二百八告目 悪は裁かず 15
信岡聖を救いたいという思いは阿川飛名子の中に確かにあった。その気持ちだけでここに来たのだ。しかし逆に言えば彼女にはそれしかなかった。熱に浮かされた情動も呪いというリスクに直面すれば簡単にしぼんでしまうものだった。アイドルにうつつを抜かし目先の儲け話に夢中になる人間が失った時間や金を前にして急に目が覚めるように。
障害を持った人を隣で支えることはできる。しかしそこで苦しみを分かち合うためにお前も腕を切り落とせという話にはならない。メリットのない無意味な犠牲でしかないからだ。
だが今の信岡聖が阿川飛名子に望んでいるのはそういうことなのだ。火事の中に水ではなく灯油をかぶって飛び込んでこいと言われたようなものだ。今の信岡聖は救ってくれる人間ではなく同じ火に焼かれる人間を欲しているのだと。
それに思い至ったとき、阿川飛名子の胸中を占めたのは慈愛ではなく拒絶だった。
「やめて、お願いだから! 呪われたらもう……生きていけない!」
阿川飛名子の言葉に信岡聖の動きが一瞬止まる。緩んだ隙をついて阿川飛名子はそのまま走った。通りに出るまで後ろは振り向かなかった。
阿川飛名子は乗ったバスの中で最後に見た信岡聖の顔を思い出していた。「呪われたら生きていけない」と言ったときの彼女は、しらけたような無表情の裏に深い諦念を滲ませていた。
言外に信岡聖に「お前の覚悟なんて薄っぺらな紙切れと同じだ」と見透かされたようで、阿川飛名子は降りるまで人目も憚らず泣き続けた。