第9話 秘密の牢獄~反逆の赤い騎士
それは一瞬が引き延ばされる感覚だった。ロゼールの身体は暗闇の中を延々と落ちて行く。大聖堂の宝物庫は遥か頭上に閉ざされ速度と不安だけが増した。
不意に間近に聖霊術の火が飛んだ。それは辺りを照らし出し、ロゼールは切っ先の範囲に岩壁を見付けて突き立てた。
骨に響く破砕の音。飛び散る石片、苔と水。前回と異なり自身は聖霊術は使えないが、今の邪神の身体強化はそれを補って余りある。
剣を使って速度を殺し浅い泥底に水飛沫を上げた。身体で衝撃を逃がし切り、立ち上がって辺りを見回す。一緒に落ちたハルタはどこだ。
不意に頭上に気配を感じた。
聖霊術の気砲が間近に爆ぜる。ロゼールは真正面から盛大に泥水を被った。
ロゼールが口の中のざりざりを吐き出していると再び頭上に火が浮いた。明けた暗がりからクロエが歩いて来る。咄嗟に受け止めたのか両手でハルタを横抱きにしていた。首に腕を回してしがみ付くハルタはまるでお姫さまのようだった。
「どういうことだ」
クロエが問う。それはこっちの台詞だ。どうしてお姫さま抱っこなのだ。
「大司教猊下がなぜ」
そっちか。眉間に寄せた縦皺は表情に乏しいクロエの目一杯の驚きの表情だ。
「ようやく私の話を聴く気になったか?」
ロゼールは仏頂面で皮肉った。胸を反らして息を吐くと顔の泥が撥ね飛んだ。
辺りの造りは以前落ちた地下洞に似ていた。あのときは王城の地下、王女リリアーテの私室の直下だったが。王都の帰還にここまで似た落ちは欲しくなかった。
かつて大聖堂は王城に併設されていたらしい。もちろん大昔の話だが。スカーロフは世界でも屈指の古い都市で、この一帯は神代から歴史が連なっている。その地下深くに公にない構造物が築かれていたとしても決して不思議ではなかった。
とはいえこの広さ、高さ、大きさは異様だ。
端々は明らかに人の手によるものだが四方は天然の岩壁に溶け込んでいる。まるで石の津波が街を呑み込んだような、神々の怒りを体現した不安を煽る造形だ。
遥か頭上には大聖堂の基礎が覘く。地下洞の上に築かれたというより掘り当てたといった方が正解か。生きて帰れぬ罠の仕掛けに、たまたま活用したのだろう。
常人が無事でいられる高さではないが、聖騎士を落とすことまでは想定していなかったに違いない。神々の使徒はしぶとく頑健だ。それが邪神ならなおさらだ。
ロゼールはクロエと一次休戦を約束した。まずはここを出るのが先だ。まだあらましを掻い摘んだけで納得するには程遠いかも知れない。それでもクロエは自身の聖騎士の立場を置いて邪神に堕ちたロゼールの処遇を保留した。
辺りに注意を払いながらロゼールとクロエは行先を探った。地面はおよそ平坦だが、滲み出た地下水が所々に溜まっている。下水ならロゼールも落ち込んだだろうが、水は底まで澄んでいた。おかげで綺麗に白く剥けた人骨もはっきり見える。
「というかクロエ、いい加減にそいつを下ろせ」
ロゼールはクロエを半眼で睨み、横抱きに抱えられたハルタを指して言った。
「あらアタシはこのままでもいいわよ」
言われて胸元を見おろしたクロエにハルタは小さく手を振って微笑んで見せた。
「そう言ってる」
「そう言ってる、じゃない」
無表情で仏頂面のくせにクロエは昔から可愛いものに目がない。引き剥がされるまで縫いぐるみを離さない類の女だ。一方のハルタは足を濡らすのが嫌で取って付けたようにきゅるんとしている。騙されるなクロエ、それは邪神の使徒なのだ。
「だいたい、いつまでそれを着けてる気だ」
クロエの喉にはブロンエグリーズでハルタに着けられた革帯が締められたままになっている。しかも黒衣の男装に緋色の首輪のアクセントがちょっと格好いい。
「外すなと」
困ったように口を尖らせる。
「あら、取ってあげましょうか」
クロエは首を竦めて首輪を隠し、ハルタから目を逸らして首を振った。
「このままで良い」
なぜか気に入っている様子だ。
