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笑う邪神官  作者: marvin
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第2話:魔神の森 ~混迷の白い騎士~

 差し込む光に目を細めた。

 木漏れ日の眩しさに、思わず瞬く。

 朽ちた樹皮と、湿った土の匂いにむせる。

 ――ここは、どこだ。

 身じろいで、痛みに喘ぐ。

 負傷と疲労、そして神罰器(バニッシャー)の銃創が一斉に蘇る。

 回廊に迷い――

 加護を失い――

 縋った石碑で、失われた詩篇を見た。

 記憶が嗚咽のように込み上げた。

 ――夢ではなかった。

 闇の中の放浪が、陽に晒されて混迷を増す。

 苦痛と混乱がロゼールを苛んだ。

 まだ生きていることに嘆く。

 陽の眩しさに涙が滲んだ。


 魂を抉られ、神を見失った。

 それは自身の問題だ。

 だが、あの詩篇。

 あれは世界を否定する冒涜だった。

 信仰を欠いても、認めてよいはずがない。


 いったい、何が起きたのか。

 冒涜の詩篇を最後に記憶がない。

 今のロゼールは、ごつごつとした地面に横たわっている。

 尻の下で、折れた古木の破片が肌に食い込んでいた。

 仰いだ天は濃い緑だ。

 樹々の隙間を抜いて陽が射し込んでいる。

 辺りは鬱蒼とした森のようだった。

 ――再誕の聖堂ならよかったのに。

 信仰を見失った今では、それも叶わぬ夢だ。

 奉神との契約を剥奪されたロゼールに、もはや魂の行き場はない。

「ここはどこだ」

 声に出して呟いた。

 枯れて掠れた独り言は、まるで別人のようだった。


「うちの裏山」

 間近に真っ黒な瞳が覗き込んだ。

 ロゼールの目が奪われる。

 驚いて仰け反るロゼールは、地面に頭を打ち付けておうおうと呻いた。

 相手はひらひらと身を引いて、嗤うような吐息を吐く。

「行き倒れにしては御大層な身形ね」

 銀色の髪、褐色の肌、漆黒の瞳――美しい少年だ。

 その目元に胸がざわついた。

 幻惑の類か――喉の奥から上擦った声が漏れそうになる。

 心の内で必死に藻掻いて、ロゼールは正気にしがみついた。

「裏山と言ったか?」

 ロゼールが訊ねる。

 聞こえないよう咳払いをして喉を整えた。

 低く抑えたつもりが、上擦っている。

「そうね。岩留の森って呼ばれているわ」

 起き上がろうとしたロゼールの身体に激痛が走った。

 改めて少年の口調に混乱し、内容が頭に入ってこない。

「あら、大丈夫?」

 やはり、言葉が少し変だ。

 見た目の差異(ギャップ)がありすぎる。

 怪しい。

 そう思いながらも、ロゼールは陶然と少年に見入った。

 歳は十四、五か。

 十七のロゼールよりは下に見える。

 あくまで見目だ。

 平静の具合は完全に逆転していた。

「城は、どっちだろうか」

「お城? お城なんてこの辺にはないわよ」

 少年が答える。

「ここは――スカーロフではないのか」

「それって王都? アナタ、打ち所が悪かったみたいね」

 混乱するロゼールに少年は目を細め、指先で襟巻を下げながら身を屈めた。

「アタシはフロルケイン・ハルタ」

 黒く底のない瞳がロゼールの魂を抉る。

「救いが欲しければ言いなさい。これでも代理神官なの」


 ロゼールはしばし呆然としていて、少年の身形に気づくのが遅れた。

 灰色の服のあちこちを、黒革の帯と銀の鋲で留めている。

 口元まである襟巻は、目が醒めるような緋色だ。

 ひどく珍妙だが、確かに神官服を崩したようにも見える。

 あくまで、雰囲気だが。

 ただ、解放神閥(ケイオスリーグ)であれば服装の枠決めも緩い。

 自由神(シャラオ)の神官なら、なおさらだ。

 破天荒な装いも少なくはない。

 もちろん、限度はあるのだが。

「ロゼール・ワルキュリエだ」

 全身の痛みを押し隠し、ロゼールは精一杯の平静を保って名乗りを返した。

 ハルタはふうんとロゼールを眺め返した。

 それだけだ。

 何の驚きもない。

 ロゼールは戸惑った。

 これでもルクスアンデルにその人ありと謳われた聖騎士だ。

「国王軍の騎士団総長をしている」

 つい憮然と付け加えてしてしまった。

「あらそう、若いのに偉いわね」

 知らない?

