十四、ライアン①
ライアンは幼いころから西の国の王になるための教育を受けてきたが、政治や法律、兵法などは彼にとって全く魅力のない学問であった。彼のぼんやりとした受講態度にどの教師も頭を抱えていたが、ライアンの父はそんな彼を見て、気晴らしのためと科学者の家庭教師を一人つけてくれた。そのオットーという科学者は年齢としては80を超えており、既に研究の最前線から退いた人物であったが、博識でおよそ理系の分野において物理でも生物でも知らないことはほぼなかった。また、様々な王族の家庭教師として呼ばれてはいたので多忙であったが、授業に手を抜くことはなく、ライアンの質問にはどんなことでも実に丁寧に答えた。ライアンはその理科的探究心からめきめきと頭角を現すが、オットーはその事を王や王妃には伝えなかった。科学を楽しむというのはライアンとオットーの二人だけの楽しみにしておこうという約束をしていたのだ。ライアンにとってあの頃の思い出は宝物と言ってもいいものであった。
私が最も興味をひかれたのが物理学であった。我が西の国は小国であったが、こと物理学に関しては近隣の技術を圧倒していた。しかし、もともと農業国であったがゆえにそれを生かして産業を興すという事に王は全く興味を示さなかった。宝の持ち腐れだったのである。
私が10歳の頃、オットーの授業のテーマが内燃機関エンジンに及んだ時の事であった。当時まだ環境に配慮するという概念がなかった頃、私は排気ガスについての疑問をオットーに投げかけた。
「石炭を燃やした時に出る排煙は人間には毒ではないの?」
「もちろん人体にいいものではありません。ですが、排煙は空気中で濃度が薄められます。吸い続けるようなことをしなければ大丈夫だとは思いますが、それが何年にも渡ると悪影響は否定できません」
「そういうものを使うのはいい事ではないね。ねえ、オットー、自然にあるものを燃料とした時に出る排煙のようなものはどんなものを使っても人体には良くないの?石炭以外に何か代わりになるものはないのかな?」
オットーは声を潜める。
「無いわけではございません」
「ええ?そうなの?それはどこにあるの?」
オットーはさらに声を潜める。
「ここから先は私と殿下の秘密になさってください」
「うん、誰にも言わないよ」
「お隣の王国の…、箱舟です」
ライアンの脳裏に箱舟の巨大な姿が浮かぶ。
「あれってそうなんだ。中はどうなっているの?」
「それは申し上げられません。詳しくは存じ上げないので。昔私の事を教えてくださった先生から聞いただけですから。私も見てみたいとは思うのですが、今は近付くことが出来ないのですよ。殿下もあまり近付かないようお気を付けください」
見るなと言われたら見たくなるのが子供である。
それから私はちょっと城を抜け出しては、一人で国境を越えて箱舟の観察に行くのが息抜きになっていた。私は城は好きではなかった。未来の王としての手腕を期待されていないのもわかっていた。誰も自分の事を分かってくれない。誰も助けてくれない。それなのに自分は王になるしかないのだ。才能が無くても、なりたくなくても、期待されていなくても…。
(科学者になりたかったな…)
そんな事を考えながら箱舟を眺めていた。決められたレールとはいえ、誰に追い回されるわけでなく気楽に軌道を走り続ける箱舟は、私にとって数少ない友人であった。
私が発見した、箱舟観察のために国境を超える最短ルートは、東にある教会の横をすり抜けていく道だった。西の国には街中にもっと立派な教会があり、そんなへんぴなところに教会があることを王国への抜け道を探していた時に初めて知った。教会は殆ど人けがなく、誰にも見つかる心配がないようだった。教会の横の森はうっそうとした感じではなく歩きやすかった。その森を少し歩けばすぐに箱舟のレールが見えてきた。レールはまっすぐなコースを取っていて、私はそこにクッキーや本を持ってきて過ごすことが多かった。
