ヴェルザ、茹でエビになる
何時までも特別展示室の前を陣取っていては、大勢の来館者の迷惑となる。ヴェルザとハルジ一行は一旦其処から離れて、広間の隅っこへと移動する。
「……お義姉様、御免なさい」
かろうじて聞き取れるくらいの謝罪が、ヴェルザの耳に届く。彼女の眼下では、叱られる覚悟を決めたアルネイズが拳を硬く握りしめて、小さくなっていた。
「私が突っ走らなければ、お義姉様が面倒に巻き込まれたり、嫌なことを言われたりしなくて済んだのに……本当に御免なさい」
好奇心に負けてしまった己の行動が、あの事態を招いたのだと自覚しているアルネイズに、何て声をかけたら良いのだろうとヴェルザが悩んでいると、ふわりと、芳香が鼻腔を擽った。
「わたくしたちがあの王子殿下にしつこく付き纏われて困っていても、何方も手を差し伸べてはくださらなかったけれど、貴女は飛び込んできてくださった。無鉄砲ではあったけれど、わたくしは嬉しかったわ」
「あ、有難う、そう言ってくださって……」
ヴェルザたちの前に進み出てきたファウスティナに叱責されるでなく、礼を言われるなんて思ってもみなかったアルネイズははにかむことしかできない。ずば抜けた容姿の良さから同性に嫉妬と羨望の眼差しを向けられてばかりだったアルネイズは、同年代の女の子との交流が極端に少なくて、どう反応したら良いのか分からず、ついつい人見知りをしてしまうようだ。
「わたくしはファウスティナと申します。此方は侍女のアンナ。宜しければ、貴女の御名前を教えてくださる?」
どこぞの王子に殺意を向けていたとは思えないアルネイズの仕草に、ファウスティナは微笑む。どこぞの王子が連呼していたので彼女の名前は既知ではあるのだが、興味を抱いた彼女と仲良くなるには先ずは挨拶からと考えているらしい。
「私はアルネイズと申します」
「そう、素敵な御名前ね。――ところでアルネイズさん。あまりに突然なお話しなのだけれど、わたくしと一緒に美術館の中を回りませんこと?」
初対面の令嬢からの突然のお誘いに、アルネイズは咄嗟に保護者を見上げた。慈愛に満ちた表情のヴェルザは静かに頷き、彼女の背中を、ぽん、と軽く叩いた。
「……わ、私で宜しいのでしたら、是非とも御一緒させてくださいっ」
「わたくしの申し出を受けてくださって嬉しいわ」
表情や返事の仕方はおかしくはないかと挙動不審になっているアルネイズが面白かったのか、ファウスティナの笑みが深くなって、それを目にしたアルネイズは照れ臭そうに頬を掻いた。
「そういうことで御座いますので、ブリュンハルズさん、わたくしたちはここでお別れ致しましょう」
「そう仰るのでしたら従いますが……宜しいのですか?」
「御父様にはわたくしからお話を致しますから、貴方は何も心配なさらないでくださいな」
「はあ……」
ほんとうに良いのだろうか?首を傾げているハルジに「ごきげんよう」と挨拶をしたファウスティナだが、何かを思い出したような表情をすると、不意にヴェルザを見上げた。
「白薔薇を差し上げますわ、鳶色の髪の麗しいおねえさま」
「え?有難う存じます……?」
侍女のアンナから恭しく一輪の白薔薇を渡されたヴェルザの頭の上にハテナが幾つも浮かぶ。仲良くぽか~んとしている男女にそれ以上目をくれることもなく、絶世の美少女と手を繋いだ高雅なる令嬢は軽やかな足取りで特別展示室へと姿を消していった。
「あの~カウピさん?あの華々しいお嬢様は貴方のお連れで……?」
可愛い義妹に同年代の同性のお友達ができる絶好の機会ではないかと考えて、彼女の背中を御pしたのは良いのだが、その結果、ハルジが置いてけぼりになってしまったのではないか?と気付いたヴェルザは、そわそわしながら手元を白薔薇を弄う。
「連れというか、縁談のお相手ですね」
「え?縁談!?お見合いをしていらっしゃったんですか!?……あっ」
予想もしていなかった回答に驚いて、うっかり白薔薇の茎を追ってしまう。白薔薇はガックリと頭を垂れて、元に戻ることはない。ヴェルザは白薔薇をくれた令嬢に心の内で詫びて、上着の内にそれを隠蔽した。
「彼女はカウピ家と縁が深いブォーナフェデ家の令嬢で、親同士が決めた縁談のお相手でしたが……置いていかれましたね」
すっかり忘れていたが、ハルジは豪商カウピ家の子息である。一族の更なる繁栄を願って、親が決めた相手と結婚をする可能性はあるし、良家の令嬢との縁談が舞い込んでくる可能性もある。だがヴェルザが狼狽した理由は其処にはない。
「……若しかして私とアルネイズが縁談をぶち壊してしまったのでは?」
