第38話 告白 #2
いつの間にか、また眠っていたらしい。
目を覚ましたルナの眼は熱を帯びていたが、思考はいくらかクリアになっていた。
ベッドの上で身体を起こす。
傍らにはコップに入った水が置いてあった。喉が異常に乾いていることに気がついて、一息に飲み干した。
「……ぷはっ」
ようやく人心地がつく。
気持ちに余裕ができると、涙の予兆のような、吐き気のような、つんとする感覚が鼻の奥から上がってくる。
ルナは深く深呼吸をして、その感覚を落ち着かせた。
部屋を見回す。
アイの姿は見えなかった。
窓の外には雨が降っていた。
◆
――ルナが足を運んだのは、昼間【牧場】に向かう途中に見かけた洞窟だった。
雨に濡れることも気にせず、ルナは一人、ぽつりぽつりと歩いていく。
雨が、沸騰しそうになる頭を強制的に冷やしてくれるようで、気持ちよかった。
「……」
辿り着いた洞窟で、入り口から中を覗き込む。
探す必要も呼びかける必要もなかった。
アイはそこで【終焉の剣】を振るい、暗闇に溶け込む色をした、大きなネズミのような魔族の群れと対峙していた。
天井に張り付いているのは、巨大な蜘蛛の姿をした魔族だ。
少女が真っ黒な大剣をひと薙ぎすると、大ネズミは真っ二つになって転がった。
アイは振り返りもせず、ルナに声をかける。
「……今度は、止めないんだな」
「……」ルナは洞窟の入り口で、雨に打たれている。
「人型じゃないから? 敵意を向けて来るから? それとも、ボクの話を聞いたから? ルナは魔族の何を見てたの?」
「……」
ルナは答えない。
答えられない。
「こいつら、ずいぶん街から近いところにいるだろ? 人間をつまむには絶好の場所だって、わかってるんだ。……洞窟の奥に、いくつか白骨死体があったよ」
「アイ……同じこと、もう一度聞くね」
「……」
「こんなこと、一人で――ずっと?」
大ネズミの一匹がピクリとひげを震わせて、ルナに赤い瞳を向けた。
仕留めやすそうな餌と見てか、それとも高い魔力に惹かれてか。
ネズミは身を翻して、ルナに向かって飛びかかる。
「……そうだよ」
と短く答えて、アイはその大ネズミを一刀のもとに斬り伏せた。
「ボクは戦うしかできないから」
アイは大ネズミと巨大蜘蛛に取り囲まれたまま、静かにそう告げた。
ルナは戦い続ける勇者から視線を外し、雨粒を大地に落とし続ける空を見上げた。
雨に晒されるルナの鳶色の瞳が、深い紫に変化していく。
(こんな……)
――こんな世界、終わらせてしまおうか。
あたしは、異世界に来るべきじゃなかった。
約束なんてしなければよかった。
魔族なんて信じなければよかった。
可愛そうなんて思わなければよかった。
死にゆく命なんて、見捨ててしまえばよかった。
召喚されたあと、すぐに全部踏みつけて、壊してしまえばよかったんだ。
そうしていればオシリスとハデスを、そして、魔族という存在を……
(……好きにならずに、すんだのに――)
人間のそれと形は違えども、魔族にも生きたいと望む意志がある。
感情を持ち、生きるために食べ、葛藤する存在である。
ルナはもう知ってしまった。
知らない頃には戻れない。
アイの背中を見つめる深紫の瞳は、涙のような雨で濡れていた。
アイは、ミーシャを失ったばかりだ。姉のような、家族のようなミーシャを。
希望にすがりながらも、アイはきっと、ミーシャがもう帰らないことを理解している。
勇者はずっと失ってきた。
それでも、勇者はすぐに剣を取って戦ってきた。
ミーシャとアイの顔を、皆で過ごした日常を思い浮かべる。
まるで箱庭のような、小さく愛おしい何気ない日々。真実から目を背け、偽りという土台の上でのみ成立する、砂上の楼閣。
勇者は、ずっと正しかった。
正しい。
正しい。
正しい。
正しい。
正しさ故に、ただひとり真実から逃げられないが故に、勇者は常に孤独であった。
――ルナも【普通】じゃないってこと――
アイがそう語る声は、緊張の奥底に、どこか嬉しそうな響きを含んでいた。