ある日、箱舟を眺めての帰り道、教会の横を通るとたまたまドアが少し開いていた。この教会は飾り気がなくこじんまりとしていたが、こんな森の中にあるにしては大きな作りで、中はどうなっているのかと以前から気になっていた。
ギィとドアを開けて中に声をかけたが、返事はなかった。私はドアを開けて体を中に滑り込ませるとそっとドアを閉めた。中には50人ほどが集まれる礼拝堂があり、正面には祭壇とキリストの像があった。中に入っていくと椅子の一つに腰かけて室内をぐるりと見渡した。そして不思議な事に気が付いた。建ててからずいぶん経っているように思われたが、人の気配を感じないのである。普通こういうところはちょっとした傷が椅子についていたり、細かいゴミが落ちていたりと人の出入りによって自然に生じることがあるものだが、それが無いのだ。
(人々が出入りする教会にしては…きれいすぎる)
その感覚の正体を知りたくて、私は立ち上がると礼拝堂の中を歩き始めた。正面の祭壇の前に来てキリスト像を見上げる。木でできているのだろうが、白く塗られている。暫くそうして眺めてから、自分が勝手にそこに入ってきたことを思い出すと、あまり長居することがあまり好ましい事ではないように思われた。王子ならどこでも好きなように入っていいというものでもない。離れがたい雰囲気を感じながらもライアンはゆっくりと出口に向かって歩き出した。
離れ難い?いや、離れ難いのではない。違和感があるのだ。何か変だな。そう思いながら出口で振り返って、もう一度キリスト像を見る。そしてある考えに思い当たる。
あのキリスト像の手にあるのは本なのか?キリストが、本など持つのだろうか?
そう考えると急に気になりだした。私は小走りにキリスト像の所に戻ると、改めてその手の中にある本を見つめた。
間違いない、あれは木や石ではなく、『本』だ。
その本はとても手が届くところにはなかったがどうしても中を見たくなった。そこで何か棒のようなものはないかと辺りを探し回った。教会の裏手でやっと長い角材を見つけると、それを持ってきて下から本を押すと、ぱたりと落ちてきた。
私はそれを拾い上げるとパラパラと中身を確認した。
その内容を見た瞬間、私の心臓は早鐘のように鳴った。私はその本を懐に押し込むと静かに礼拝堂を抜け出した。
どこをどう走って城まで戻ったのかわからなかったが、部屋についてドアを閉めると全身が汗でびっしょりと濡れていた。メイドがしつこく着替えを勧めるので、あまり拒否をして変に勘繰られるのも嫌だったので渋々従った。
やっと落ち着いて本を開くことが出来たのは、食事や入浴を済ませた夜遅くになってからであった。
改めて手に取ると、持って帰るときには夢中で気が付かなかったが、ずっしりと重い本であった。
中身は箱舟の構造から始まってその動力や攻撃性能など詳しく書かれていた。これは、箱舟の取扱説明書だ。
じっくり読んではみたものの、私には分からない事の方が多かった。おそらくは学者が書いた専門書である。専門家でもない私が読んで分かるわけがなかった。
一晩悩んだ末に、私はその本を持ってオットーの所を訪れた。
「これをどこで?」
オットーは控えめな聞き方をしていたが、明らかに強張った表情をしていた。
「東の国境にある教会の礼拝堂です」
「そこから借りてきたのですか?」
「いいえ、…勝手に持ってきました」
「盗んできたのですか?」
私はその質問を受けて初めて、自分が物を盗んできたことに気が付いた。
「すみません、あの時は気が動転して、気が付いたら持って帰ってきていました」
私はすっかりしょげてしまった。
オットーが話を変える。
「それで、私にこれをどうしろというのですか?」
「分からないことが多すぎて、困っているのです。先生、私にこの内容を説明してもらえませんか?」
オットーが首を横に振る。
「それは出来ません。これは殿下が考えている以上に危険な本です」
そう言いながら、オットーは本を手に取ってパラパラとめくる。
「先生、私はこれを理解して、あの箱舟をどうこうしたいという気持ちはありません。ただ、純粋にあの箱舟の構造について学びたいだけなんです」