そうなのだとしたら、どのようにして責任をとったらよいのか。慰謝料を請求された場合、ヴェルザの貯金で払いきれる額で収まるのだろうか。冥府の住人のように顔色を悪くして項垂れるヴェルザに反して、ハルジは他人事のように落ち着き払っている。
「ステルキ准尉とアルネイズ嬢が現れる以前から問題が発生していましたので、縁談が破談となってしまっても仕方がないことかと思います。まあ、破談となってしまっても、カウピ家とブォーナフェデ家の縁が断たれることはないと父が言っていましたので、ステルキ准尉が気に病む必要はありません」
ハムセール王子に粘着される原因の一端を担っていることは忘却の彼方にやったらしいハルジの言に、ヴェルザは胸を撫で下ろす。ついうっかりで他人が幸せに至る可能性を潰してしまっていたら申し訳ないし、それ以外の理由もある。
「……えーと、カウピさん?私に物申したいことが御座いますのでしょうか?」
気のせいだろうか、下の方から、じと~っとした視線を感じる。己が何かをやらかしたのかもしれない――そう察したヴェルザが問いかけ、ハルジは肯定する。
「そうですね、貴女に物申したいことがありますね」
「やはり私が縁談をぶち壊してしまったのでは……?」
「それ以外のことについて、申し上げたいですね」
表情筋が仕事を放棄しているハルジからは感情が読み取れないのだが、不思議なことに彼は今苛立っているのではないかとヴェルザには感じられる。彼は何に対して苛立っているのか、ヴェルザはそれを知らなければならないと考えた。
「あの~お話が長くなるかもしれないのでしたら、喫茶室に向かいませんか?其方には美味しいお菓子があると知人から伺っておりますので、お茶でもしながら物申して頂きたいな~なんて……」
待て、相手は子供ではない、歴とした成人男性だ。お茶菓子で釣って懐柔しようだなんて、どうかしている。けれどもハルジはピクリと反応した、お茶菓子という言葉に。ヴェルザはばっちり目撃していた。
この人はお菓子で釣れてしまう大人なんだ――ヴェルザ、心のメモ書き。
「……そうですね、小腹も空いていますので丁度良いです」
さっさと喫茶室に案内してください。そう言われたような気がしたヴェルザは苦笑すると、ぶすっとしながらもお菓子に胸を弾ませているだろうハルジを引率していった。
美術品を鑑賞する場所、それは美術館。けれど、そればかりでは飽きてしまって退屈する子供がいるだろうし、変に気疲れしてしまう人もいるだろう。そんな人たちがゆったりとできる空間を提供したいとは、ヒミングレーヴァ王女の言。彼女の提案は採用されて、職員棟の一室――嘗ては音楽会などに使用されていた部屋を改装して、喫茶室になった。その名残で片隅にはピアノが置かれ、弦楽器や管楽器を収納したガラス張りの棚も置かれているその場所は来館者は勿論、職員も気軽に利用出来る憩いの場として人気を博しているのだそうだ。
(……これは……小腹が空いた、の量ではないような……?)
ヴェルザの前にあるのは一杯のコーヒーと、素朴なクッキーが数枚盛りつけられた一皿。対するハルジの前には一杯の紅茶と、バターとケイヒの香りが芳しいシナモンロール、キイチゴのジャムを載せたクッキー、コケモモのジャムと生クリームを添えたチーズケーキ、そしてハタンキョウのペーストと生クリームをたっぷりと中に詰めた香味料入りのパン菓子が所狭しと並べられて、圧倒される。
「それではステルキ准尉、先程の続きと参りましょうか」
甘いを通り越した甘すぎる紅茶を一口飲んで、ハルジは対面のヴェルザを真っ直ぐ見据える。不満がある黒猫のような目をして。本来の風味を抹殺された紅茶は温かい砂糖水と同じようなものなのか。ぼやっと思考していたヴェルザは居住まいを正した。
「あの騒ぎの際に気になることがありました。貴女は何故あのバ……失敬、王子殿下に反論しなかったのですか?貴女と貴女のお父さんが理不尽に侮辱されたというのに」
クッキーを頬張るハルジの問いに、ヴェルザはおどけたように肩を竦める。
「お前たち姉弟は、父親が上司を庇って死んでくれた御蔭で良い生活ができているんだぞ。クヴェルドゥールヴ家に引き取られてから、耳に胼胝ができるほど投げつけられてきた言葉です。すっかり慣れてしまって、何も言う気にならないのですよ」
「本当に慣れているのですか?」
「どういうことでしょう?」
「あの時の貴女は笑いながら、王子殿下の目をじっと見ていました。だから僕は考えました、貴女が激情を押し隠しているのではないかと」
ハルジは知っている。都合が悪いことを誤魔化したい時、敢えて笑って相手の目をじっと見る癖がヴェルザにはあるのだと。
「カウピさんに見抜かれていたとは……不覚です」
「ステルキ准尉のことだから、僕には分かったのだと思います」
