドの印章を頼りに、初級から中級のダンジョンで日がなモンスターを狩る生活を続けている。
同じ街に長くいると、空気が重たくなる。
掲示板の前でささやきが厚みを増し、視線がこちらの背中に張り付く。
ダークの冒険者札に刻まれた銀のランクより、彼の討伐記録の数字が抜きん出るたびに、帳場の女書記の眉がわずかに跳ね上がるのを、私は見逃さない。
だから、私たちは動く。
ちょうど今も、通りを白布の腕章に青いシスターヴェールを被った検査官が横切った。女たちの声が一瞬だけ細くなる。
赤黒い溶岩石の街、香辛料の屋台が並ぶ市門の街。街を渡り歩いて、人々の記憶に残らないように努める。
ただ、隠せないものがひとつある。
三年も経ち、十五歳を迎えたダークは道行く人が立ち止まって息を呑むほどの美丈夫になっていた。
彼の見た目――日差しにほどける銀髪、氷を思わせる碧眼、陽で少し濃く見える薄橙の肌。旅の塵を払っても払わなくても、目立つものは目立ってしまう。
――火の帝国の女たちの声はまるで香辛料みたいに強い。
「ねえ、坊や。そんな荷物持ちと組むの止めて、お姉さんたちとパーティを組まない?」
「あ、あなたが、あのダーク? 嗚呼、なんて美しいのかしら……。私の側夫に加えてもいいわ」
鉄槌を軽々しく担ぐ赤毛の女性、香油の匂いをまとった商家の娘など、様々な女性がダークに色目を使う。
女が誘い、男が頷く――それがこの世界の呼吸だ。
女性たちに誘われるたびに、ダークは私が教えた魔除けの言葉を振りかざして断っている。
「お前ら家事はできるのか? 言っとくが、オレ様はやらんぞ」
「は?」
「え?」
「オレ様が稼ぐから、お前らが料理・洗濯・掃除をしろ。話はそれからだ」
「男のくせに……!」
「ほ、他の夫にやらせるわ! それでいいでしょう?」
「嫌だね。なんで他の男の手料理なんぞ食わなきゃならんのだ? オレ様の料理番はもう決まってるんだ。ああ、『風土珠』『霊狼の鎧』『神翼の羽衣』『火焔のマント』を持ってきたら、考えてやらんでもないぞ」
「ど、どれも伝説のアイテムじゃない!? 『風土珠』は行き方も分からない仙島の!『霊狼の鎧』『神翼の羽衣』はレベル8のレアモンスターのドロップ品! 『火焔のマント』に至ってはこの国の守護精霊サラマンダーに認められたものが得られる伝説の品! 無理難題が過ぎるわ!」
「そういうことだ。――行くぞ、ちび」
「う、うん」
そう言ってダークが難題を口にすると、誰も食い下がることはなかった。
決まって彼は何事もなかったように歩き出し、私は肩紐を握り直して後に続く。
――ダークと過ごす日々は、私にとってかけがえのないものとなっていた。
異世界の常識に馴染まない私に、ダークの存在は大きすぎた。
彼は容赦なく私の手を引っ張っていく。無茶苦茶に付き合わせないで欲しいのに、手を引かれるのは嫌じゃない。そんな矛盾が、私の内側を温かくする。
彼の横顔を眺めるのが好き。
頬骨の影に一日の疲れが落ちる瞬間も、笑うときだけ目尻に皺が寄るのも、全部。
私の作った飴玉を舌で転がす姿が好き。
無言で差し出したときの、ほんの一拍の“ありがとう”みたいな沈黙も。
ベッドの上で、彼に頭を撫でられるのが好き。
指先が髪を梳くたび、考え事がほどけて、かわりに不安が顔を出す――この時間は、いつまで続くのかと。
たくさんの“好き”で、胸がいっぱいになる。
甘さで満ちるたび、どこかがきゅっと痛む。飴が小さくひび割れて、舌先に鋭さを残すみたいに。
いつまでもダークとの暮らしが続けばいい――。