味方になればクロエほど心強い者もない、はずがどうにも調子がおかしい。ハルタが絡むと頭の螺子がぽんぽん飛んで行く。旧友を惑わす邪神の使徒めとハルタを忌々しく思うロゼールだったが、自身がすでに壊れている自覚は全くなかった。
「とにかく出口を探そう」
以前のことを思えば追手にも警戒が必要だ。戦力はもちろん後々の言い訳にも分担が要る。前の地下洞で執拗にロゼールを追い詰めたのは神罰器を持った高位の神官兵だった。今となっては大司教の関与にも疑いようがない。
立ち位置が明確になった以上、クロエも覚悟が必要だ。
今度こそと大司教は言った。その意味を考えるとロゼールは背筋が寒くなる。変態であろうと六代も転生した大司教だ。その権勢は全教会を敵に回したも同じだ。
だがそもそもの理由が分からない。この地に踏み入れたことがそうなのか。いずれ今となっては十分過ぎるほど怨みを買ってしまった。敵対は避けようがない。
周囲に注意を払いつつ三人は地下洞を進んだ。方位は勘だ。地図を端から埋める勢いだった。まずは本道と思しき広い路を選ぶも、幾つもの支道が四方に伸びていた。照らされた足許に不都合はないが明暗差が却って先を闇に閉ざしている。
持続の長いクロエの聖霊術を見上げ、ロゼールは自分も分岐に地霊術の灯を投げようとした。奉神に依存しない施術は昔から苦手だったが邪神に堕ちた今では地霊術の他に使えるものがない。ハルタに教えられたのは暴力的な身体強化ばかりだ。
「とうっ」
だが灯の術を唱えたとたん胸元から純潔の誓約が飛び出した。それはロゼールの頭の上に飛び乗るや全身から光を放った。気付けば地霊術まで発現が壊れている。
「それは何だ」
クロエが驚いて目を細めた。どうやらクロエには地霊術の灯でなく顕現した純潔の誓約の姿が見えているらしい。ハルタの神気に触れたせいかも知れない。すでに邪神に汚染されている。
「純潔の誓約ちゃんである」
純潔の誓約はロゼールの頭の上でつんと胸を逸らした。いつの間にか自分でちゃんとか言っている。ロゼールは呻くような吐息を洩らした。問題は誓約ちゃんがロゼールの術の依代になっていることだ。どうやら邪神以前の技能ごと分離しているらしい。
クロエは誓約ちゃんを見つめ、うっと口許を押さえてハルタを振り返る。
「邪神教に入ればこれが?」
「今ならお得なサービス付きよ?」
「やめろクロエ簡単に人生を誤るな」
鼻息荒く誓約ちゃんを覗き込むクロエを押し退けながら、ロゼールはもう少し経緯を語って聞かせることにした。思い出すにつけ苦労と不名誉ばかりで整理するにも一息ついてからと思っていたが、このままではクロエが道を踏み外しかねない。
探索しつつロゼールは総集編ぽい話を身振り手振りで伝えた。ときおりハルタと誓約ちゃんの突っ込みも入った。状況は深刻だが一行は妙に能天気だった。
誓約ちゃんはロゼールの頭にふんぞり返って辺りを照らしている。
「大司教猊下を鞭で?」
「いや待て、他にも色々あっただろう」
クロエの深刻な表情にロゼールが突っ込む。確かに六代神官ともあろう方のあの醜態は信じられないが。しかも悶絶して果てるくらいその尻を引っ叩いたのだが。
「どんな神の信徒であろうと自分に正直なのは悪くないわ。まあ節度を守るならだけれどもね」
どこから節度などという白々しい言葉が出たのかハルタが笑う。こっそりクロエが頷いていた。おまえもおまえだ。
「秩序神閥は自分を律するのが根幹だ」
ロゼールは口を尖らせた。少なくとも大司教は奉じたアラサークに反している。
「修道が高じたのでしょ? 修行が気持ち良いなら何よりじゃない」
「修行で気持ち良くなってどうする」
「あら、ロゼールは気持ち良くなかった?」
洗礼名やあれこれを思い出しロゼールの頬に血が上る。怒った誓約ちゃんが足踏みするようにロゼールの頭を蹴った。思考を共有しているのだから仕方がない。
「じゃ、邪神の使徒め」
