ヴェルザはハルジを逃がさないことにした
或る日の午後。雪はないが冷たい風が吹きつけてくる曇天の下、王都警邏隊の独身寮の前に佇む人物がいる。買い物袋を大事に抱えたハルジだ。初めて訪れた場所に緊張しながら、重たい扉を開けるる。受付台の後ろで新聞を広げていた年配の男性がハルジに気がつくなり新聞を畳み、ゆっくりと立ち上がった。その男性に用件を告げれば、入寮許可証と書かれた木札を渡され、ヴェルザの自宅の番号を教えられる。
(……静かだ)
勤務で出払っている隊員が多いのだろうか。建物内を進んでいけど、不思議と人に会わない。廊下に響く己の足音を耳にしながら進んでいくうちに、目的の場所――ヴェルザの自宅に辿り着く。実家は定期的に訪ねるが、知人の家を訪ねることは殆ど無いハルジはそわそわしながら、扉に取り付けられた叩き金を打つ。僅かの後、取っ手がガチャリと音を立てて回り、ゆっくりと扉が開かれた。
「いらっしゃいませ、カウピさん。外は寒かったでしょう?どうぞ、中へ」
「……お邪魔致します」
未だ見慣れていない私服のヴェルザにどぎまぎしつつ、室内へ。ハルジが防寒着を脱ぐと、ヴェルザが玄関にあるハンガーフックにかけてくれた。
(先ずは何をしたら良いんだ?)
初めて訪れたヴェルザの自宅で居場所を見つけられないでいると、彼女が「此方へどうぞ」と二人掛けの食卓の席に手招きをしてくれる。椅子に腰かけようとして、買い物袋の存在を思い出したハルジは彼女にそれを差し出した。
「お菓子です。貴女が好きなものだったら良いのですが……」
「あら、有難う御座います。わ、美味しそうですね!」
袋の中を覗き込んだヴェルザが顔を綻ばせたのが嬉しくて、唇の両端が自然と持ち上がったハルジは漸く椅子に腰かけた。
「カウピさん、コーヒーとお茶のどちらが宜しいですか?」
台所に立つヴェルザが声をかけてきたので反射的に其方へ顔を向ける。来客を持て成さんと支度をしているようだ。
「可能でしたら、僕がお茶を淹れても良いですか?」
「勿論です。あ、私の分もお願いしても宜しいですか?」
「任せてください」
茶器と先程のお菓子を入れた器を載せたお盆を卓上に置くと、ヴェルザはストーブの上に載せた薬缶を取りに行く。お湯が沸いているのを確認してから戻ると、茶葉の入った缶と格闘しているハルジが目に入る。それほど固く蓋を閉めた覚えがないヴェルザが缶を受け取ると、いとも簡単に蓋が開いた。彼女との腕力の差を目の当たりにして衝撃を受けるが、さっと気持ちを切り替えて、ハルジはお茶を淹れる。
「どうぞ」
「有難う御座います」
ヴェルザはお茶の芳香を楽しむと、熱々のそれを一口飲む。渋くない。首を傾げる。ハルジはカップに多量の砂糖を入れた。お茶の色をした砂糖味のお湯の出来上がりだ。
「私と話し合いたいことがあると仰っていましたけれど、どのような内容なのでしょうか?」
先日のことだ。ハルジはヴェルザに頼みごとをした。ヴェルザと話し合いがしたいので時間を作ってもらえないか。落ち着いて話したいので、できれば二人きりになれる場所で、と。それを快諾したヴェルザは話し合いの場として自宅を提供してくれ、ハルジは此方を訪ねたのだ。甘ったるいお茶をぐいっと呷ったハルジは息を吐き、正面のヴェルザを見据えた。
「僕は未だ貴女に恋慕しているのだと気づいたばかりで、貴女とは恋人という関係に発展しているのかどうかを理解していない状態にあります」
言われてみれば、互いを想い合っているのだと認識しただけで、清いお付き合いやら濃ゆいお付き合いをしていこうとは宣言していなかった。ハルジが持参した焼き菓子を一つ摘んで、ヴェルザは「成程」と頷いた。
