蜘蛛
昨日、嬉しいことに大学を卒業した健兄が戻ってきてくれた。今日は休日なので健兄を一目見ようと早朝から起きてお化粧をして家を出たのである。
しかし、あのコダマと名乗る女は何者なんだろうか。尻が軽そうなクセして健兄と一年間も暮らしていただなんて、絶対居候で済むわけない! 何故か健兄のお母さんは怪しいぐらいに信用してたけど、あんなことやこんなことをしていたに決まってる。
いつもより明らかに強く踏み締めながら畦道を進む。
「こんなところ、歩く人なんていないはずだけどなぁ」
地を見つめているとそこには五本の指が揃った足跡があった。それは山の方まで続いている。田舎の舗装されていない道を歩く馬鹿がいるのかと思いながらも真綾は吸い寄せられるようにそれを辿る。
こんなところに寄ることもないので足元に気をつけながら向かうと知った髪色の女が草木に隠れながら仰向けに倒れているのが見えた。忘れちゃいない。こんなにも青い女はコダマしかいない。
「えっと、コダマさん。ですよ……ね」
小さな悲鳴は口に籠る形で外に出ず、立ち尽くすことしかできなかった。
青は立ち上がる。肌の色、毛の色、身長まで昨日見たそのままだったけれど彼女の姿は未知であり真綾にとって恐怖そのものなのだ。
狐の尾や耳に加え、真っ黒い目が三対ずつあり、口からは二本の牙が露出していて、節を持った腕が両の脇腹から一本ずつ生えていた。
「あ、ああ、ぁぁ——」
尻もちをついて、両手で退こうとすると青は立ち上がってこちらを睨みつける。
生暖かい感覚が股から広がっていく。
「私、おいしくありません。おいしくないですからぁ!」
「別に今の体になってから、食う必要はないんだが」
それはため息をついて何か呟く。気の動転しているに真綾にとってそんなもの雑音にしかならず理解できなかった。
「こんな姿を知り合いに見せたくないかったが仕方ない。これも俺への罰だろう。そうだ、新田さん。俺は今どんな姿をしている?」
喉が渇いているのか、コダマの姿に驚いているか口を金魚のように動かしても音は出ない。
「あ、あなたは一体何者なんですか?」
「さあね、人間でないことは明らかだ。今、目を覚ましたところだから俺自身も今どんな姿をしているかさっぱりだよ」
「そんなの見てればわかります。その目も口も耳も尻尾も——」
——化け物だ。
顔中がぐしゃぐしゃになっていくのがわかる。影に流れてくる風は冷たいもので濡れた局部を強調するように撫でた。
「新田さん、少し時間あるか? 聞きたいことがある」
化け物はシワのついたぐちゃぐちゃのハンカチのようになった真綾を抱き上げると山の方へ脚を向ける。真綾は必死に暴れ逃げようとするが虚しくも四本の腕で抑えられる。真綾の腕を抑える力は彼女の呼吸の方法すら忘れさせてしまうほどだった。
木々の間を縫うように進み、五分もしないうちに山の裏にある小川に到着した。私はコダマさんの指示通りに顔を洗い、水流の音で脳を冷やしたところでやっと目の前のモノの言うことを理解することができた。
「コダマさんでいいんですよね? 健兄のところの」
「健二のことを言っているのならそうだ。昨晩、大きい化け蜘蛛に遭遇して噛まれたらこんなことになっていてな」
コダマは続けて文句を垂れるようにぶつぶつと言っている。
「ところで新田さんはこのあたりで妖怪とか怪異の伝承とか噂とかを聞いた覚えはあるか?」
首を横に振って否定する。真綾は14の時に越してきてまだ三年しか経っておらず散村ということもあってそういうものは耳にする機会がないのだ。
「コダマさんはどんな存在なんですか? 耳は思いっきり狐ですし、目は蜘蛛ですけど、青いのは——」
「最初は鬼だったんだよ、一端の鬼に取り憑かれてさ」
コダマさんはどうやら取り憑かれた以前の記憶が男であったこと以外消えているらしい。私はなぜそんな中途半端に消したのかと疑問だったが原因が祓われた以上真実は知ることができないと言われ、勝手にイタズラということで落ち着けることにした。