そう、私は願っていた。願いは祈りより静かで、告示の黒い文字よりも弱い。それでも、歩幅を合わせるたび、心の中の小さな灯は少し明るくなる。
そんな夢のような時間も。
街に溢れる炎と共に、終わりを告げた。
◇(5/6) 英雄と私◇
私は今、帝都〈フレイムハルド〉の高級宿の一室で荷物整理をしていた。
壁は磨かれた赤褐色の玄武岩で彩られ、天井からは火晶石の燭台が温かな光を落とす。
真鍮の格子窓の向こうでは鍛冶場の火柱がときどき夜気を染め、乾いた風が香油と燻し革の匂いを運んできた。
私は窓を閉め、そのまま長椅子に腰を下ろす。
飴の糖で固まった袖口の灰青の麻シャツと、色の抜けた苔緑の前掛けが小さく跳ねた。
厚い赤の絨毯は踏むと柔らかく沈み、指先で触れた長椅子の竜革は熱の名残をほんのり宿している。
焦げ茶のワークスカートの生成りの当て布が、椅子の縁で擦れて小さく鳴った。
現炎帝フレイア・バーニング二十一世の名で手配された客人宿の一室。
机には皇帝印の押された書簡、壁には帝紋の織物。
窓辺の二人掛けの長椅子に座るは私ひとり。
私は膝の上に置いた魔法の携帯袋の中身を眺め、もやの向こうにある物品のチェックを続ける。
今夜が、私とダークの別れの夜。
私はダークの旅路の助けになるものを選定し、魔法の携帯袋に詰めていた。
――あの日、ダークは一つの街を救った。
アドリ地方の温泉都市〈アドリス〉に淫魔族が襲撃してきた時、私とダークも街に居合わせた。
淫魔族は一定レベル以下の女を魅了する。
そして彼らの長である淫魔王は、全ての女性を従えるとも言われていた。
近頃、淫魔族と女性特攻モンスターの襲撃が絶えないのは、二代目の淫魔王が生まれたからだと、噂されていた。
『あ、ああ……!?』
『ちびっ!? ――オレ様の料理番に、何しやがるっ!!』
淫魔族――インキュバスたちの〈魅了〉が目に見えない糸になって、私に絡みつく間際。
ダークは人目をはばからず力を奮った。
血みどろになりながらもダークは戦い続け、街を襲う淫魔たちを一人で滅ぼした。
その後の段取りは驚くほど早かった。
ダークと私は、白布の腕章を付け青いシスターヴェールを被った検査官たちに連行された。
そして女神教と冒険者ギルド、炎帝フレイアの立会いの下、ダークは宿命の子――レベルの下がらない才能〈女神の祝福〉の保有者と認定された。
これからダークは、四百年前の英雄ランズ同様、淫魔を滅ぼすための旅に出る。
四大国の保有する四属性ダンジョンをめぐり、守護精霊の信認を得る。
最終目的地である魔大陸へと渡り、淫魔王と対決することになる。
かつての英雄ランズはどうだったか。
私が見た絵本『英雄ランズ物語』では――レベル10になった英雄ランズは、淫魔王を倒した後、帰らぬ人となっていた。
私は魔法の携帯袋の布を強く握り締めた。
火晶石の明滅の中、大粒の涙が布地に染みを作っていく。
扉が二度だけ鳴る。真鍮の格子窓の影がわずかに揺れた。
私は袖で涙の跡を押さえる。
携帯袋の紐を結び直して、立ち上がった。
扉を開けると、熱を含んだ夜風と一緒に、薬草と石鹸の匂いが流れ込む。
ダークが立っていた。濃紺の詰襟コート――胸元の真鍮のトグルがひとつだけ留められ、襟裏には小さな帝紋のピンが光っている。
額に落ちた白銀の髪の一房が青い瞳の縁で煌めいた。
「……暑いな。預かれ」
言うが早いか、彼はトグルを外して肩から詰襟コートを滑らせる。
私は両手を差し出して受け取った。濃紺の布は思ったより重く、裏の薄い毛織が指先に柔らかい。
詰襟コートを机に丁寧に畳んで置いた。
濃紺の重みを、少しだけ私が預かった気がした。
