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目を開けたエフィは、自分がベッドの上に寝かされていることに気が付いた。額には濡れたタオルが乗せられている。
全身が汗でぐっしょりと濡れていて気持ち悪い。
吐き出した息は妙に熱く、体も重たかった。
人間とは本当に不便だ。こんなにも重い肉体をまとわないと生きていけないだなんて。
エイシャと同化したばかりのころ、こうしてよく熱を出していたことを思い出す。魔力の循環はうまくいっていたが、加減を知らず力を使いすぎていた。
ほんの少しのきっかけで魔力過多症になってしまう脆弱な体だ。もっと丁寧に扱わないといけないことにやっと気づいたのは、十歳のころだ。
魔力をうまく使えるようになって、少しずつ教会本部からも注目されるようになった。当時エフィを世話していた修道女が、「あなたはもしかしたら聖女様なのかもしれないわね」そう言っていた。
けれど、あまり目立つのもよくなかった。エフィはあくまで、エイシャの代わりにここにいるだけだったから――
「あら、お目覚めですか?」
ベッド近くの椅子に腰を掛けて、本を読んでいた女性が顔を上げて言った。エフィの身じろぎの気配で、起きたことに気が付いたようだ。修道服を着ている。人間の世界に不慣れだった幼いエフィの世話をしてくれた修道女によく似ていた。そんなはずはない。あの時の女よりもずっと若い。
「まずはお召し替えを」
そう言って固く絞った濡れタオルと着替えを差し出す。エフィはのろのろとした動作で起き上がった。額から、生暖かくなったタオルが落ちる。
着替える段階になって、倒れる前に着ていたワンピースではなく、就寝着を着ていることに気づいた。
「何度か私の方で替えました。汗がひどかったので。フローリアに到着するまでに襲われたと聞きました。怖かったですね。ですがここは守りも堅いのでご安心を」
落ち着かせるようににっこりと笑う。
「私はヘルミーナ。しばらくエフィ様の身の回りのお世話をします。ただいま、ルーウェル様を呼んできますね」
エフィが体を拭いて着替え終わるのを待ってから、ヘルミーナは部屋の外に出て行った。
エフィはベッドに腰を掛けたまま室内を見回した。カーテンがかかっていて薄暗い。ベッドと鏡台、クローゼットが置いてある。
ベージュ色のじゅうたんが敷かれ、それ以外の装飾品はない。ヘルミーナが出て行った扉の他に、別室に続く扉があった。シンプルな扉で彫もないのっぺりとした一枚板だ。
軽いノックとともに、ルーウィットが入ってくる。
旅装から着替え、司教服を着ていた。普段着だとあまり司教のように見えなかったが、こうしてみれば司教らしい。
「大丈夫か?」
ルーウィットは心配そうに尋ねる。
「移動の疲れが出たようだな。徒歩で来るんじゃなく、車にしたのは正解だったな。しばらく休むといい」
エフィが倒れた理由が、刺客に襲われた一件のせいだと思っているようだ。そう思われているのは、エフィにとっても好都合だった。まさか、自分が殺した少女の父親に出会ってしまって気分が悪くなっただなんて、知られたくはない。
「具合がよくなったら、エフィに会いたいと言っている人がいるんだが、約束を取り付けていいか?」
エフィはぎくりとする。このタイミングで会いたいというなんて、一人しか思いつかない。
「倒れる前に会った男性ですか?」
「そうだ。アーク・ヴィーヴィスという」
「あの方も教会の方?」
それにしては、階級がわかるものを身に着けていなかった気がする。教会の人間ではないものが、このような場所に入り込めるものなのか。
「いや、彼は俺の主治医といったところかな」
「ルーウェルさん、病気なんですか?」
思わぬ言葉が出てきて、エフィは瞬きをした。エフィの見立てでは、魔力過多症は完治している。
それに、わずかに残っているエイシャの記憶では、アークは医者ではなかったはずだ。もっと、芸術家よりの何かだった気がする。それとも、エイシャの病を治すために医者になったのか。ないとは言い切れない。
肉体に宿るかすかなエイシャ記憶では、アークはとても家族を愛していた。本来の職業を捨てて医者になることもあり得る。
「まあそんなところだな。生死にかかわる病気じゃないが」
「その主治医がなぜ私に会いたいと?」
警戒心を悟られないように注意を払いながら、エフィはルーウィットに聞く。