もじもじと内股になる自分にロゼールは焦った。ハルタの目は慈しむようだ。
「仲良しだな」
「どこを見てそれを言う」
クロエにロゼールが噛み付いた。
そもそも事態をややこしくした元凶はハルタだ。クロエも聖騎士なら断罪すべきは邪神教の代理神官だろう。ハルタに懐き過ぎなのだ。今も殿を務めるというよりハルタを護るように付き従っている。あの首輪には番犬の呪いでもあるのか。
「クロエ」
「ああ」
二人は不意に表情を改めた。表情に乏しいクロエはそう変わらなかったが。
気配を感じた。足下の水音を殺すように遠くで風が動いている。ロゼールがクロエに目を遣ると小さく頷いて同意を返した。仕掛けて来るなら手前の支路の壁際だ。あえて聖霊術の灯はそのままに、奇襲を警戒しつつ待ち伏せる敵を先制する。
「見つけたぞ」
ところが相手は待ち伏せることもなく目の前に意気揚々と飛び出した。
「とうとう現れたな追手ども、追い詰められたのはそっちの方だ」
三人の前に立ち塞がるや高らかに笑う。必要以上に反っくり返った。
燃えるような紅い髪の少女だ。豪奢に煌めくタイトなドレスは紅く焼き付けた鎖帷子。革の腰帯を斜め掛けに二つ、吊るした剣鞘を腰鎧のように両の太ももに留めている。両手に翳した双剣は知る人ぞ知る星と陽の名を持つ神罰器だ。
ロゼールもクロエもただ呆気に取られて少女を眺めた。おまえも気付けよと声を掛けたかったが、どうやらすっかり自分に酔ってそれどころではない様子だ。
「ボクぅ」
少女が頭上で剣を交差し腰を捻る。
「参上ぅ」
びしり、びしりと切っ先を向けて、ふんすと鼻息荒く見得を切った。
「どうだ驚いて声も出まい」
呆れて声が出ないのだ。そろそろいいかなと遠慮がちにロゼールが突っ込む。
「こんな所で何をしている殿下」
「げげっロゼール、それにクロエも」
ようやく気付いてリリアーテ・ベラ=サレイユは飛び上がった。
ハルタはその名で大聖堂前の馬車を思い出し、そこに見た黒いヴェールの少女と比べたものの小首を傾げてロゼールをつついた。明らかに胸の大きさが違うのだ。編みの微細な紅金のチューブトップは誤魔化しようがないほど平板だった。
「随分と違わない?」
「殿下は昔から見栄っ張りなのだ。何もないのが本物だ」
「うわああああ」
リリアーテが頭を抱えて大声を上げた。
「ごめんなさーい」
大声で叫びながらもと来た通路を走って逃げ去って行く。ごめんなさいが延々とこだました。取り残された三人は、しばし呆然とその後ろ姿を見送った。
「殿下だよな?」
眉間に皺を寄せロゼールがクロエに確認する。こくりこくりとクロエは頷いた。
「あれが素なら盛り過ぎじゃないかしら」
「私もそう思う」
ハルタの言葉にロゼールが同意すると、こくりこくりとクロエも頷いた。
こんな場所に王女がいるのもおかしな話だが胸は確かに二人の知るリリアーテだった。あのはっちゃけた性格も普段は厚い外面の下にあるのだ。とはいえあれがリリアーテなら大聖堂を訪れていた黒いヴェールの王女は何者なのだろう。
「とりあえず追って事情を」
ロゼールが言い掛けるとクロエが通路の先を差した。リリアーテが走って来る。
「にぃー」
ばしゃばしゃと床の地下水を撥ねる王女の後ろには黒々とした影が纏わり付いていた。うぞうぞと追い掛けて来るのはロゼールにはお馴染みの黒い全身タイツの屍鬼。さらにその奥からは優に二倍を超える身の丈の紫色の巨人がやって来る。
「げぇー」
分厚い岩の塊に大木を縒り合せたような太く短い四肢の巨体。申し訳程度に載った頭は猿のように皺くちゃだ。厳つい籠手を振りながらリリアーテを追っている。
「ろぉー」
ロゼールは無言で踵を返して逃げ出した。クロエも迷わず追って来る。すでにハルタの姿はなかった。リリアーテがぽかんと口を開け真っ赤になって加速した。
「本当に逃げるな薄情者ー」
来た路の角を折れるとロゼールは不意に支道に引き込まれた。
「皆を掴まえて来なさい、ほら」