 本当に?

 聖剣黄金の翼(エルドール)の担い手で、王太子の婚約者なのだが。

 ハルタは艶然と微笑むと、唐突にロゼールの身体に爪先をかけた。

 蹴り転がす。

 ごろごろと転がり、ロゼールは激痛に呻いた。

「そのお偉い騎士様の立派なケツの下にアタシの杖があるの、ごめんなさいね」

 枯葉と湿った土に突っ伏し、ロゼールは踏まれた蛙のような声を上げた。

 全身の痛みに呻きながら、枯葉を振り払い、ハルタを睨む。

「いきなり何を――」

 言いかけて、ハルタの拾い上げたそれに目を剥いた。

 聖杖だ。

 頭の飾りは十字の上部が楕円の生命符(アンク)

 宗派を問わず神殿で用いる儀仗だった。

 それが、真っ二つに折れている。

 ロゼールの頬から血の気が引いた。

「あーあ」

 大きな声で嘆息し、ハルタはちらりとロゼールを見た。

 折れた杖を振って見せ、もう一度あーあと言い放つ。

 聖騎士である以上ロゼールも神官に準じている。

 神具を壊すなどあり得ない。

 ましてや尻に敷いて折るなど。

 ロゼールは痛みも忘れて飛び上がり、ハルタに向かって正座した。

 変な汗がだらだらと落ちる。

 神具の破壊は重罪だ。

 他宗であれば大ごとになる。

 こんなことが師匠にばれたら、官舎の屋根に裸で吊られる。

「ええと、だな。私にも状況が分からなくて。その、これは不可抗力というやつだ」

 ハルタは先を促すように小首を傾げる。

 冷えた目線が神罰器(バニッシャー)の如くロゼールの胸を抉った。

「だって――だって」

 続けようとして言葉に詰まった。

 漆黒の瞳に引き摺り出されるように、留めなく感情が込み上げる。

「だって、いきなり城から落とされて。神は失うし、加護は消えるし。気が付いたらこんな所にいたのだ」

 喚き立てるうち、止められなくなった。

「どこへ行ったの私の神さま(アラサーク)

