下霞峠に伝わる昔話
とある里山には鬼が住んでいると言い伝えられていた。修行のために訪れた山伏がその鬼と出会う。山伏は最初、鬼だと気づかず、近くの村から迷い込んできた村民だと勘違いして声をかけた。
「どうされましたか、こんなところまで迷い込んでしまったのですか」
「迷い込んだとは? ここは私の家でございます」
「家? そのような建物はどこにも見当たりませんよ」
「この山全体が私の家です」
その返答に山伏ははっとした。この里山には鬼が住むという言い伝えを思い出したのだ。
「まさか、お前は――」
「私のことを鬼、と呼ぶ人々がいるのは存じ上げています」
鬼と呼ばれているわりには丁寧すぎる受け答えに、山伏は目を丸くした。
「この辺りに住む人ではないようですね。取って食ったりはしませんよ」
「何故、鬼と呼ばれているのだ」
「下の人々が畏れているのですよ」
「畏れる? 何をしたのだ、お前は」
「下の人々に様々な知識を授け、その代わりにこの山を譲り受けました」
「利益をもたらしたのに、鬼と呼ばれるとは。気分も良くないだろう」
「いいえ、私は気にしていません」
「随分と心が広いな」
「山伏よ、この場所は修行に適していません」
山伏は鬼から冷たい無機質な視線を浴びた。温かみが全くない、その鬼気迫る雰囲気に、じわりと脂汗が全身を伝った。
「承知した。すぐに下山して故郷に戻る」
「麓の村へ必ず立ち寄りなさい」
「麓の村?」
「必ず立ち寄るのですよ」
鬼はそう言い残すと山の奥へと消えていった。山伏は黒装束をまとった鬼の姿が完全に見えなくなるまで、じっとその背中を見つめ続けた。
それから山伏は、二度と故郷に帰ることはなかった。