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愛しけやし吾がつま  作者: かなえ ひでお


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鈍いにも程があるハルジ

 太陽が南天に座している時間が少しだけ長くなったが、雪が解けて花が咲き乱れる春は未だ遠い今日この頃。

 お目当ての女性への贈り物は国民の税金ではなく、領地収入という自分のお小遣いで払ってくれないか。こめかみの辺りが痙攣している感覚を味わいながら、書類や資料と睨めっこをしているハルジの腹の虫が突如鳴いて、彼は一旦手を止める。壁掛け時計に目をやれば、食堂が最も混雑している時間が過ぎていることを知る。相も変わらず顔色が冴えないクラキ室長に断りを入れてから、ハルジは特別会計室を後にした。




「よう、カウピ財務官!愛しの恋人が待ってるぜ~?」

「お熱いねえ、ひゅ~♪」


 道中、擦れ違いざまに見知らぬ二人組のカブに言葉を投げかけられるが、内容に心当たりがないハルジは足を止めた。


(見知らぬ人に声をかけられたり、此方を見ながらヒソヒソ話をされる機会が増えているのは気のせいか……?)


 やる側は楽しいのかもしれないが、やられる側は楽しくはないし、場合によっては不愉快千万である。そんな相手には嫌味でも言ってやりたいところだが、相手は既に逃げ去っているものだから、やったもの勝ちだ。言い逃げをして他人を揶揄うのはとても恥ずかしいことだと思うのだが、何故、人間はやらかすのだろう?もやもやとした気持ちを抱えたまま食堂に到着し、ハルジは或る人物の姿を見つけて、瞠目した。

 ハルジがよく利用している席に、軍服姿のヴェルザがいる。勤務の途中でやって来たのか、それともこれから勤務に向かうところなのか。入り口の辺りで立ち竦んでいるハルジに気がついて、ヴェルザがにこやかに手を振ってきた。ぎこちなく手を振り返せば、彼女の笑みがより一層深くなって、ハルジの鼓動を早くさせた。そんな二人のやりとりを、食堂の従業員や利用客が生温かい目で見守っている。


「……こんにちは、ステルキ准尉」

「こんにちは、カウピさん」


 料理の注文を終わらせてから、ハルジはヴェルザの対面の席に着く。緊張のせいか、伏し目がちな視線を彷徨わせながら、「警邏隊の勤務はどうしたんですか?」と問えば、「今日の勤務は夕方からなんです」と彼女は答えてくれた。


「カウピさんにお尋ねしたいことがありまして、財務院庁舎を訪れましたら、ウクシ料理長にお会いしまして……」


 カウピさんはいつも昼の混雑が終わる頃に飯を食いに来るから、此処で待ってな。料理長の助言に従って待機していたら本当にハルジが現れたので良かったと、ヴェルザが朗らかに笑う。厨房でフライパンを振るっている料理長に顔を向ければ、バッチーン★と音がしてきそうな目配せをされたので、仰天したハルジは急いで顔の向きを正面に戻した。


「……僕に尋ねたいこととは?」

「噂好きの部下から聞いたのですが、私とカウピさんが近々結婚をするという噂がそこら中で広まっているそうで……若しかしたらカウピさんに御迷惑がかかっているのではないかと心配になりまして」

「……成程」


 ということは、先程の見知らぬ二人組のカブはその噂を知っていたので、ハルジを見つけるなり揶揄ってきたのか。


「僕は特に迷惑を被ってはいません。ステルキ准尉から伺うまで、噂のことはまるで知らなかったくらいですし……僕よりも貴女の方が迷惑を被っているのではないですか?」


 他人への無関心が精神攻撃への防御の役割を果たしているハルジとは違い、色々と気が利いて、人当たりの良いヴェルザはそうもいかないのだろうと察せられる。


「そうですねえ、碌でもない噂を流されることには慣れておりますので……でも、この噂はそうなる未来もあるのかもしれないと想像させてくれたので、悪くないと思いました」

「……そうですか」


 ハルジとの結婚は極刑に等しいと彼女に拒絶されなくて、彼は胸を撫で下ろした。


「噂の出所は御存知ですか?」

「部下の情報によりますと、発信源は王宮の方にあるとのことです」

「その噂なら俺も聞いたぜ~」


 出来立ての料理を運んできてくれた料理長曰く、美術館の庭園でヴェルザとハルジが熱い抱擁を交わしていたところを目撃した王宮関係者が、二人は深い仲で結婚の約束をしているのかもしれないと考え、面白半分に噂をばら撒いているのだとか。


「……あの時は周囲に人がいないことを確認しておりましたが、建物の窓から庭園が見えることを忘れておりました。目撃者がいてもおかしくはないですね」


 更にはあの時、あの場所には王宮関係者が幾人もいた。ヒミングレーヴァ王女に仕える人々はそのような真似をすることはないと知っているので、彼ら以外の誰かがやったのだろうと推測し、ヴェルザは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。


「その光景を目撃したのは事実であっても、面白半分で噂をばら撒くのは如何なものかと思うのですが……そういえば料理長、貴方は噂は本当なのかと訊いてきませんでしたね?」

「惚れた腫れたの話は他人が口出しすることじゃねえさ。そんな野暮ったい真似するなんて、ださいじゃねえか。まあ、痴話喧嘩が殴り合いに発展しそうなら、口も手も出すけどな~」