耳許の声の擽ったさにぞわぞわと首を竦めながら突き飛ばされて転び出る。ハルタの意図を察してクロエを呼び、リリアーテを掴まえて支道に放り込んだ。
「何、なに、ナニ」
覆い被さるように支道に突っ込み、慌てるリリアーテを黙らせて息を殺す。
折り重なった四人の顔を誓約ちゃんの灯が仄かに照らし出していた。
無数の黒の全身タイツが目の前を走り過ぎて行く。紫色の巨人が大股にそれを追う。支道に隠れた四人には見向きもしなかった。ハルタの不可視の幻術だ。ロゼールだけは察していたが念のため皆と一緒に息を詰めて凍り付いていた。
「とりあえず助かった?」
リリアーテが呟く。
「助かった、じゃない」
間近に顔を寄せロゼールが睨んだ。
「げロゼール」
「どうして私が殿下に転宗を唆したことになっているのだ。説明しろ」
「え、何それ」
リリアーテはきょとんとロゼールを見上げる。クロエが上から割り込んだ。
「ロゼールが無理やり解放神閥になれと」
「ロゼールの奉神はアラサークさまでしょ」
話が通じない。
「それがね今は違うのよ」
ハルタがそう言って微笑んだ。
「気になってたんだけど何、この綺麗なの」
「ややこしいからハルタは後」
ロゼールがハルタを奥に押し遣る。
「そうだ後にしろ」
「で、その小さいロゼールは何」
「おまえも後だ」
つんと胸を張る純潔の誓約を掴まえてロゼールはハルタに押し付けた。
「何でボクの知らないうちにみんな楽しそうなのさ」
「楽しくない」
「少しだけだ」
ロゼールとクロエが声を揃えた。
「何なの君たち」
リリアーテが鼻根に小皺を寄せる。
「そうね、とりあえずどこか落ち着けるところを探しましょうか」
ハルタがはいはいと手を叩く。どうにもお母さん味のある邪神教の神官代理だ。
「そうだボクの秘密基地に行こう」
リリアーテがにっと笑う。
「基地?」
「ちょっと歩くけど付いて来て」
問い返すロゼールにも応えず、そう言うなりリリアーテは駆け出した。
「仕方がない。あの魔神が戻って来ないうちにさっさと行こう」
ロゼールは溜息を吐いて皆を促した。リリアーテを問い詰めるのはそれからだ。
*****
人骨の散る水場の上に酷く場違いなものが建っていた。
外壁と天井のない剥き出しの部屋だ。舞台上に設えた床と仕切り壁だけの王宮の一室。居間、寝具、調理場、浴室、手洗いも完備された豪奢な平屋の家だった。
生活に困らないどころか備品は全て宮廷仕様。食料の備蓄も山のようにある。高く組んだ床の下、踵ほどに溜まった地下水には侵入者避けの罠まで施されていた。
「秘密基地?」
呆れ返ってロゼールは呻いた。岸から続く渡し板を通れば敷物に足が埋まる。周囲はなんとなく見覚えがあった。おそらくロゼールが最初に落ちた場所だ。
ならば丁度この真上が王城、リリアーテの私室がある場所だ。
「いやあ内緒でここまで揃えるのは大変だったぜ」
部屋に入って皆を振り返り、リリアーテは自慢げに踏ん反り返った。胸を張っても胸がない。なるほど本物のリリアーテだ。ロゼールは改めて確信した。
「これ家出用のやつだな」
クロエが口許を曲げた。
「ばれたか」
この国で最もてへぺろが様になるのもリリアーテを措いて他にない。
「いやー今度こそ良い物件を見つけたと思ったんだけどなー」
騎士団時代からリリアーテは家出の常習犯だ。宮廷よりも官舎に入り浸っていた。行動が派手ですぐに連れ戻されるが、そうこうするうち装備もとんでもない進化を遂げていた。今では宮廷工学室の技術の粋を極めた人工生態圏そのものだ。
「それより」
リリアーテは不意に爪先立ってロゼールとクロエを両手でがばっと抱え込んだ。
「早くあの人を紹介しろ」
鼻孔を膨らませ声を殺して二人を責める。
「お勧めはしないぞ」
「殿下にはまだ早い」
「クロエ?」
早いって何だとリリアーテがクロエに怪訝な目を向ける。
「アタシのことかしら」
ハルタが聞き付けた。やって来てリリアーテに微笑んで見せる。