特定の記憶が残っていること以上に自分が誰かもわからず肉体さえも変異していく恐怖に遭う怪異の背中に漂う哀愁を見ることしかできないむず痒さが私の心を埋め尽くすのだ。
「新田、ちょっとやばいかもしれない」
本来の外出の目的を忘れ、人と怪物の中間と談笑していると彼女は急に口を止めて一本の腕で私を引っ張り上げるのだ。
私にもわかるぐらい木が倒れる音が大きくなり、ついに向こう岸の方から私たちの何倍もの大きさをした大蜘蛛が現れた。
『私の子を殺した奴はお前だな』
「おいおい、この世は弱肉強食だぜ。負けた方が悪いに決まってるだろ」
コダマは大蜘蛛の発射した液体を飛び上がって避け、川に脚をつける。私たちがいた場所は煙を上げてドロドロになっている。
そのまま後ろにステップして二度目の発射を避けると早くも痺れを切らしたのか大蜘蛛は脚で横に薙ぐようにしてをコダマを殴る。
「めんどくさいな」
コダマは数本木を折るほど吹っ飛ぶ。
『やはり部外者、二人とも元々この地の生まれでないな?』
「すまない、新田さん。少し乱暴にするが許してくれよ」
「えっ」
私は素っ頓狂な返事漏らすとコダマは私を背中の方に回し、水飛沫をあげて突進するようにして大蜘蛛に急接近する。しかし、それをすでに悟っているかのように大蜘蛛は片腕で手刀を防いでコダマを払った。
「くっそ、かてぇ。やっぱ燃やさないとダメか」
『少しは私の血が混じっているようですが、あなた何者ですか?』
「……それ答えんのも飽きたわ、新田ちょっと逃げるから後ろの様子見てろ」
私の腹を抱える力をより一層強化し、大蜘蛛が突撃してできた道の方に走る。
「ちょっと待ってくださいよ! 来てる蜘蛛来てる、キモいからぁ!」
コダマはへし折られた木に飛び移りながら前に進む一方、大蜘蛛はわさわさと音を鳴らして自身が倒した丸太で脚を滑らせながらもこちらに近づいてくるのだ。
『早く止まりなさい。あなたのような異分子は放って置けません』
「嫌だね。お前に殺されたら俺は何故生きているのかわかるのか? 教えてくれるのか」
私のスカートの裾が乾いたところでコダマは急停止し、私を背中から降ろして逃げろと一言だけ残した。
私はコダマさんにとって足手纏いでしかないのだ。彼女はただ火の粉を振り払うためにあの蜘蛛と対峙しているのであって、私の命は二の次なのだろう。ただ一人私だけが弱く、加わろうとも思えない。
大蜘蛛が追いつく前に木陰に身を隠すとすぐに蜘蛛が飛び上がってきて地を揺らし私を宙に浮かせる。息を呑むと同時に大蜘蛛が奇声を発して溶解液を飛ばす。
コダマはすぐにそれを避けながら手頃な木片を数本握る。追うように飛んでくる粘度の高い糸と溶解液を引きつけながら徐々に接近し、大蜘蛛の頭上に乗っかって目玉の一つを貫くと、それは抵抗するようにしてコダマを吹き飛ばす。
握ったままの木片のうちの一本を投げる。
「マジか」
それは脚に当たるも硬くて弾かれてしまい、その隙にコダマは蜘蛛の糸に捕まってしまう。大蜘蛛はコダマを引っ張り上げると器用に大木に括り付ける。
『この世は弱肉強食ですから我が子を殺したのはいいです。食料が少しだけ減っただけですし。聞いておきたいのはあなたの存在です。その穢れと神秘が混じったその魂はどういうことですか?』
七つの赤い目が光る。コダマは億劫そうに目を逸らすも大蜘蛛はそれを許さぬ一撃を鳩尾に入れ、彼女の肺に入っている空気を外へ押し出した。
「ごほっごほっ、口調の割に荒っぽいんだな」
『早く話しなさい、私はあまり気の長い方ではないのです』
二発、三発と間髪入れずに打撃を入れる。
何故だろう、とそれだけ思った。昨日の警戒心が吹き飛ぶほどの同情を持っていてその上恩もあるはずなのに、目の前の痛々しい光景を見ても硬直した体は動かない。
「俺が何者なのかなんて、俺が一番訊きたいわ! 記憶が消えて、取り憑かれて、助けられて。でも捨てられて、何もかも失って行き場もわからず、助けてもらったけど結局これだ。誰か、誰か教えろよ。俺は何故生きてるんだ」