――ボクと同じように、ね――
勇者は正しい。
だからこそ魔王は人間にとって、決して存在してはいけない悪だ。
およそ十年前まで魔族による被害はなかったと、アイはそう言った。
十年――ルナの世界で言えば、十週間前。
それはおそらくルナが魔王として召喚され、魔大樹に魔力を注ぎ始めた時期と一致する。
(あたしのせいで……)
それならいっそ、と、ルナは考える。
本当に――【魔王】になってしまおうか。
五百年前に終わったはずの世界。
あたしなら世界に、再び【終焉】をもたらすことができる。
踏み越えてしまった人間としての一線。
後ろに引き返す代わりに、行き着くところまで行ってしまうのだ。
――【終焉の魔王】として。
「……」
ルナは、アイの背中に向かって手を伸ばす。
勇者は先天的な精神魔法耐性によって真実を知り、真実に縛られ、孤独な戦いを続けている。
それはきっと、どこまで行っても辛いことの繰り返しに違いない。
いつまで経ってもひとりぼっちだ。
アイは旅路の果てに出会ったあたしを、真実を共有できるたった一人の友達だ、なんて思っているのだろうか。
あたしが【普通】じゃないことに勘付きながらも、希望に濁った瞳で、あたしを信じざるを得なかった。
(だったら……)
だったらここで、あたしが終わらせてあげればいい。
みんな平和な夢の中に生きているなら、それでいいじゃないか。
どうして揺り起こす必要がある?
ずっと夢を見られなかったアイも――ようやく、眠りに落ちるだけだ。
「……」
ためらうように揺れていたルナの手が、ぴたり、と止まる。
その手はアイの背に向けられている。
そしてルナの紫の瞳が強く輝いたかと思うと――手のひらを、ぐしゃりと握りつぶした。
――瞬間。
アイを取り囲む魔族が、紫の渦に巻き込まれ――空間ごと爆散する。
まるで上位の次元から世界の一部を直接えぐり取るようなその破壊は、洞窟の壁や天井を削りながら、魔族の群れをその存在ごと消滅させた。
アイが、呆気にとられてルナを振り返る。
「ルナ――⁉」
狭い空間で荒れ狂った無遠慮な破壊によって、洞窟の内壁がひしゃげる。アイの真上の岩盤に、ピシ、とヒビが入った。
アイが上を見上げるのと、岩盤が落下するタイミングは、ほとんど同時だった。
「……」
ルナは無言で手を振り上げる。
その指揮に従って、巨大な紫の光線が空間を薙ぎ払った。
何の制御もなく解き放たれた純粋な魔力は、崩れ落ちる岩盤を消し去る。だが破壊はそれのみに留まらなかった。暴力的な威力で奔った紫の光線は、洞窟の天井を完全に消滅させ、山を削り取り――天まで届いて雲を割った。
雨雲が吹き飛ばされ、剥き出しの月の光が二人を照らす。
ぽかん、として、アイはルナを凝視する。
月の光を浴びながら、ぽたり、と、ルナの髪から雨の雫が落ちた。
天に手を振り上げた姿勢のまま、ルナの足元に紫の魔法陣が現れる。元の世界に繋がる転移ゲートだった。
魔法陣から立ち上る光に照らされるルナは、アイをみつめて弱々しく微笑んだ。
「ごめんね、アイ」
「ルナ……お前、いったい……?」
「あたしが――【魔王】なんだ」
と、ルナは静かに告げる。
「だから……」
アイは混乱しながらも、身体に染み付いた動きに従って【終焉の剣】を構えた。
向けられた剣の切っ先の向こうに、アイの瞳が揺れている。
(だから……)
――だから、終わらせてあげる。
――だから、終わらせて欲しい。
――だから――
あたしは、ここにいちゃだめだ。
世界に終焉をもたらすには、この世界に生きる存在を愛しすぎた。
ルナは自分の手のひらを見つめる。魔族の救済も、人間の守護も、種族の真の共存も、アイに寄り添ってあげることも、終焉の宿命に立ち向かうことも。
ぜんぶ、とてもルナに背負いきれるものではないように感じられた。
ルナはアイに向かって、その手を振る。
「――ばいばい」
魔法陣の光に飲み込まれ――【魔王】は、その世界から逃げ出した。