「初めまして。アタシ、フロルケイン・ハルタ。ロゼールとクロエのお友達よ」
ロゼールは顔を顰めクロエは頬を赤らめる。二人を見てリリアーテは混乱した。
「え、何、どういう関係」
「こいつは邪神の代理神官だ」
「そうなのロゼールはアタシの愛し子なわけ」
聖騎士の道に外れた改宗だと理解が及ぶまでリリアーテは一拍以上を要した。
「正気かいロゼール」
大声を上げるのも当然だ。背信者の首など大根より軽く落として来たロゼールが棄教などと信じ難いにも程がある。しかも六柱の外に神などと破門されてもおかしくない言動だ。まあ理由はどうあれ実際に秩序神閥は破門されているのだが。
「あんな行き遅れの女神に見切りを付けたのは正解よね」
「違う、これはハルタが無理やり」
「あらやだ二人の合意じゃないの」
耳を欹てるクロエは何故か二人の遣り取りに真っ赤になっている。
「アラサークさまって行き遅れなの?」
リリアーテが目を丸くしてハルタに訊ねた。緋色のマフラーに手を掛ける。
「まあ、あの子もいろいろあったのよ。半分はアタシの」
「畏れ多いゴシップはやめろ」
ロゼールがハルタの袖を引いてリリアーテから引き剥がした。必要以上に近い。
「おい、どさくさに紛れて近付くな」
今度は純潔の誓約がロゼールの間に割り込んで頬を押し遣った。
「うお」
リリアーテがまじまじとそれを覗き込む。
「純潔の誓約ちゃんである」
手に載るほどのロゼールが腰に手を当て胸を逸らした。
「純潔の誓約ってこんなになんの?」
「こいつのせいだ」
誓約ちゃんがハルタの肩に飛び移り、つんと小さな指でハルタの頬を差した。
「ボクのも出るかな」
「入信するなら素敵な特典がいっぱいよ」
隙あらば勧誘するハルタの顔の前に誓約ちゃんが立ち塞がった。
「やめておけ、私が出ざるを得なかったのは痴女の如き振る舞いのせいだ」
「あー」
クロエが納得してこくりこくりと頷いた。
「あーって何だクロエ」
「まあ確かにロゼールってそんな痴女みたいに短いの履かなかったもんね」
「え、これって痴女みたいなのか」
愕然としたロゼールが小声でハルタに訊ねる。そんな自覚はなかった。裾の長さは気になるものの落ち着いた配色や手の込んだ仕上げが気に入っていたのだ。
「あら、しっかり可愛いわよ」
「うん」
こくりこくりとクロエも頷く。
「まあいいや、とりあえず落ち着こう。何か食べる?」
自分で話を振ったにも拘らず、リリアーテがいきなり皆に声を掛ける。
「ビスケットを所望する」
誓約ちゃんが身を乗り出した。
「あまり食べさせるな私が太る」
ロゼールが釘を刺した。
奇妙な地下洞の茶会がこうして始まり、ロゼールとクロエはあらましをリリアーテに聞かせた。もっとも前半はロゼールの独り舞台、クロエには再演だったが。
王都はもとよりルクスアンデル全域に混乱を招いた原因に至っては、当人を前に説明するとリリアーテは呆れたように眉根を寄せた。
「何でそんな馬鹿みたいなことになるのさ」
ロゼールの乱心でリリアーテが臥せり憤った国王が解放神閥を冷遇する件だ。真顔のロゼールとクロエを見渡し、リリアーテはあからさまに顔を顰めた。
「いや確かに馬鹿みたいだけれども、今この国で現実にそれが起きている」
二人も王女に突っ込まれ、冷静に考えれば確かに馬鹿な話だと納得してしまう。
「本当に知らないのか?」
「知らない。ボクずっとここにいたし」
「ずっと?」
「だってすっとここでロゼールを捜してたんだもの」
そう言われてロゼール当人はぽかんと口を開けた。
「私がいなくなったのって、かなり前じゃないか」
リリアーテはんーと頬を掻き、言い辛そうな表情で上目遣いにロゼールを窺う。
「ロゼール、ボクの部屋で落とし穴に落ちたでしょ」
「ああ」
「あれさ、ボクの胸の」
そこでハルタを少し気にしてリリアーテは二人の顔をぐいと引き寄せた。
「胸の詰め物をロゼールが見つけて拾おうとしたじゃない」