扉が閉まる音が背後で短く響き、廊下の足音と祈祷の小声が遠のく。
振り返って私はダークの側に寄る。
背出会った頃よりも、頭一つ分伸びていた。
見上げた時、ダークが大きな雪白の亜麻シャツの第一留めを指で外しているのを見つける。
次いで、墨黒の細身のパンツの埃を彼は手で払う。
艶を落とした黒の短靴が火晶石の明滅を拾った。
「遅かったね」
「検査だの宣誓だの――退屈極まりない」
いつもの響き。
けれど、声の底には鉄の摩耗みたいな疲れが混じる。
私は身をよけ、彼を窓辺に招き入れた。
「荷は?」
「ここにあるよ。必要な薬と替えの杖、地図と……飴玉。三種」
ダークの問いに私は答える。
長椅子の上の携帯袋を指で示すと、ダークは唇の端だけで笑った。
一歩身を寄せて、私の頭に大きな手を乗せる。
戦いと共に増えた杖だこのざらつきが髪に触れる。根元から静かに撫で下ろされる感触に、胸のわだかまりがひとつ消えていく。
「世話をかけたな」
「――っ」
喉の奥で小さく音が漏れる。
まるで今生の別れを告げられた気がして。
考えるより早く、私は彼の懐へ飛び込んでいた。
亜麻シャツが頬に当たる。
布越しに伝わるのは均された呼吸と規則正しい鼓動だけ。
私は腕を強く回し、彼の背へ指を食い込ませた。
「……どうして、あなたが行かなきゃいけないんだろう、ね」
「ちび――」
「私と、逃げようよ、ダーク。誰も私たちを知らない場所へ……」
私は額を彼の胸に押し当てたまま、息を吸う。
石鹸と清涼な薬草油の香りが鼻を満たし、喉の奥まで冷たく広がる。
溢れだした雫は、亜麻の繊維に染み入っていった。
英雄ランズは帰らなかった。
厳しい戦いに身を置くことになるダークが、そうならないとどうして言えようか?
胸の内で言葉が擦れ、心臓の音が少し速くなる。
私は喉をしゃくりあげ、湿った音を奏で続ける。
息が短く切れて、肩が彼の腹に小さく当たった。
「ついて行きたいよ、ダーク。置いてかないで。私、もうあなたがいなきゃ、生きていけないの。私の手の届かないところに、行かないで……。お願い、ダーク……」
ダークは短く黙り、私の後ろ髪をゆっくり撫でつけた。
彼の右指がうなじをかすめ、もう片方の腕が背に回って私をさらに引き寄せた。
見上げると、濡れた碧眼が灯りを映して深くなり、まぶたの影が静かに落ちている。
「今のオレ様には、お前を守る力が足りない。――今は、オレ様から離れるべきだ」
初めて彼がこぼした弱音。
言葉が胸の奥に沈んで、底から締め付ける。
火晶石の灯が低く唸り、真鍮格子の影が床で細く伸びた。
握りしめていた裾に、私の指がしわを刻む。
「やだよ、嫌だよ……」
声に合わせて肩が細かく震え、亜麻の胸元に涙の濃い花がひとつ増えた。
喉の奥がつまって息が浅くなる。指先が彼の背の布を必死に摘まむ。
目尻に溜まった雫がこぼれ、頬の温度だけが取り残される。
短く首を振る私に、ダークは諭すように言った。
それは、今まで聞いたどんな声よりも、穏やかな音で満ちていた。
「ミルク」
「――ッ」
私は反射で顔を上げる。
潤んだ視界の向こうに、ダークが柔らかな微笑みを湛えていた。
笑っているのに、目はまっすぐで、逃げ場を作らない。
彼の右親指がそっと顎下に触れ、私の顔を持ち上げる。指先の冷たさが、泣き顔の熱を少しだけ均す。
「……オレ様は、ランズなんかと違う。面倒ごとを全て片付けて、きっと生きてお前の下に帰ってくる。それまで、待ってくれるな? なあ、ミルク――」
乾いた喉がひとつ鳴り、胸の鼓動が数拍だけ速まる。
信じたい、でも怖い。