「その上で貴女と夫婦になっても良いのか、僕には判断できていません。ずっと考えているのですが……」
ヴェルザと結婚するか否かは、ハルジの自由だ。無理強いをする気はヴェルザにはない。あの時、どちらを選んでも受け入れると言ったはずだが、とは思ったが、一先ずハルジの意見に耳を傾けることにしてみる。焼き菓子をもう一つ摘みながら。
「未だ暫くは現状維持をお願いしたいと返事をした場合について、僕なりに考えました。貴女が僕に見切りをつけて、他の誰かを選び其方と結婚してしまう可能性が浮上しました」
「そこまで結婚を焦ってはいないのですが」
ハルジはヴェルザを死に物狂いで結婚をしようとしている人間であると認識しているのだろうか。ヴェルザはちょっと悲しくなる。
「貴女が僕以外の男性と夫婦になると想像したら、物凄く嫌な気持ちになりました」
悲しみは空の彼方へと吹っ飛んでいった。ヴェルザはニヤニヤしそうになるのをぐっと堪える。
「以上の理由で、断りを入れるという選択肢は消えました。いえ、消しました。次に、貴女と結婚すると選んだ場合について考えましたが……僕は結婚に向いていない人間である可能性が浮上しました」
「どういうことでしょうか?」
「貴女も御存じのはず。僕は欠点だらけの人間です」
僅かに改善されたとはいえ、社交性はまだまだ乏しい。察しは悪いままで、他人を喜ばせるよりも怒らせる方がまだまだ得意だ。数少ない利点は実家が裕福であること、余程のことをやらかさない限りはクビにはならない役人の職に就いていることだが、欠点が見事に覆い隠してしまっている。そんなハルジを夫にすることで、ヴェルザに何の利益があるというのかと、彼は問う。
(私の目に映る貴方は可愛い黒猫ちゃんで、心に栄養が行き渡っております……)
これは絶対に口にしない方が良いなと、ヴェルザの理性が働いた。
「う~ん、カウピさんはそう仰いますが、私も欠点だらけの人間ですよ?」
寝言は寝て言えとばかりの視線が突き刺さってきて、ヴェルザは苦笑する。
「巷の御婦人方の間で妻たる者の努めとされていることは、私が不得意としていることばかりです」
ヴェルザは料理が下手だ。材料を切るまでは良いが、どうしても味付けでトドメをさしてしまうことが多い。目玉焼きを美しく焼くことだけは何故だかできる。訳が分からない。
「僕は料理をしたことがないのですが、これから覚えていこうと思います」
どうしても上達しないのであれば、外食という手段がある。と、ハルジが豪語するのがおかしくて、ヴェルザが小さく肩を揺らす。
「それでは私は皿洗いに精を出しましょう」
「そうしてください」
「それからですね、裁縫も下手なんです」
針に糸を通すのは楽勝。問題は、その後だ。破れたところを繕おうとすると布をボロボロにしてしまうし、とれたボタンをつけ直すこともできない。
「針に糸を通してもらえたら、あとは僕がやります」
それなりに一人暮らしをしているので、お坊ちゃんのハルジにもできることはある。ボタンのつけ直しはできるので、繕い物はこれから習得していく。期待はほどほどにしてくれたら良い。
「掃除と洗濯はできますが、やや丁寧さに欠けますね。稀にですが水気を絞ろうとしてビリッと破いてしまいますし、シワを伸ばそうとしてビリッと破いてしまいます」
「洗濯は僕が担当しますので、掃除はステルキ准尉が担当してください」
「畏まりました。あ、それとですね、身長が高くて体格ががっしりとしておりますので、女性らしい服装が絶望的に似合わないんです」
「無理に似合わない服装をしなくても良いのではないですか?軍服姿のステルキ准尉はきりっとしていて格好良いと、素敵だと僕は思っています」