本に視線を落としていたオットーが、眼鏡をくいっと持ち上げてライアンを見る。
「学んでどうなさるのですか?」
私はしばらく考える。
「私はお父様が期待しているような王にはなれないでしょう。才能が無いのです。政治も好きではありません…」
オットーは黙って聞いている。
「軽蔑しますよね。やる気のない王子だと思われるかもしれませんが、自分に才能があるかないかなんて自分が一番わかります。私は無能だと自分でも思います。いえ、そう思っていたんです。でも、オットー先生から科学を教わって、自分はそこまでひどくはないと初めて思えたんです。私にとって科学を理解するという事は、自分をつなぎ留めておく錨のようなものなんです。私は自分の事を何も理解できないバカだと思いたくないのです。我儘かもしれません。でも、私はただ、学びたいのです。学ぶ喜びを通して、生きる喜びを取り戻したいのです」
そこまで言うと私の両眼からポロポロと涙がこぼれた。だが、私はその泣き顔を隠そうとはしなかった。それが、隠しようのない本当の私だったからだ。
オットーは俯いて暫く黙っていたが、やがて私を見るとこう言った。
「…わかりました。ではこうしましょう。ここに書いてある事柄の中で、これだけはどうしても知りたいという事を一つだけ選んでください。私はそれを、殿下が理解するまで徹底的に教えましょう。ただし、約束してください。ここで話したことは誰にも、永遠に話さないと。例えば、お父様やライアン様の未来のお子様にもです。そして、その話が済んだら、この本を元の場所に戻してきてください。約束できますか?」
ライアンは真剣なまなざしでしばらくオットーを見ていたが、やがて答えた。
「分かりました。約束します」
オットーは意を決したように本を開いた。
「ではお聞きします。箱舟の、何を知りたいですか?」
「主砲の…構造。戦闘能力についてです」
オットーは瞬時にそのページを開く。まるでその本を使い慣れているように…。
あれから何十年という時が経ち、王となった今でも私は時々箱舟を見に国境の森にやってくる。
国境を越えて西の国から王国に侵入した兵士を箱舟が砲撃したと知らせが入り、大臣達はその対応に大わらわだったが、私に対応策を聞きに来るものはほとんどいなかった。
私は王になったばかりの頃はこのような孤独に苦しんでいたが、今ではもう慣れてしまっていた。世の中には一部の優秀な人間がいて、その人たちが世界を動かしている。私は普通の人間だ。変な巡りあわせでたまたま王になっただけなのだ。
誰にも望まれていないのに…。
それでも王は王である。私は状況を見に行こうと城を出た。あまり長く出歩くことはさすがに今日は無理だろうと考えて馬を出した。厩舎の顔なじみに馬を用意させて城をそっと抜ける。
久しぶりに箱舟を見に行く。大きな事件の視察に行くのだから楽しいというのは不謹慎だと自分でも分かってはいるが、自然と心が躍る。オットー先生と出会ってはっきりとわかったことが一つある。
私は機械が好きなのだ。
国境辺りになると道が細くなり、やがてなくなった。いつものルートで森を抜けていくとやがて少し広い所に出る。はるか向こうからまだ焦げ臭いにおいが漂ってくる。
(ここか…)
そう思いながら馬を進める。箱舟がどういう意図で砲撃してきたのかが分からない以上、迂闊に近づくのは危険だ。遠くから軌道を観察しているとやがて右の方から移動してくる巨大な物体の影が見えた。
箱舟だ。こうして間近に見るのは久しぶりの事だ。大きく、そして美しい。こんなものを作る人間がこの世界には居るのだ。私もそういう人生を歩んでみたかった。
箱舟がだんだん近くに来ると、そこに誰か乗っているのが見えた。私はとっさに馬を引き、物陰に隠れた。箱舟は比較的ゆっくりとしたスピードで走っている。少し緩やかなカーブでひときわスピードが落ちたところで男が箱舟から飛び降りた。その男の顔を見て我が目を疑った。