二つの気持ちが胸の内側で擦れて、火花のような痛みが瞬く。
窓の外で夜警の角笛が遠く短く鳴り、時計の針のように決意が時刻を指す。
「出会ってくれて、ありがとう」
ダークの素直な言葉。
私がうなずく間もなく、彼は続ける。
抱き留める腕から、体温が静かに伝わってくる。
「好いてくれて、ありがとう」
彼の口角がわずかに緩み、頬骨に灯りの線が優しく浮く。
「世話をずっと焼いてくれて、ありがとう」
ダークが私の頬を右手で触れる。
温かい手に私は身を委ねる。
高鳴っていく鼓動に、身を溶かした――。
「……お前が好きだ」
影が落ちる。言葉の重さに、世界が一瞬だけ静かになる。
ダークの唇が、私の唇と触れた。垂れ落ちた銀の髪が頬をくすぐり、涙の筋に優しく触れていく。
今はただ温もりが心地よい。
私は目を閉じる。それでも、雫は溢れ続けた。
部屋はゆっくりと静まり、やがて二人の呼吸だけになる。
言葉はもう、要らなかった。
――その後、ダークは長い旅の果てに淫魔王を打ち倒し、世界を救った。
けれど、彼は帰還しなかった。
◇(6/6) ダークと私◇
開店前、硝子越しに列が伸びている。
砂糖を煮る鍋が小さく弾け、泡のはぜる音が朝の静けさに点々と灯をともす。
私は温めた大理石の台に糸を引いた飴を落とし、羽根の形にひらりと置いていく。薄い羽は光をつかんで、透きとおった青にきらめく。
店内の壁の釘には、濃紺の詰襟コートが掛かっている。
毎朝、埃を払って掛け直すのが習いだ。布地を手の甲で滑らせると、真鍮のトグルがからりと鳴る。その音は、胸の奥のどこかと同じ高さで響く。掛け直したコートの裾が、朝の風にわずかに揺れた。
青いシスターヴェールの検査官が『英雄凱歌祭』の掲示紙を店の入り口に貼っていく。
「新作は“氷の花”でよろしいですか、ミルクさん?」
「ええ。今日も、売り切れると思いますよ?」
戸口の小さな鈴が風でこすれ合う。
まだ開けていない扉の向こうで子どもが背伸びして硝子に額を押しつける影が伸びた。
――二十三歳となった私は今、帝都近郊の街で菓子職人として働いている。
ダークとの生活でレベルがあがり、囮生活で培った体力は重労働な菓子職人の暮らしにも活きていた。
かつて囮で走り抜けた脚は、いまは粉袋を運ぶためにあり、腕の筋は銅鍋を振るためにある。肘の内側に残った固い豆が、重労働の一日を変わらず支えてくれる。
『焔の宮廷』『雪化粧』『苔むす』――私が名づけた飴のフレーバーは、この国の人達の舌にうまく馴染んだらしい。
元いた世界の菓子を写したものも、ここでは新しい顔をして受け入れられた。
新商品を出すたび、朝はこうして行列になる。
小さな台に紙箱を積み上げ、包み紙の色を三色――赤、琥珀、薄緑――交互に並べると、棚が祭りの旗みたいに明るくなる。
女神教が「ダークが淫魔王を討った」と宣言してから、半年が過ぎた。
夜の鐘は定刻どおりに鳴り、門は早く閉まらない。
冒険者ギルドの掲示板からは“緊急”の札が減り、代わりに祭りの手伝い募集が増えた。
街角の噂話は甘い菓子の値切りに移り、あの甘く腐った果実のような〈魅了〉の匂いは、いつの間にか風から消えた。
世界は静かに、平和になっている。
濃紺のコートを、毎朝掛け直す手つきだけが、私の中で時間を巻き戻す。
◇◆◇
夕暮れ時。
硝子戸を薄く紫が洗い、通りの影が長く伸びる。
外の街路では、楽師が演奏を再開したらしい。
遠い弦の音が、温い空気に一本、細い道を引いて、店の奥までそっと入り込んでくる。焼けた石畳の匂いに香辛料の粉が混ざり、灯り始めた松明が油のにおいで夜を呼ぶ。
