26
王都は話に聞いていた通り、すっぽりと白いドームに覆われていた。
あたりは静寂に包まれており、まるで繭を見ているような錯覚に陥る。
ここに来るまでにルーウィットの姿は見かけなかった。街道ですれ違うこともなかった。この繭の中に入っているのか。
それとも、エフィが女神殺しをしたという教会の話を信じて、見捨てたのか。いや、彼はもともと協会側の人間。エフィを見捨てたというのもおかしな話だ。
エフィは口元にうっすらと笑みを浮かべる。
いったい何を期待していたというのだ。彼の幼馴染を殺してしまったことを司教として許したとしても、心の中ではどう思っているかなど、わかりはしないのだから。
エフィは自分の手を見下ろす。白く美しい手は、汚れてはいない。が、魂は人を殺した罪の色に染まっている。
「さあ、行け!」
背中を軽く押されて、エフィは踏み出した。
エフィは拘束を受けていなかった。ただ左右を強力な魔力を持つ枢機卿に固められているだけだ。いつでもエフィの首をはねられるように、武器を手にかけて。
二人の枢機卿以外、この場にいないのは王都を危険区域だと判断したからだ。その口ではこれが女神の降臨だと言いながら、半分以上は猜疑の目で見ている。
エフィは歩みを止めることなくまっすぐ進み、飲み込まれるようにして繭の中に入った。
眼前に広がる光景に、エフィは息をのむ。続けて入ってきた二人の枢機卿たちは口の中で悲鳴を押し殺した。
「来たんですか……」
てっきり繭の中に追放という形で終了かと思っていたエフィは、呆れたように枢機卿たちを見上げた。
教皇に次ぐ地位の者たちだから、てっきり年がいっている者かと思えば思いのほか若い。二人とも三十代後半から四十前半だ。戦う司祭というものがいるくらいだから、戦う枢機卿もいるのだろう。
魔力の強さを重んじられ、のし上がってきた者たちだ。
そして、有事の際には最も早く切り捨てられる。
「中に調べに入った者たちからの連絡が途絶えているからな。調査のついでだ」
くすんだ茶の目でエフィを見下ろしながら、ウランバルトが言った。顔には真一文字の傷がついており、百戦錬磨の歴を思わせる。
「それにしてもこれはひどい」
灰色の頭のザックがあたりを見回して言葉を吐き捨てる。紫がかった目は不快の色に染まっていた。
王都の中は時間が停止したかのように静かだった。動いているものは一人もいない。風もないのに、あちこちに咲いた花が時おり揺れるだけだ。
「ああ、そうだ」
エフィは思い出したように枢機卿たちの肩に触れた。わずかばかりの魔力を注いでおく。
「今、何を?」
ウランバルトは不審そうな顔をエフィに向ける。彼らとエフィは協力体制にあるわけではない。疑うのは無理もなかった。
「ただの保護です。彼らのようになりたいのであれば、別ですが」
エフィは時間を止めた人々に視線を向けた。
行き交う人々、花を売るもの、店先を掃除しているもの、模型の車をもって走り回る子供たち、微笑みながらベンチに座る老夫婦、見回りの衛兵……。皆、生活したままの状態で動きを止め、胸元から一様に銀色の花を咲かせていた。
人々の魔力を苗床に、レプリカ・フラウリカが咲いている。
異様な光景はおぞましく、そして美しかった。人々はみな、幸せそうな顔をしている。レプリカ・フラウリカが奏でる幸せの夢を見ているのだろう。
「なぜ、このようなことに……」
ウランバルトはうめくようにこぼした。
「キュアリス嬢がばらまいた偽りのフラウリカが暴走しただけでしょう」
「偽りだと?」
「そう、偽り。フラウリカは神の庭にたった一輪しかない。他は全部偽物。ただの複製よ」
エフィは足もとの地面に咲いていたレプリカ・フラウリカを摘んだ。ザアッと音をたてて宙に消えていく。
「レプリカもまた、願いはかなえる。けれどその力は脆弱で、代償が大きい。このあたりに生えているレプリカは、さらに劣化版かしら」
少なくとも、エフィは胸から生え、人の魔力を吸うレプリカ・フラウリカは見たことがない。そして、エフィとは別の誰かがフラウリカの複製を扱えたとしても、理論上はおかしくはない。
「それとも、この大量の花の根本の願いは一つで、民たちは犠牲となったのかしら」
だとすれば、こんなにもひどい光景を生み出すほどの願いとは何だろう。ゆったりとはいえ、人の命を奪い、魔力を奪っていくような願いとは。