「あ」
そういえば何か変なものを見つけて拾った。あれは胸の詰め物だったのか。
「びっくりしちゃってさ、思わず暴漢用の落とし穴を開けちゃったよね」
こう、ぐいっと。
リリアーテは仕掛けの紐を引く動作を見せる。まいったねと無邪気に笑った。
「おまえのせいかー」
ロゼールが叫んで身を乗り出しリリアーテの頬を掴んで引っ張った。
「いひゃいいひゃい」
「落ち着けロゼール」
「おかげで追われるわ飛ばされるは辱められるわ大変だったんだぞ」
クロエがロゼールを引き剥がし、頬を押さえて呻くリリアーテに訊ねる。
「それがどうしてこんなことに」
「いや、さすがにボクもこれは拙いと思うじゃん?」
「あたりまえだ」
「でも、ここって大聖堂の管轄じゃん?」
リリアーテが両手を拡げて地下洞を見渡した。
「そうなの?」
「そうなの」
王家と教会の領分は歴史に縺れてよく分からない。ロゼールとクロエにはなおさらだ。リリアーテは組むのに不都合のない胸の前で腕を組み、口を尖らせた。
「だからすぐに大司教のところに行ったのさ。そしたら何とかするけども聖騎士を忌地に落としたことが知れたら大変だから皆には内緒にしなさいって」
「大司教が?」
「大司教が」
ロゼールとクロエが顔を見合わせる。
「でも何日経ってもロゼールは帰って来ないしさ。そりゃあ心配になるじゃない」
「殿下のせいだしな」
クロエが突っ込む。
「だーかーらーこうなったらボクが助けに行こうとここに降りて来たわけ」
「じゃあここから出る方法も?」
ロゼールが意気込んで訊ねる。リリアーテはいーっと歯を剥き出した。
「それが残ってたら苦労しないって。誰かが勝手に穴を閉じちゃったの」
「あー」
「それ以来ずっとここにいるって訳さ」
いくら家出癖のある王女でも、それほどの不在が放置されるはずもない。臥せっているはずのリリアーテのその後はどうなったのか。
「そこで偽物か。よく周りの者が気づかないな」
ロゼールは半ば呆れたように呟いた。
「存在感がないのか殿下」
「そんな訳あるか」
悲しそうな顔をするクロエにリリアーテが怒った。
「もしボクの偽物がいるならみんな騙されてるんだ」
「あー」
ロゼールが眉根を寄せて声を上げハルタを見る。ハルタは無心に菓子を齧る誓約ちゃんの頬を突いて遊んでいた。カップを投げようとしたロゼールを気配で察知し、振り返って微笑んだ。
「きっと魔神の仕業ね」
「魔神って何?」
リリアーテの問いにロゼールは端的に答えた。
「さっきみたいな変態だ」
「おおう」
「しかしこうなるとますます大司教が怪しいな」
「まあねーボクも途中で大司教が怪しいと思ったさ」
「だがこんな事態を宮廷の誰も止めなかったのか」
クロエの呟きはもっともだ。
「まあ変だとは思うけど。ボクの偽物とかそんな阿呆な政策とか、お母さまと師匠がいたらこうはならなかったと思うんだよなー」
「地方順拝だったな」
「湯治だよ。世界湯巡りの旅。順拝はそのついで。当分は帰って来ないなー」
何だそれはとロゼールは思いつつ、それなら師匠が首を取りに来るのもまだ先だろうと内心胸を撫で下ろした。あれが追って来るとなると生きた心地がしない。
「しかしずっとこんな所にいてよく無事だったな殿下」
「あの紫芋の方はね。こっちから近づかない限り追って来ないのさ」
リリアーテの言葉にクロエが目を細めた。
「他にいるのか」
「神罰砲を持った奴らだな」
ロゼールが身を乗り出すとリリアーテはふふんと不敵に笑った。
「そうそれ。やっつけたけどな」
「大聖堂の神官兵じゃなかったのか?」
「いやいや神官だからって王女に手を上げちゃ駄目でしょ。手打ちは当然さ」
平然と嘯いた。普通の状況なら王家と教会が争う火種だがこの際は仕方がない。
「二、三人ほど神の御許に還してやったら、恐れをなしてこなくなったね」
「聖堂軍じゃなかったのか」