エフィを見た瞬間、アークはエイシャの名前を言った。写真のころのエイシャと今のエフィ、結び付けられるのは髪色と膨らんだ顔に埋もれた瞳の色しかない。それでもやはり親子だからか、エフィからエイシャの匂いをかぎ取ったのか。
「本当は本人が直接言うべきなんだが……。アークには娘がいて、十二年前に行方不明になっている。生きていいれば、ちょうどエフィくらいの年齢だな。彼は今も、エイシャを探しているんだ」
話は長くなるのか、ルーウィットはヘルミーナが座っていた椅子に腰を下ろした。
「エフィ、たしか君には両親がいなかったね?」
「……はい」
ひやりとしたものが背中を流れ落ちた。
まさかエイシャの存在と絡めて過去を探られることがあるとは思っていないので、エフィは何も対策を練っていない。
十二年前、エフィとして地上に下り立った時はまだ人間としては六歳で、孤児として教会に保護されている。そのまま教会で成人し、十六になって修道女の道を選んだ。
アークが娘を探しているのなら、十二年前という符号が見事に合致してしまう。しかも、エフィは当時記憶喪失を装っていた。
記憶を失った少女が十二年後、実の家族と出会うなんてできすぎたシナリオだ。エフィが本物のエイシャであれば喜んで名乗り上げる。が、エフィはエイシャであってエイシャではない。
あの子の魂を戻すまではただの身代わりでしかない。
「両親とはいつ頃分かれたのかは、覚えている?」
「それはつまり、私がそのエイシャだということを言いたいのですか?」
「正直に言えば、俺は違うと思っている。エイシャは魔力過多症で、行方不明になった当時は末期だった。いつ死んでもおかしくない状態だ。姿を消したのは、死に際を他人に見られたくなかったからじゃないかな。それに、あのエイシャが君のように金にうるさい子になるとは、どう転んでもあり得ない」
ルーウィットの言い方は、エイシャ本人を知っている口ぶりだった。
「……ランディ様が言っていたルーウェルさんの幼馴染って、エイシャさんなんですね」
エフィは困ったように眉間にしわを寄せた。まさかルーウィット自身にもエイシャとつながりがあるとは思っていなかった。これでようやく、ルーウィットの書斎にエイシャ一家の写真が置いてある理由が分かった。そしてきっと、ルーウィットも心のどこかで生きていることを願っている。周囲に、幼馴染は死んだのだと告げながらも。
「アークさんは私がエイシャさんであることに望みを託しているんですね」
エフィが尋ねると、ルーウィットは重々しく頷いた。
エフィは複雑な思いでルーウィットを見る。正直に話してしまうのは簡単だ。だが、自分の罪を告白する勇気は、エフィにはまだなかった。
ありもしない罪を責められるのは平気だが、事実を突きつけられるのは胸が痛い。
「そんなに深刻な顔をするな。人はいつか死ぬ。エイシャはただそれがちょっと早かっただけだ。それよりも、時々アークの話し相手になってやってくれ」
「ルーウェルさんは嫌じゃないんですか?」
「俺が嫌がる? なぜ?」
エフィの質問に、ルーウィットは心底不思議そうな顔をした。
「私のこと、嫌いですよね。フラウリカを利用して小銭を稼いでましたから」
「小銭じゃなく、大金だろ。……そうだな、認められるかといわれれば、認められはしないな。かといって、人格をすべて否定するのも違うと思った。アークが君と話して癒されるのなら、受け入れるしかない。金が好きなのは君の個性だろう、とね」
これまでにない優しい目で、ルーウィットはエフィを見る。
じっと見ていられなくて、エフィは視線をそらした。心の奥がざわつくのは、どうしてだろう。
「お金は好きというか、必要なだけで……」
魂の再生法を探るなんて、どう考えても莫大な費用が必要だ。かといって植物操作で無尽蔵に薬草や作物など金になるものを育ててしまえば価格崩壊をおこして大多数の人間を路頭に迷わせる。ひいては経済に影響を与えてしまう。
魂の再生方法を知りたいが、今ある世界の形を変えるのはエフィの願いとは反してしまう。願い花を売って余剰財産を集めることが妥協点だった。
「まあとりあえず、今日はゆっくり休んでおけ」
いたわりを込めた言葉をかけ、ルーウィットは部屋を出ていく。
その背中を見つめるエフィの手には自然と力が入り、いつの間にかシーツを固く握りしめていた。
「ごめんなさい」
小さな声がこぼれる。
いつか、すべてが終わった時、彼に真実を告げられたならいいと思った。