目を覚ましてみれば
いつの間にやら途絶えていた意識が浮上し、やたらと重たく感じられる瞼を抉じ開けてみれば、視界は真っ暗闇だった。
(……うん?)
最早体の一部といっても過言ではない眼鏡の存在を顔面で感じられないため、これ以上の視覚情報は得られないだろうと、ハルジは溜め息を吐く。すると、ガンガンと脳を揺さぶるような頭痛に襲われた。状況を把握せんとして、強烈な頭痛に耐えながら、ハルジは思考してみる。
一つ。ハルジは寝台と思しき場所に寝かされていて、毛布が掛けられている状態にある。寒さに凍えることがなくて良かった。
二つ。どういう訳なのか、背後から何者かの腕が回されていて、身動きがとれない状態にある。ここでハルジは初めて、自分が他人と同衾していることに気がついて戦慄した。尚、脱出を試みたが、相手の腕力がハルジのそれを圧倒的に凌駕している為、一先ず抵抗することを止める。
三つ。背後の何某が立てる健やかな寝息が耳に届いている。眠っている状態で、あの腕力を発揮しているとは。ハルジは驚愕した。
「んん……待ってください、黒猫ちゃぁん……逃げないでぇ……食べたりはしませんからぁ~……」
胴体に巻き付いている腕の力が増し、ハルジの細身をギリギリと締め上げてくる何某の声には聞き覚えがある――ヴェルザだ。口から内臓が飛び出しそうな感覚と頭痛に耐え、何某の顔を確認しようと体を捻じろうとするも、それは叶わなかった。そもそも眼鏡のないハルジでは、暗闇の中で相手の顔を確認することもかなわないことに気がついて、ガックリする。
(背後の人物がステルキ准尉であると仮定して……どうして我々は同衾しているのか?)
味わったことのない動悸がしてきたハルジは、震える手で己の体に触れてみる。服は身につけている。全裸でも半裸でもない。先程、拘束から逃れようと藻掻いた際に服の感触があったので、相手も服を着ていることは間違いない。二人とも生まれたままの姿ではなかったと分かり、ハルジの動悸は治まってきた。
(えぇと……トゥーリッキの遺骨を納める為にステルキ家の墓所へ行って、次に喫茶店に行って、それから……)
意識を失う前に、自分は何をしていたのか。ハルジは順を追って、記憶の糸を手繰り寄せていく。
あの後はトゥーリッキが働いていた酒場に向かい、店主夫妻に納骨の報告をした。そして、気が済むまで酒を飲むのだと宣言したヴェルザに付き合って、食事をしていたら、酔っぱらいに絡まれたのだ。ヴェルザが止めるのも聞かずに、流されるままに強い酒を一気に飲み干したらば――記憶は途絶えた。思考の海に沈んでいたハルジを引き戻したのは、頭痛だ。
(若しかして僕は泥酔の果てに、ステルキ准尉に乱暴を働いたのか……?)
いつだったか読んだ本に書かれていた。人間は酒を飲むと気が大きくなり、酒に飲まれると理性の箍が外れることがあるものだと。
(いや……どうやったら僕がステルキ准尉に力で勝てるんだ?)
酒瓶の入った木箱を持ち上げるのにも一苦労するハルジが、林檎を片手で握り潰せるヴェルザに力で勝つ方法など存在するのか。答えは、否である。ハルジは易々とヴェルザに制圧され、最悪、再起不能にされる未来が待っているだけだ。
(僕の仕業でないと仮定すると……ステルキ准尉が僕を?)