「民を犠牲に女神を復活させるとは聞いていないぞ」
根本の願いを知っているのか、ウランバルトは険しい表情を浮かべた。
「では何を犠牲に女神を復活させようとしたの? 女神の信徒以外の命?」
エフィが事実を突きつけると、二人の枢機卿は言葉を詰まらせた。
「あなたたちが崇める女神は、異教徒には厳しいのね」
まるで他人事のようにエフィは言う。
彼らが企てていたのは女神復活のための戦争だったか。膨大な命と魔力で女神をよみがえらせるつもりだったのだろう。そんなものを使って作り上げられた女神が、いったいどのようなものになるかなど想像もつかないが。
「女神の侮辱はやめてもらおう。女神は正しく我らを照らしている」
「女神だって、間違いを起こすでしょうに。現に今は、神の庭にはいらっしゃらないのでしょう?」
「女神を殺した貴様が言うか!」
ザックは腰に佩いた剣に手をかけた。エフィはそれを冷ややかに見つめる。
「やめるんだ、ザック。彼女を裁くのでは人ではなく、女神だ」
ザックを制止し、ウランバルトは冷ややかな目をエフィに向けた。
「エイシャ・ヴィーヴィス。女神が行うことに間違いはない。もし間違いがあるとすれば、人間が女神の意図を読みそこなったというだけ。そして女神のカケラをキュアリス様が持つ以上、我々は従うしかない」
「女神のカケラ?」
「貴様が女神を殺した日、砕けた魂が飛び散ったのだ。キュアリス様は聖女として女神の魂のカケラを受け取った」
誇らしげにザックが言う。こんなにも簡単に内部事情を漏らしてしまうだなんて、本当にこの男が枢機卿の一人なのかとエフィは教会の上層部を疑う。
「どちらにしろ、今王都で何が起きているのかもわからない状態だ。エイシャ・ヴィーヴィス。あなたの命一つで解決するならば、私は間違いなく差し出す」
信念とともに真っすぐに向けられるウランバルトの視線から、エフィは目を外す。そしてそのまま一点を見つめた。色濃い魔力が集中している点を。
時を止めた街中を、エフィは奥に向かって歩き出す。
「おい! 待て!」
ザックはエフィを追う。ウランバルトもあとに続いた。
「もしかして、元凶がどこにあるのかわかっているのか?」
エフィの迷いない足取りを見て、ザックは尋ねる。ウランバルトはいつでも武器が抜き取れるように柄に手を置いて用心深くついてきた。
「まあ、こういうのはたいてい中心部で何かが起きているのかと」
エフィは答える。まだ王都の端の方だ。ここで様子を探っていても仕方ない。
「貴様が大人しく殺されていれば、こんなことにはならなかった」
ザックがぼそりとこぼす。あまりに頭の悪い理論に、エフィは思わず足を止めた。無言で灰色髪のくすんだ紫の目を見る。
「何が言いたい……!」
「確かに私一人の命でこの状況が覆されるのならお安いわね、と思いました」
ならばなぜ、エフィが女神殺しの犯人だと判断した時点で殺しに来なかったのだ。もちろん、大人しく殺されるつもりもないが。
「正直に言おう。教会内でエイシャ・ヴィーヴィスに対する意見が割れている。今すぐにでも殺してその力を女神に返上しろというもの、エイシャ・ヴィーヴィスこそが女神より遣わされし聖女だというもの、それを見極めてこいというのが、教皇のお考えだ」
ウランバルトは何の偽りもない感情で言った。
「生きたいならばこれを何とかしろってことですね」
エフィは嘆息し、中心部を目指した。
かつては魔法陣の上に作られたという王都の中心は、広間になっていた。
中央の噴水からは、今は水が出ていない。その代り、びっしりとレプリカが生えている。銀色に揺れる花は、遠目には水しぶきのようにも見えた。
噴水のすぐそばには、ルーウィットが立っている。傍らには、胸からレプリカを生やしたランディの配下たちが倒れていた。他の市民同様、幸せな顔で夢を見ている。
エフィは監視の枢機卿とともにルーウィットに近づいた。顔を上げたルーウィットはエフィを見て、眉を顰める。
「なぜここにいる。殿下に言伝を頼んだはずだが」
ルーウィットが戻るまで屋敷で大人しくしていろと言われた。だが、ヴィーヴィス夫妻を人質に取られたのだから仕方ない。
普段と様子の変わらないルーウィットに、エフィは安堵する。