クロエが眉を顰める。神罰器の付与は聖騎士か高位神官に限られている。所属としてはクロエの黒衣騎士団、リリアーテの白衣騎士団はともに聖堂軍の同僚だ。
「そういや見ない顔だったっけ。大司祭の近衛隊かもね」
相手も見ずに神の御許に還すのも相当だが早々に追撃を断念した理由は何だろう。被害を出して神罰器を失うのを恐れたのか、あるいは別の手を打ったか。
神罰器はルクスアンデルの資産ながら教皇領に報告の義務がある特殊な兵器だ。紛失したとなれば大問題になる。
「でもそれで出口を塞がれちゃったよね」
「そっちか」
ロゼールが呻いた。こんな所に少女が独りで長く持つはずもない。まさか追手もリリアーテがこれほどの装備を持ち込んでいるとは思わなかったのだろう。
「他の出口に心当たりは?」
「城に通じているのがあるんだけど」
クロエの問いにあっけらかんと答えたもののリリアーテは顔を顰める。
「そこにいんのよ、さっきの奴が」
「あー」
「あれだけでもうざいのに変な屍鬼がいっぱい沸くんだ。斬っても斬っても減らないし、神罰器の詔弾だって幾つもないしさー」
「それな」
「何、ロゼールはあの手のに詳しい人?」
「まあなんとなく」
クロエがじっとロゼールを見る。ブロンエグリーズの一件を思い出しているのだろう。黒刃と化したロゼールの黄金の翼なら魔神を斃すことができる。ハルタがいる限り詔弾も尽きない。
クロエは微かに頬を赤くした。余計なことまで思い出すんじゃない。
「でもさ」
リリアーテがにっと笑って身を乗り出した。
「この三人が揃ったら何とかなるっしょ。あいつらやっつけようぜ」
真っ直ぐ伸びた暗闇に微かに衣擦れの音がした。深い皺に割れた顎先を擡げ紫の巨人は眼を眇める。洞穴の風音か、再び件の人間か。だが何物も捉えられない。
そこにはただ古い大柱の列が岩に呑まれて朽ちている。大きく抜けた身廊は忘却の聖堂の成れの果て、両側に垂れた石柱は側廊の仕切りを這って生え伸びていた。
巨人は左右に突き出た翼廊の奥、砕けた神像の足許に居る。祭壇と思しき名残の前の石の台座に腰掛けていた。その眼はまだ探るように朽ちた身廊を睨んでいる。
不意に間近に神霊術の灯が打ち上がった。
闇に紛れて身廊を駆け抜けて来たのか灯の真下にリリアーテが立っている。
「そこのでかいの、道空けな」
言い放ち双剣を抜き放つ。ルクスアンデル王家由来の神罰器、星と陽だ。
翼廊の奥に蟠る暗がりの中に無数の屍鬼が湧き出した。身体に張り付いた黒の全身タイツ、顔には複雑な紋様が描かれている。それらはきーとかひゅるるとか、何となくそれっぽい声を上げながらリリアーテに向かって一斉に走って行く。
リリアーテはさっと両側に目を遣り、真っ向を避けて片翼に飛び込んだ。剣の間合いは短いが、四肢が自在に伸びて打つ。動作が優雅で小気味良い。くるくると舞って翻弄する。柔軟さを速度と力に変えるクスアンデル舞闘術の体捌きだ。
全身タイツは数に任せてリリアーテの周囲を固めようとする。押し寄せる黒い波にその姿が?まれるかと思いきや、端から首が刎ね上がり身体が割れて転がった。
屍鬼の背後に揺らりとクロエが現れた。長く反った片刃刀、無慈悲の一閃のたび両断された全身タイツがごろごろと石畳に落ちる。辺りに黒塵が舞い荒れた。
紫の巨人が腰を上げた。二人が屍鬼を巻き取って行く。数歩踏み出し、辺りを探った。孤立を狙う意図に気づいて頭を巡らせる。後ろにロゼールが立っていた。
数歩うしろの台座の前に黒刃を下げて佇んでいる。先ほどまでいた黒い石の上には緋色の影が揺らいでいた。ハルタが聖杖を肩に担いで二人の剣戟を眺めている。
巨人が踏み出すその前にロゼールが剣で打った。籠手が弾いて火花が散る。太い拳の一振りの内にロゼールは身体を回して剣を打った。まるで独楽を相手に戦うように籠手と剣が打ち合って行く。巨人と子供の体格差にもロゼールは引かない。