いきなりの殺し文句。計算は全くしていなくて、素直に口走るのだから、ああ、もう!この人が好きだなあ。
ニヤニヤを通り越してニタニタしているであろう顔を見られたくなくて、ヴェルザは机に突っ伏した。
「ステルキ准尉、体調が優れないのですか?」
「……いえ、そのようなことはないです。絶好調であります」
表情筋の痙攣が治まったのを感じ取ってから、ヴェルザは上体を起こす。ハルジが心配そうに此方を見ているのが目に入って、変な声を出しそうになるが根性で耐えた。落ち着いて、落ち着いて。今から大事なことを言いたいから落ち着くのです、スヴェルズレイズ・ステルキ。
「……ねえ、カウピさん?私は貴方との未来に希望が持てると確信しました」
「何故ですか?」
「貴方は私に欠点を直せとは仰らず、できることを分担して、二人で協力してやっていこうと仰るから。欠点だらけの人間同士ですが、案外上手くやっていけると思いませんか?」
嫣然と微笑むヴェルザを目の当たりにして、一瞬で茹でエビになったハルジは俯いた。彼の唇が引き結ばれているので、何か不安に思うことがあるのかとヴェルザが問えば、彼は視線を逸らしながら頷いた。
「実際に結婚をしてみて、実は僕と貴女の相性が最悪だと判明したらどうするのですか?僕は貴女を嫌いになりたくないし、貴女に嫌われたくもないんです」
ヴェルザにしか理解できないハルジの可愛らしさが彼女の理性を殺しにきた。襲ってほしいのか、いや、襲ってしまいたい。劣情が有り余って爆発しそうになるが、寸でのところで蘇ってきた理性が欲望を殴り倒し、ヴェルザは犯罪者にならなくて済んだ。
「そうですねえ……お互いの相性が最悪だったなら、その時は潔く離婚致しましょう」
「えぇっ?」
人生で一度も出したことのないドスの利いた声が出て、ハルジは自分に吃驚した。
「お互いを憎しみ合う前に別れてしまった方が傷が浅いのではないかと」
「そういうものですか?」
「未だ結婚をしたことがありませんので、想像することしかできませんが」
「確かに……」
何だか、頭の中がこんがらがってきた。ざわついている気持ちを落ち着けようとして、ポットの中に残っているお茶をカップに注ぐ。今度は、砂糖を入れない。喉が渇いていたのか、一気に飲み干してしまった。
(……あれ?)
いつの間にやら、正面にいたはずのヴェルザが斜向かいに座している。二人の距離が縮まっている。ハルジの手がヴェルザに取られて、両の掌で優しく包まれて、彼女の高い体温がじわじわと伝わってくる。
「予め、申し上げておきます。返事は焦らないで、じっくりと考えて答えを出してください」
返事は焦らせないけれど、答えは一つしか出させない。ハルジを逃がす気なんて、最早ない。
ヴェルザはハルジの目を見て、微笑んでいるだけだ。それだけで恥ずかしくなってきて、頬を染めたハルジが下を向いてしまう。だが、顔を上げてもらえないかと言われてしまったから、おずおずと顔を上げるしかない。
「私と結婚してくださいませんか?私は貴方と共に未来を歩んでいきたい。貴方となら、どんな傷害があろうとも、力を合わせて乗り越えていけます」
じっくりと考えて答えを出してほしいとヴェルザは言っていた。ハルジは直ぐに答えを出した。
「僕は貴女が良い。貴女でなければ嫌です。僕を選んで良いのですか?」
「私は貴方が良い。貴女でなければ嫌です」
喜んで、貴女の夫に。
喜んで、貴方の妻に。
妻と夫を反対にした方がしっくりくるとか誰かに言われそうですね。ヴェルザが冗談を言って、ハルジはぎこちなく笑った――どちらでも良いです、貴女と夫婦になれるなら、と。