ヴェルザはハルジにとって、アトリの次に交流が長く続いている稀有な存在だから。ハルジは ヒンドベルヘリルの皿を空にすると、次はカネールボリの皿に手をつけ始める。急いで食べているわけではないのに食べ終わるのが早いのは何故だろう、と、ヴェルザが小さく笑う。
「……ええ、あの時の私は腸が煮えくり返っておりました」
「大抵、何方でもブチキレる内容です。僕ですら家族のことを悪く言われると腹を立てるのですから、尚更ではないですか?」
それでも怒りを面をに出さなかったのはどうしてなのかと問われて、ヴェルザは冷笑を浮かべた。
「会話が成立しないお馬鹿さんと同じ土俵に立ってはならないと、己に言い聞かせていたのですよ」
「……ステルキ准尉の口から悪意のある言葉が飛び出てくることもあるのですね」
普段から心の中では毒づいていますよと彼女は言うが、ハルジは訝る。
「反論したい気持ちはあるのですけれど、ああいった手合いには何を言っても無駄なのだと数々の経験で学びましたので、黙ることにしております」
「そうなのだとしても、あれは度が過ぎています。一発くらい拳を見舞いして差し上げても良いくらいです」
”猪殺しのステルキ”と揶揄されるヴェルザの拳をくらうとなると、ハムセール王子の首が捻じ曲がり、骨は砕け、あの世行きが決定なのではないか。ハルジはそんなことを想像してしてしまって、彼女に失礼だと、頭を振って、ろくでもない想像を払拭する。
「う~ん、何もしていない状態で難癖をつけられて、降格処分の上に地方に左遷させられたことが御座いますので……うふふっ」
あ、そうだった。気まずくなったハルジはカネールボリを食べ終わり、三皿目のセンブラに突入し、暫し黙考する。自分のことはまるで気にならないのに、ヴェルザが嫌な気持ちにさせられたままでいることがどうにも気に入らないらしい。
「私よりもカウピさんの方が怒っていらっしゃいますね」
切り分けたパン菓子を口に運ぼうとしていた手が止まり、静かに下ろされる。心なしか、彼がむっとしているように見えるのは気のせいか。
「……クヴェルドゥールヴ家に引き取られた貴女が多くの人よりも良い暮らしをさせてもらってきたことは事実です。だからといって、それに甘えて、貴女は楽ばかりしてきた訳ではないでしょう。貴女のことを何も知らない輩が貴女のことをさも知っているかのように侮辱しているのを目の当たりにして、僕は良い気持ちになったりはしません」
アトリから聞いていたヴェルザの話は弟の贔屓目が多少はあったにせよ、実際にヴェルザと出会ってから嘘ではないのだろうとハルジに感じさせた。士官学校に入らんとしてクヴェルドゥールヴ家の力は利用せずに、猛勉強の末に合格したこと。学校に入ってからは陰口や嫌がらせにもめげず、研鑽を重ねて、首席で卒業したこと。精鋭たる近衛師団に配属されてからも驕ることなく、その名に恥じぬように必死だったこと。紆余曲折を経て、警邏隊の一員となってからも、街の治安を維持しようと努めていること。ヴェルザという人を知れば知るほど、彼女を馬鹿にされるのが許せない。アトリから始まる数々の出会いが、ハルジに誰かを慮る気持ちを芽生えさせたようだ。
「気のせいでなければ良いなあと思っていたのですけれど……カウピさんは私の代わりに王子殿下に怒ってくださったのですね……嬉しいなぁ」
とにかくヴェルザはよく笑っている。けれど、頬を仄かに赤くして、とろけるような目をした笑顔は初めて目にした。
(……ん?)
どうしてだろう、心臓の音が五月蠅い。あまりにも心臓がドキドキしてやまないものだから、ハルジは急な病を発症したのかと疑うが、呼吸は荒くなっていないし。眩暈もしていない。ただ、首から上だけが妙に熱い。そんな病が存在するのか?医師ではないハルジに判別できるはずもない。
(ステルキ准尉が笑っているだけなのに、僕はどうしてこれほどまでに激しい動悸に襲われているのか……?)
子供の時分より両親が呆れるほど読み漁ってきた多種多様の本の中に、この謎の症状を説明しているものはなかったか。ヴェルザから目を離すことができないまま、冷静さを失ったハルジが思考を巡らせ、答えを見つけ出す。
「この激しい胸の動悸は、恋愛感情を向ける相手に見つめられることによって起こる興奮状態であるといえる。つまり僕はステルキ准尉に恋慕しているということでしょうか?」
「へぇっ!?」「えっ?」
逆上せたように顔を赤くしているハルジが導き出した答えに、ヴェルザは素っ頓狂な声を返してしまう。僅かの後、彼女は茹でられたエビのように顔を真っ赤にして、ハルジも己がとんでもないことを口走ったのだと気がついて、何も言えなくなってしまった二人は仲良く俯いた。