『なるほど、そういうことですか。鬼に狐に、そして蜘蛛。同情はしますが前例がない以上危険なことには変わりません。いつ何が混じるかわかったものじゃ分かりませんから』
「わかるのか」
『ええ、私はただの土蜘蛛ですがただ保けて生き延びているわけではありませんから。何がどうであれ、人のことなどどうでも良いのです。敵対さえしなければの話ですが』
「クソが、やってやるよ。俺が狐火を使えるってことぐらいわかるだろ」
その瞬間、コダマは私の頬に熱が伝わるぐらいの大きさの炎を自身に纏わせる。それはすぐに体にまとわりついた糸や大木を焼き尽くしてコダマの身を自由にさせる。炎が止むと衣類も一緒に焼けたせいか跡形も消えており煙を上げる裸体が露わになる。
「俺が使えるのはちっぽけだけどなぁ、燃え移れば別だよな!」
コダマは倒木の幹をへし折り、着火させて蜘蛛の方に投擲する。それは大蜘蛛の脚を掠めてその背後の大木に当たり、燃え広がっていく。コダマは一歩だけよろけるが踏ん張って大蜘蛛の方を睨みつける。光のように早い大蜘蛛の脚はコダマを貫くことなく地を叩く。
三者を囲むように広がっていく火炎の熱のせいか真綾の喉に何かがくっついているように感じ、思わず唾を飲み込むと真綾はそれを自覚してしまうのだ。汗が前髪を数本にまとめ、額に張り付く。こんなものに介入してしまえばひとたまりもないだろうな、と他人行儀な思考に陥ってしまうのだ。
疲労が見えてきた大蜘蛛の攻撃はとうとう脚を地に突き刺すと数秒間止まるようになり、それを見たコダマはすぐに飛び上がって大蜘蛛の頭を叩く。するとそれは八本の脚を広げるようにして地に臥し、火だるまになった蜘蛛と狐のキメラによって焼き尽くされる。
『あなたは……どこに向かうのですか?』
「さあな、どこに行けばいいかもわからないね」
大蜘蛛は煙になって消滅した。
「新田さん、すぐ逃げるぞ。このままじゃ放火魔になってしまう。背中に乗ってくれ」
私は飛び出してコダマさんの方に近寄る。
「すみません、なんの力にもなれなくて」
「適材適所だよ。今の俺にはこれしか能がない」
その後、逃げるようにその場を去った。たつ鳥跡を濁さないどころか荒らし燃やしているので申し訳ない気持ちがある反面、死を回避できたのでしょうがないという気持ちもある。
「健二にはどこかにいくとでも伝えておいてくれ」
直接私の家に戻り、服と下着をそれぞれ渡すと彼女は一休みもすることもなく姿をくらましてしまった。
「そうか、コダマさんはまたひとりなのか」
健兄にコダマさんが紆余曲折あって旅立ったことを伝えると眉を顰めてから一度微笑むようにして了解の一言を紡ぐのだ。
「健兄はなんであの人を泊めようと思ったの?」
「僕もわからないよ。もしかしたら彼女には惹き寄せる何かがあるのかもしれない」
次に会うことはあるのか、いつ会うのか、どんな姿になっているのか。私には知る由もないのだけれど不意に考えてしまうのだった。
存在意義というのを考えたことはあるでしょうか。「これを生み出した」とか「こういう人の役に立った」とか、存在意義は自分の価値となりますが他人との比較によって劣等感を加速させたりそれがないと生きる意欲を喪失させてしまうことにもなります。
コダマは意識と直前の記憶以外の全てを剥奪されたがためにいなくても良い存在に成り下がってしまいました。容姿が変わり身寄りもない以上戸籍が消えたも同然です。
唯一コンタクトを取れる存在はコダマを騙し、人外にしてくるのですから泣きっ面に蜂もいいところです。(今考えてみると轢いただけで人生が終わるの罪と罰が釣り合っていない気がする。)
ともかく、彼女(彼)はそこから存在意義を見つけるために奔走することになります。本作品では見つけるところまで描きませんでした。
実は私にもコダマがどうすれば他者から必要な存在となれるのかわからないのです。