 じゃあ、ごゆっくり~と言い残して、料理長はのっしのっしと厨房へと戻っていった。


「所詮、噂は噂ということで聞かなかったことにします」

「そうですね……ああ、そうでした!もう一つ、お尋ねしたいことがあるのですが……」


 あの日、ハルジは美術館でお見合いをしていた――途中までは。縁談の相手は彼の実家であるカウピ家と縁が深い、豪商ブォーナフェデ家の令嬢だった。ハルジは破談になっても問題はないと言っていたが、上流階級の人々の縁談であるから、やはり差支えがあったのではないかと気にかかっているのだ。本当に気にしなくても良いのにと思うが、何も言わないままでは、ヴェルザはずっと気に病むに違いない。ハルジは父親のフリズショーヴから聞いた話をすることにした。


「あの出来事の後、ファウスティナ嬢はブォーナフェデ家の御当主に仰ったそうです。彼女と僕は結ばれる運命になかったようだと」


 娘の言葉に対し、当主ドゥランテは「残念だったね」と言ったものの、気分は全く害していなかったらしい。


「我々の子供が結ばれないのだとしても、我々の友情は不滅だと父が豪語しておりましたので。本当に問題はありません」


 ファウスティナはハルジのことを何とも思っていないので、傷ついてもいない。気の合うお友達ができて御機嫌なのだと聞いていると伝えれば、ヴェルザは漸く安堵の息を吐いた。


「僕もブォーナフェデ家の方々があっさりと引き下がってくださったのが気になったので、父に尋ねました」


 ドゥランテが娘の夫候補にハルジを挙げた理由は何だったのだろうか。末息子と同様に気になっていたらしいフリズショーヴは、永遠の友情を誓ったドゥランテに思い切って尋ねてみたのだという。


『いやあ、ファウスティナが気に入る男が自国になくてね。だったら外国の男なら良いのではないかと考えて、両家の子息に沢山の伝手を持っていそうなショーヴィを尋ねに王都に来たんだ。それで君の息子のブリュンハルズくんのことを思い出したのさ』

『ドゥランテの記憶に残るほどの強い印象を与える息子ではないと思うのだがね?』

『いやいや、覚えているに決まっているさ!我が侭放題の幼いファウスティナを前にしても、彼は全く動じていなかったのだから!だからねえ、我が強すぎるファウスティナも彼なら受け止めてくれるのではないかと少~し期待して、駄目で元々と縁談を持ちかけたんだよ』


 ハルジが動じていなかったのは懐が深いからではなくて、他人に無関心だったからなんだよ、我が友よ。フリズショーヴはドゥランテに真相を伝える勇気が湧かなかったそうだ。


「――つまりは、年頃の娘に意中の相手がいないことを心配した父親が当たって砕けろの精神で知人の息子と会わせてみただけ……ということですね」


 気に病むだけ損かもしれませんと言われ、ヴェルザは「私の憂いを返してください」とは言わなかったが、つい頷いてしまい、慌てて首を振った。


「それではカウピさんは当分、何方かと結婚される御予定はないということでしょうか?」

「そうなりますね」


 欠点だらけのハルジでも構わないという奇特な人類が現れない限りは、或いは彼自身がそうしたいと思う人類が現れない限りは、独身生活がいつまでも続くのだろう。

 ここで漸く、ハルジは食事にありつく。やや冷めてしまっているが料理人たちが腕を振るった食事は美味である。一皿目の鹿肉ステーキがあと一切れというところで、はた、と気づく。そういえばヴェルザは昼食を済ませているのだろうか、そう尋ねようと面を上げれば、幸せそうに目を細めて此方を見つめているヴェルザが視界に飛び込んできて、ハルジは体を硬直させた。


「……僕に御用でしょうか?」


 いや、御用はさっき聞いた、二つも。頓珍漢なことを口走ったのが恥ずかしくて、それを誤魔化そうとして最後の一切れを口に放り込み、二皿目の料理に突入する。


「美味しそうだなあと思いまして……カウピさんが」


 直後は意味が分からなかったのだが、徐々に分かってきて、顔と耳を赤くしたハルジが、ごくりと喉を鳴らす。彼の調子を狂わせる笑みを咲かせたヴェルザが艶めかしく舌なめずりをするものだから、心臓が爆発してしまいそうだ。

 平常心、平常心だ。動揺しているのを悟られたくなくて食事を再開するが、味がよく分からないのはどうしてなのか。

 余裕を見せつけてくるヴェルザと、遅すぎる青春を爆発させているハルジ。彼らを厨房から見守っていた料理長は焼きたてのワッフルを席に運んで来るなり、じとっとした目つきで二人を交互に見やった。


「あんたら、さっさと結婚しろ。続きは是非とも愛の巣でやってくれや」


 見せつけられてるこっちが恥ずかしいぜ、全く。呆れた声で言い残して、のっしのっしと厨房に帰っていく料理長に賛同した人々も大きく頷いていた。


「――との仰せですが、如何致しましょう?私に異論はないのですが?」

「……熟考させてください。人生に係わる決断ですので」

「畏まりました。心の準備ができましたら、教えてくださいね。是も非も受け入れますから」


 さっきまでの艶めかしさはどこへやら。いつものように柔らかく微笑むヴェルザに、ハルジは蚊の鳴くような声で「はい」と答えるのが精いっぱいだった。

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