二百十三告目 悪は裁かず 20
「……彼女が言ったことは嘘だったと後で分かりました。きれいな体のまま。犯されてなんかいなかった」
それを知っても当時の奥村稜は彼女がそんな嘘をついてまで別れたかったのか、家同士が決めた許嫁という関係がそんなに嫌だったのかと思っていたのだという。それは子供の頃からの「お前はジジイどもの家が大事という古い考えに騙されているかわいそうな人間だ。私はお前を解放する正しい存在なのだ」という母親の洗脳のせいなのだがそのときはそうとしか考えられなかった。
「でも今なら分かります。彼女はぼくを守ろうとしてくれていたんだということに。それはたぶん信岡先輩も……」
奥村稜は大学に来たおかげで目が覚めたのだと阿川飛名子に話した。一人暮らしをはじめて母親と距離を取るようになり、多種多様な価値観の人間に触れるようになったことで洗脳が解けたのだと。
そして奥村稜は新しい環境で自分を変えていこうと積極的に行動した。ただ搾取されるだけの存在でなく人と信じ合い対等に話せる関係になりたいと思った。
しかし付き合う人間が変われば向けられる感情も一様ではない。奥村稜を何も知らない田舎者と見て、都合のいいように使おうとする人間が笑って近づいてくることも少なくない。後出しジャンケンで知識をひけらかしてマウントを取りたがる人間、他人を踏み台にすることに何のためらいもない人間はどこにでもいる。
そのことを思い知らされれば奥村稜も疑心暗鬼になってしまう。人の目を気にして学食で昼食を取ることもできず、部室で気心の知れた友だちや先輩と過ごすことが多くなった。
それでも部室で仲間と話すうちに奥村稜も心を癒やしていく。その中でも信岡聖には特別な感情を抱くようになった。
「好きな人とかいないの? バイト先の女の子誰か紹介してあげようか?」
その言葉に「先輩がいいです」とは言えなかった。新歓コンパで彼女に告白めいた発言をしてしまったのは勢い余ってのことだったが日ごとに惹かれていくのが自分でも分かった。
後で婚約者がいると知ってやっぱり言わなくてよかったと思いつつも、一年早く生まれていたらチャンスがあったかもなどとくだらないことを考えた。
「でも結局ぼくはまた何もできなかった。信岡先輩のことも口では守ってあげたいと言っておきながら……」