「……」
英雄ダークを讃える歌が、戸口の隙間からふっと差し込む。
歌詞のひと節が、私の胸を空しく通り過ぎ、鍋の縁で弾けた砂糖の音に紛れて消える。
戸口の札を「準備中」に返し、閂に手をかける前に、女主人が帳場から顔を出す。歳は私と変わらず、すでに二人の子供を育てている方だった。店の裏手に住まいがあり、両親に子の面倒を見てもらいながら働いているとのこと。
茶髪を布でまとめた額には粉砂糖が少し付いている。
後ろからは、手伝いの旦那さんがほうきを携えて現れ、床の砂糖のかけらを集めながら、外の弦の調子に合わせて口笛をひと節。
「ミルク、そろそろ店じまいにしようか」
「はい、天板は冷ましておきます」
私は“氷の花”を薄紙で覆い、銅鍋に布をかける。
木べらを水に浸すと、甘い湯気が一度だけ胸に返ってくる。
旦那さんが硝子戸の桟を布で磨き、女主人は勘定箱の小銭を音の高さで数える。
からり、からり。いつもの閉店の音階が夜に溶けていく。
店じまいも終わりかけたとき、戸口の鈴がひとりでに小さく震えた。
風が変わった――と思う間もなく、フードを深めに被った旅人が、硝子越しに立っている。
顔は影に沈んで見えない。
濃紺の外套の裾が砂色の風に細く揺れ、真鍮の留め具が月の最初の光をかすかに受けた。
私は軒先に出て、背の高い旅人に話しかける。
「すみません、もう――」
閉店だと告げかけて、私は言葉を飲む。
旅人の指が軽く上がり、「ひとつだけ」と合図を送る。私は扉を背にして一歩踏み出す。軒先の影が体を包み、空気がすっと涼しくなる。
「“焔の宮廷”を、一つ」
低く抑えた声。
私は、その聞き間違いようのない声を聞いて、足元から力が抜けた。
地面に座りこむ。
鈴の余韻より静かなのに、胸骨の裏を確かに叩く。
「……一つで、よろしいでしょうか?」
私は恐る恐る口を開く。
声がかすれて、自分のものじゃないみたいだった。
溢れ出る想いを、必死に抑えて、私はその旅人に尋ねた。
旅人は包帯を巻いた指先を顎に添えた。
しばし考えこんだ後、彼は穏やかな声音で告げる。
唇の端が、ほんのわずかに上がっていた。
「”ミルク”も付けてもらおうか」
言葉と同時に、旅人は前かがみになり、腕を伸ばす。
布で覆われた掌がランタンの光に浮かび、指の節が温度を宿して近づいてくる。
私はその手を両手で包む。
石鹸と薬草油の匂いが、庇の影でふっと濃くなった。
「はい――」
地面に大粒の雫が染みを作る。
握った掌の温みが、軒先の夜に小さく灯る。
看板の鎖が風でからりと鳴り、通りの弦は次の調べへ移った。
◇■◇
年代記は簡素にこう綴る。
――英雄ダーク、二代目淫魔王を討ちて帰らず。女神教の凱歌録にも同様に記される。
しかし後世の史家の一部は、彼はあえて死を偽装したのだと解釈する。
英雄として飾られる日々は静かな暮らしを遠ざける――だから彼は、死を装い、名を置いたのだと。
近年、火の帝国からはるか離れた浮遊島――仙島で、風に磨かれた黒石の碑が見つかった。
並んで刻まれた二つの名――ダーク、そしてその伴侶ミルク。
刻みの浅さも、素朴な意匠も、まるで秘密の合図のようだという。
真偽は風に委ねられたままだが、二人が望んだ静けさにふさわしい。
英雄の名は歌の中に、二人の名は穏やかな蒼穹の下に。
- End -
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
本短編はこれにて完結です。
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