「あちらでもいろいろありまして、名誉挽回のチャンスをもらったんで――」
空気を裂く音が聞こえたかと思うと、エフィの鼻先に白刃が付きつけられた。
ルーウィットが感情のない目でエフィを見、剣を向けている。
「ここに来なければ、少しは長く生きられたものを」
「なんで……」
エフィは思わず目を瞠る。
「君が女神を殺したのだと聞いた」
「女神殺しの魔女は、とうとう慈悲深い司教にも見放されたみたいね」
高笑いしながら出てきたのは、キュアリスだった。ただ、エフィの知る彼女とは違った。銀の髪に青い目という、まるで女神の化身のようないでたちで現れる。
キュアリスはルーウィットにしなだれかかった。ルーウィットは拒絶しない。エフィはわずかに眉を歪めた。
「キュアリス様」
エフィの隣にいたウランバルトとザックが最敬礼をとる。
エフィは動けない。動いたら剣が刺さるとかではなく、ルーウィットに刃を向けられていることがショックで。
覚悟していたつもりで、覚悟なんてできていなかった。たぶんエフィはどこかでルーウィットは自分を見捨てないと思っていた。
彼ならば、自分が女神であることに気づくのではないかと思っていた。
だが、そんなものは幻想だった。エフィは真実をルーウィットには次げていない。気づかれなくて当たり前だ。
「あなたのその顔が見れてよかったわ」
きゅっと目を細めて、キュアリスは笑う。
「ほんと、目障りな子。どうしてこんなにも腹立たしいのか、やっとわかったわ。あなたが、私を殺したから。ああ正確にはちょっと違うわね。私の中に舞い降りた女神さまのカケラが言うの。あなたに殺されたのだと。あなたが憎いのだと」
キュアリスが感情を吐き出すたびに、甘ったるいくせに清々しい香りが広がった。切ないほどに覚えているこの香りは、故郷の庭の香りだ。たった一輪しか咲いていないくせに庭中に広がるフラウリカの香り。一度でも扉をくぐれば魂にその香りは染みつく。
どういった経緯があったのか知らないが、キュアリスの魂に砕け散ったエイシャの魂が入り込んだのだ。
その魂が、エフィを憎いといっているのか。
エフィを裁けるのは、女神でも人の法でもなく、エイシャだけ。
「さあ。女神のしもべ、ルーウィット・ルーウェル、その子を殺しておしまい」
たとえ欠片だけでも、エフィの死を望むというのなら受け入れるしかない。エフィは静かに目を閉じた。
エフィに剣を突きつけていたルーウィットが、いったん剣を引く。
ひゅっ、と空気を裂く鋭い音が聞こえて、エフィの左横を何かが通り過ぎた。続いて男のくぐもった呻き声が立て続けに二度、聞こえる。
思わず目を開けたエフィは、地面に横たわるウランバルトとザックを見て絶句する。
キュアリスは顔色を青くし、やがて憤怒で赤く染めた。
「いったい何を!」
エフィを見た時以上に憎悪に染め、キュアリスはルーウィットを睨みつける。
「あなたは! 女神を裏切るというのか!」
「この命を救ってくれた女神を、どうして俺が裏切ると? 俺は今も、女神の忠実なしもべだ。だから俺が崇める女神にとって正しい行動を行うまでだ!」
ルーウィットはそういうと、エフィの腰を抱き上げた。
それを追って、銀色の花をつけた植物が一斉に伸びる。大きくしなり、ルーウィットの襲い掛かった。彼の件はそれを難なく切り落とす。だが、花の数が数だけに、すべてをさばききることはできない。
「現状では不利だ、いったん身を隠すぞ!」
ルーウィットは剣を収納し、空中に魔法陣を描いた。荒れ狂うように風が吹く。噴水の中に咲いていたレプリカが巻き上げられる。
立っていられないほどの暴風に、キュアリスは地面に伏せた。それを守るようにウランバルトとザックが前に立つ。
いったい何が起きたのか。よくわかっていないエフィは落ちないようにと、ルーウィットにしがみつくことで精いっぱいだ。
「ルーウィット・ルーウェル! 女神殺しをかばうなど、反逆罪だぞ!」
「たとえそうであっても。俺は自分が信じる道を突き進みます」
吠えるザックに、ルーウィットは静かに返した。嵐のような突風の中、それは驚くほどよく響いた。
「その偽りの体でどう戦うつもりだ! こちらの手にはお前の本体が――!」
ザックの言葉を聞き終える前に、ルーウィットの術が完成する。爆発的な圧力を残し、二人の姿は、消えた。