 涙と鼻水で顔がべしょべしょになる。

 ハルタは大仰な溜息を漏らし、呆れ顔のままロゼールの前に身を屈めた。

「アナタ、心幹が弱いわね」

 涙と鼻水に塗れた頬を、襟巻の端でごしごしと拭う。

「こんなじゃ、やっていけないわよ?」

「ごべんだざいー」

 子どものように顔を拭かれながら、ロゼールはべそべそと謝罪した。


 ハルタがふと手を止めた。

 森を振り返って目を眇めると、小さくかぶりを振ってロゼールの頬を軽く叩く。

 拭い落ちるように感情の波が消えた。

 よもや操心術の類だったかもしれない。

 大失態だ。

 吐き気がするほどの羞恥が押し寄せた。

「それじゃ、騎士さまとして役に立って貰おうかしらね」

 そう言ってハルタは立ち上がり、ロゼールの目を森の茂みに促した。

 奥が微かに揺れている。

 じき枝葉を擦る音が大きくなった。

 樹々の向こうに異様な影がある。

 どすどすと藪を踏み締め、駆けて来る。

 ロゼールは唖然と目を見開いた。

 大人を丸呑みできるほど、でろんと開いた鰐の口。

 むしろ鰐の頭から、人の手足が生えている。

 明後日を向いた巨大な白目が、頭の天辺でぶるんぶるんと揺れていた。


 思わずロゼールは身構えて、苦痛に呻いた。

 辺りを見渡し、慌てて放り出された黄金の翼(エルドール)に這い寄る。

 今まで我が身より大事にしていた聖剣を、こうも後回しにしてしまうとは。

 これも信仰を失ったせいか。

 樹々を分け、怪人が立ち止まる。

 焦点の合わない目で辺りを見回し――たように見える。

 悲鳴を堪えてロゼールは黄金の翼(エルドール)を担いだ。

 重さによろめいて、たたらを踏む。

 神の庇護はすでにない。

 今のこの大剣は、あまりに重い鉄塊だ。

「ハルタ、こいつは何だ」

 ハルタを振り返る。

 そこに自称代理神官の姿はなかった。

 緋色の襟巻が、奥の木陰にするりと消える。

「卑怯者ッ」

 声を聞きつけ、怪人がロゼールを振り返る。

 ロゼールを目指して真っ直ぐに走って来た。

 ざわざわと黒い毛の生えた生白い中年男の四肢を振り回している。

 股間に鷹の頸が生え出して、ロゼールを睨んで、くけーと鳴いた。

「何これ、何これ、何なのこれ」

 あまりの気持ち悪さに怖気が走り、意識が飛びそうになる。

 必死に正気を繋ぎ止め、声にならない悲鳴を上げた。

「ハルタ―、ハルタ―」

 ロゼールが涙目で叫んだ。

「聖騎士さまでしょ、何とかなさい」

 背後の木陰から勝手な声が返って来る。

 鼻息とも鼾ともつかないふがふがした音が間近に迫る。

 ロゼールは反射的に剣を振った。

 大木を打ったような衝撃に腕が震える。

 弾かれた剣に引かれて身体がひと回りした。

 怪人もひっくり返って大股を開く。

 脛毛の繁った生白い脚に吐きそうになった。

 鰐の怪人はロゼールを見上げて大顎をかっと開いた。

 間抜け面にはおおよそ見合わない鋭利な牙が並んでいた。

 迫る顎を咄嗟に剣で受けるも、ロゼールは押されて樹に背を打ち据えた。

 眼前に迫るぬめぬめとした真っ赤な口。

 人が収まって余りある大きさだ。

 唾液が容赦なくロゼールに降り注ぐ。

 踊るように顎を振りながら、怪人はロゼールを呑み込もうとする。

 暴風のような息遣い。

 吹き付ける唾液。

 剣は牙に滑り、腕は重く膝は震えた。

 ロゼールの誓約術は穢れを防ぐが物理には無力だ。

 気を抜けば簡単に噛み砕かれる。

 だが、もはや今のロゼールには、剣を支える力も残されていない。


 神はなぜ私をお見捨てになったのか。

 それともこれは些事に過ぎず、信心を見失ったことが罪なのか。

 ロゼールは目の前の現実から逃げ出し、再び激しく煩悶した。

 神なきロゼールに来世は来ない。

 死ねば屍鬼(グール)へと成り果てるだろう。

 ならばせめて、こんな鰐男に齧られるより、人知れず美しいまま死にたかった。

 あと、願わくばもう少し色々と大人の経験もしてみたかった。


「救いが欲しいの? ロゼール」

 不意に世界が凍りついた。

「そんなアナタに、とっておきのお話」

 辺りの色が抜け落ちて、一面が灰色に塗り替わった。

 ロゼール自身はもちろんのこと、間近に迫る菱型の牙も、涎の雫や風音までも、全てが宙に静止して動かない。

 まるで時の狭間に落ち込んだかのようだ。

 視野の隅に緋色の襟巻が垣間見えた。

「神なき迷い子にピッタリの契約が、今ならたったの――」

 不意に吐息が耳許を擽る。

 ロゼールは辛うじて昇天と失禁を堪えた。

「魂ひとつ」


 転宗しちゃいなさいよ。


 ハルタが囁いた。

 秩序神閥(コスモスリーグ)の家に生まれ、律令神(アラサーク)に尽くした十七年だ。

 ハルタはそれを捨てろと言い放つ。

 いや、すでに信仰は神罰器(バニッシャー)に奪われ、ロゼールに神はない。

 だが、転宗とは。

 ここで新たな神の庇護を受けたところで、眼前の死を避け得る保証はない。

 ロゼールは心の中で必死に藻掻いた。

 神は我が身のために在るのではない。

 神のために我が身が在る。