振り下ろされる巨人の拳をロゼールが撥ね上げた。圧された巨人が仰け反って踏鞴を踏む。懐に踏み込んだロゼールに巨人の横殴りの一撃。身を伏せ躱したロゼールはその一動作で巨人の軸足を刈り取った。巨体が捩じれるように倒れ込む。
身を捻ったロゼールが天を仰いだ巨人の喉を真上から断ち落とした。
「神罰、覿面」
紫色の驚愕の顔が黒塵と化して弾け飛んだ。
クロエとリリアーテの周囲からも全身タイツの屍鬼が塵に還って行く。
大きく息を吐いてロゼールはハルタを振り返った。下にあるのは黒い石碑だ。
「やはりここは」
ロゼールが改めて辺りを見渡した。留石村の森で目覚めハルタに出会うその直前の記憶の場所だ。この石碑こそがロゼールの逃亡の終わり、迷走の始まりだった。
「なにこれ祭壇の石碑?」
「大聖堂のに似ているな」
リリアーテとクロエが集まってハルタの腰掛ける石碑を覗き込んだ。
「でもこれ」
ハルタの長い脚の傍、ロゼールの向けた視線に二人が目を剥いた。三つ目の詩篇の位置には削り落とされた痕の細工ではなく詩篇そのものが掘り込まれている。
「第三詩篇って、これ本物?」
「本物も何も、ただのふにゃふにゃした短文じゃないの」
「詩なんてそういうものでは?」
「いやそうじゃなくて」
ハルタは笑って肩を竦めて見せた。
「そうねえアナタたちには少し難しいかも知れないけれど」
ハルタはそう切り出した。その話はロゼールも旅の途上で聞かされていた。記憶は焚火の炎と何だか擽ったいものに紐づいている。
「神さまっていうのはね、知られることが存在することなの。だからこれが本物であろうと偽物であろうと、邪神を追放したって記録だけで邪神は存在しちゃう訳」
それでは順番が逆だ。神がなければ人はない。誰が魂を管理すると言うのか。
「持ちつ持たれつであやふやなの。こんなものが地上にあったら公認するのも同じでしょう? だから何となく悪いことがあったって痕だけを残しているのよ」
それならいっそ痕も残さなければ。痕なんかなければ誰も何も思わないのに。
「それができないのはね、邪神が原初のものだから。根源の楔が存在しないと自分たちも消えてしまうから。匂わせってやつかしらね。地上の詩篇の痕はその矛盾」
三人は顔を見合わせた。これは知ってはいけない知識だ。本能的に気付いた。
これでは詩篇の傷痕を見るたびそこに何があったかを考えてしまう。それは神の在り方を疑うことだ。この記憶を消さない限り神への罪を負い続けることになる。
「安心なさいな、たぶんこの場所は神さまの目も届いていないから」
石碑の存在が許されているのは恐らくそのせいなのだろう。ハルタの言葉にリリアーテとクロエは思わず安堵の息を吐いた。知らず寒気に身体が震えていた。
そうだった。なんだか背筋が寒くなってハルタの隣潜り込んだのだ。
「もちろんアナタは別よロゼール」
そう言ってハルタはロゼールの肩を抱き寄せた。
「あなたはアタシの礎石だから」
クロエとリリアーテはすぐにでも奉神に懺悔し赦しを乞うべきなのだろう。ロゼール自身はもはや祈ったところで雷が落ちるだけだと身に染みて知っている。
だが、もしかしたら。
あの日この詩篇を見たことが破門の本当の原因かも知れない。名を喪った神がロゼールをハルタに結び付けたのは確かだ。
気が付くとリリアーテがによによとした笑みを浮かべてロゼールを眺めていた。ロゼールの肩を抱いて身を寄せたハルタがすりすりと頬を擦り寄せている。
「慎みを知れ、うつけ者」
純潔の誓約がロゼールの額を蹴飛ばした。
「よーし気を取り直して城に凱旋するぜ」
リリアーテが勝ち鬨を上げる。足だけ残った神像の背後を覗き込み壁を叩いた。
「扉、ここだから」
「え?」
純潔の誓約に責められるまま後ろに仰け反ったロゼールが呆然と目を向ける。あのとき力尽きた石碑のほんの鼻先だ。まるで「上がり」の手前に意地悪く置かれた「振り出しに戻る」を踏んだ気分だ。ロゼールは石碑にひっくり返った。
どうやらあの日はとことん賽の目が悪かったに違いない。