それもまた、ありえないことだ。ヴェルザは泥酔して動けない人間に無体を働くような人物ではないと、ハルジは知っている。枕に頭を擦りつけるように首を振り、とんでもない考えを払拭した。
「……兎に角、眼鏡が欲しい」
「あ、眼鏡ですか?眼鏡は此方に……」
背後の何某は目覚めたようで、ハルジの呟きに反応した。彼を拘束していた腕を解き、起き上がった何某は寝台から降りる。小さな棚の上に置かれた眼鏡を手に取ると、のそのそと上体を起こしたハルジに差し出してくれた。
「眼鏡は貴重品ですから、壊してしまわないように外しておきました」
「……有難う御座います」
ハルジが眼鏡をかけると、カーテンを開ける音がして、仄かな光が姿を現した。未だ暗さがあるが、目を凝らしてみれば、室内の様子は分かる。彼らがいるのは、宿の一室のようだ。痛む頭を押さえつつ窓に目を向けてみれば、冬の長い夜が空けようとしている頃合いの空が見えて、ハルジは日付が変わっていることを知った。
(……何かが違う)
ハルジと同衾していた人物は、やはりヴェルザだった。それは良いのだが、備え付けの暖房に火を点けている彼女に違和感を覚えるのは何故か。普段はきっちりと結い上げられているヴェルザの髪が、首の後ろで一つに結われているからか。
(あんなに髪が長かったのか……)
髪型が違うだけで印象が変わるのだな、まじまじと眺めていると、暖房の世話を焼いていたヴェルザが立ち上がり、くるりと振り向いて、ハルジは吃驚した。
「私が同じ寝台で眠っていましたから、驚かれましたでしょう?申し訳ないことを致しました」
森の中で狼に追い詰められた野兎の如く硬直しているハルジに、ヴェルザが事情を説明してくれる。
昨日、すっかり酔い潰れてしまったハルジを介抱するべく、ヴェルザは酒場の店主夫妻に近くの宿を案内してもらう。そして、宿の寝台に彼を寝かせたのは良いものの、いつまで経っても目覚める気配がない。やがては、長い夜が訪れてしまった。
「カウピさんを置き去りにする訳にも参りませんので、そのまま此方で待機していたのですが……」
夜もすっかり更けてきたが、まだまだハルジは目覚めない。一旦眠りに就くと、何が起ころうとも目を覚まさない類の人間なのかもしれない。このまま宿で一夜を過ごすことに問題はないが、問題なのは、一つしか備えられていない寝台だ。男女二人連れであった為に、宿の主人が気を利かせて、夫婦や恋人が利用する部屋を案内してくれたのかもしれないが、ヴェルザとハルジの関係はそれらには該当しない。
「警邏隊という職務に就いておりますので、体調には気を遣っております。特に睡眠はしっかりと確保したいのです」
「浴びるほど酒を飲むのは健康に良くないと、僕は思うのですが……」
「お酒は私の命の糧ですので、体調管理に欠かせない代物であります」
兎にも角にも、ヴェルザは今すぐ眠りに就きたかった。睡眠欲に負けたヴェルザはハルジの隣に潜り込み、ぐっすりと眠ったのだった。結果、体調は万全である。
「……ということは、泥酔した僕がステルキ准尉に乱暴を働いたりはしていないのですね?」
「カウピさんはぐでんぐでんの状態でしたので、それは不可能ですね。仮にそのような状況にい陥りましても、武力制圧は容易ですし……寧ろ、何かをしていたのは、私の方です。カウピさんを抱き枕代わりにしてしまいましたことを深く御詫び申し上げます」
「謝罪は不要です。僕の方こそ、多大なる御迷惑をおかけしましたことを御詫び致します……」
意識がない間に何が起こっていたのかを知ったことで、ハルジは平常心を取り戻してきたのか、「抱き心地の悪い抱き枕だったろうに」と、どこか他人事のように考える。未だ寝台の上にいる彼は膝を引き寄せると、其処に顔を埋めるような姿勢をとるなり、深い深い溜め息を吐いた。
「正気ではない僕がステルキ准尉を傷つけるような真似をしていなくて……良かった……」
ハルジの呟きが耳に飛び込んできて、ヴェルザはきょとんとした。想像もしていなかった言葉が彼の口から出てきたものだから。けれども直ぐに我に返り、懐中時計で時刻を確認する。時計の針は朝の区分の時刻を指し示していた。
「あ……の、カウピさん、本日は御仕事に行かれる日ではなかったでしょうか?今から急いで自宅に戻られて、身支度を整えられましたら、遅刻は免れるのではないかと推察致します」
ヴェルザに促されて初めて重大なことを思い出したハルジは寝台から飛び降りるなり、大慌てで支度を始める。
「後のことは私が済ませておきますので、どうぞお先に」
「有難う御座います、ステルキ准尉。助かりますっ」
本日は午後からの勤務だというヴェルザは時間に余裕があるからと、なかなかの寝癖をつけたハルジの背中を見送った。そして部屋の扉を静かに閉めると、扉に背を預けて――彼女は虚空を仰ぎ見た。
『ステルキ!お前、酔っぱらって動けなくなってる俺を襲ったりはしてないだろうな?お前みたいな男勝りは素面の男に相手にされないからって、そんあことをしたらダメだぞ?』
不意に脳裏に蘇ってきたのは、酒に負けて前後不覚になった同期の男性軍人を担ぎ、独身寮まで連れ帰ってやった翌日の出来事。酔いが覚めた当の本人はヴェルザに謝意を述べるでなく、暴言を吐いてきたのだ。あまりに驚いて言葉を失っているヴェルザに代わり激怒したのは、偶々その場を通りかかったベルググレイン少佐であった。
それに対し、似たような状況――でもないけれど、ハルジは暴言を吐いた同期とは違う発言をした。
(……あのような台詞は初めてですね。吃驚してしまいました……っ)
顔が熱い。暖房の熱が漸く室内に回りだしたくらいなので、顔が熱くなっているのは暖房のせいではないのだと分かると、余計に恥ずかしくなってくる。
(カウピさんがいなくなってからで良かった……!)
恋に憧れている少女のような情緒を、二十代半ばも過ぎた年齢になっても味わうなんて!
扉に背をつけたままズルズルと下がって座り込んでしまうと、ヴェルザは両手で顔を覆って、暫くの間動けなくなってしまった――室内には彼女の他に誰もしないのに。