 たとえそれを見失っても、聖騎士ロゼールに安易な転宗など有り得ない。

「今なら、あったかい風呂とふかふかのベッドも」

 心が揺らいだ。

 ちょっとだけなら――と思ってしまった。

 眼前の牙を水面のようにすり抜けて、細い指先がロゼールの頬を包んだ。

「大丈夫よ、痛くしないから」

 頬を這う。

 抗い難い震えが下腹部から這い上がる。

 ロゼールは声にならない悲鳴を上げた。

 打ち上げられた魚のように、幾度も幾度も身体が跳ねる。


     其は名を喪いし真なる神

     汝、魂の逸脱を以て洗礼を授く


 額に柔らかい何かを感じた刹那、世界は色を取り戻した。

 唐突に生温かい吐息と臭気が吹き付ける。

 真っ赤な口内が目の前に蠢いていた。

 ロゼールを飲み砕こうと閉じた顎が――二つに割れた。

 ロゼールの翳した黄金の翼(エルドール)が、何の抵抗もなく怪人を切り裂いた。

 厚く強靭な鰐皮を割って、上顎を二つに裂いている。

 血飛沫が噴いた。

 怪人は転がるように後退り、雨のように我が血を振り被った。

 絶叫する。

 ひっくり返って身悶えた。

 股間の鷹が雛鳥のようにぴいぴいと鳴い煩かった。

 可愛くない。

 むしろ醜い。

 剥き出しの生白く汚い尻に、吐き気が込み上げる。

 ロゼールが樹に縋ってえずいている間に、鰐男は泣き声を上げて逃げ出した。

 振り返るも、茂みに這い込んで消える。

 ただ黒い血の跡だけが、延々と森の奥に続いていた。

 黄金の翼(エルドール)が以前にも増して羽根のように軽い。

 怪人に裂かれた傷はおろか、神罰器(バニッシャー)の痕さえ消えていた。

 身体に泥を詰めたような疲労感は残っている。

 だが、それが妙に心地よい。

 火照った身体を、森の風が冷ましていく。

 とはいえ、怪人の涎が全身に糸を引き、例えようのない臭気を放っていた。

 登城に設えた鎧は見る影もなく壊れ、裂けた礼服が素肌を剥き出しにしていた。


 気づけばハルタが、しれっと傍に立っている。

 折れた聖杖に添木を当てて、雑に黒革の帯で締めていた。

 並べば意外と背が高い。

 細身であってもしなやかだ。

 部分的には、ロゼールより薄い。

 ぼんやり眺める自分に気づき、ロゼールは我に返った。

 正気と威厳を取り戻さねばならない。

「奉神は自由神(シャラオ)だろうか。それとも、慈愛神(ファブミ)か」

 自由神(シャラオ)は工業、芸術、医術を司る解放神閥(ケイオスリーグ)の主神。

 慈愛神(ファブミ)は癒しと農耕の守護神だ。

 口調と裏腹に身を捩りながら、ロゼールはハルタに訊ねた。

「すまないが、転宗は初めてで、他宗については詳しくないのだ。解放神閥(ケイオスリーグ)に身を置くことになったが、これはあくまで一時的なものと考えて欲しい」

 訊ねながらも、あられもない自分の身形が気になって仕方がない。

解放神閥(ケイオスリーグ)?」

 ハルタはきょとんとロゼールを見やった。

 その目があざとく、愛らしい。

 ――魅入られている。

 また操心術か。

 代理神官でこの霊威とは末恐ろしい。

 ロゼールはぶるりと首を振った。

「私は律令神(アラサーク)を奉じ、秩序神閥(コスモスリーグ)に属していた」

 それを過去形で口にするだけで胸が痛む。

「であれば、今は正道神(カジオス)も受け入れてはくれまい。解放神閥(ケイオスリーグ)の他にない」

 ハルタの表情は変わらない。

「よもや流転神閥(エヴォルリーグ)ではないのだろう? 俗世の双神は洗礼を授けず、契約をもって加護を授けると聞くが」

 ふつふつと込み上げる不安に、ロゼールの問いは知らず早口になった。

神閥(リーグ)だなんて、馬鹿々々しい」

 ハルタは黒猫のように笑った。

「神殿もないし、名前もない。神官もいないから、アタシは代理」

 何を言っているのかわからない。

 ロゼールの全身から変な汗が噴き出した。

「そして、アナタは最初の信者」

 ちょっと待って。

 ちょっと待って。

 ちょっと待って。

「それは世間の言うところ――邪神では?」

「あら、無粋」

 ロゼールはぺたりと座り込んだ。

 棄教、転宗どころではない。

 大神殿の討伐案件だ。

 屍鬼(グール)に堕ちた方が、まだましだった。

 ロゼールは呆然と視線を彷徨わせ、辺りに撥ね散る鰐男の涎が嫌で顔を上げた。

 ハルタが艶然と微笑んでいる。

 ――いっそ、ひと思いに。

 ロゼールは黄金の翼(エルドール)を自らの喉に押し当てた。

「面倒だから、やめてちょうだい」

 ハルタが指先で黄金の翼(エルドール)の刃先を摘み、放り投げる。

「生き返らせるの、手間なのよ?」

 転宗だ。

 ロゼールの魂はすでに囚われている。

 死の自由さえ、すでになかった。

「ようこそ我が許に」

 ハルタは目を細め、蹲るロゼールに手を差し出した。

「さあ、帰ってお風呂にしましょう」

 涼しい声でそう言うと、ハルタは鼻から抜けるようにロゼールに笑いかけた。

「それがアナタの対価ですものね」

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