23
翌朝、目覚めるとともにエフィはヘルミーナにアークと一緒に聞いてほしいことがあると告げた。
神妙な顔つきのエフィを見て、ヘルミーナも口元を引き結ぶ。しばしの沈黙ののち、ヘルミーナは表情を緩ませ口を開いた。
「話とは、エイシャ様のことだとルーウィット様からお伺いしています。ですが私もとは?」
「ルーウェルさんから、ヘルミーナ様が奥様だということをお伺いしました」
エイシャは修道服を身に着けたヘルミーナをまっすぐ見つめる。ベールで覆っていて髪の色は分からない。目の色は灰色がかった紫だ。
人は髪の色も目の色も、年を経て変化することがある。どうして気づかなかったのか、年を重ねているとはいえ、かつて見た写真の夫人と同じ顔だ。いや、気づかなかったのではなく、気づきたくなかったのだ。
「あら。あの子、言ってしまったのね」
ヘルミーナはもう、世話係の口調ではなくなっていた。修道ベールを外すと、見事な金髪が零れ落ちた。
「いいわ。あなたがようやく話そうと決意してくれたことを、聞きましょう」
昨日の夜のうちにルーウィットから通達が言っていたのか、ヘルミーナはエフィをアークの書斎へと案内した。
侍女たちが用意していた茶器を受け取り、ヘルミーナの手ずから紅茶を入れる。そしてクッキーを添えた。
エフィが作るものよりもずっと形が整っているクッキーからは香ばしい匂いがしている。ふと懐かしさがこみあげてきて、エフィはいたたまれなくなった。これはエフィの記憶ではない。
エイシャの体が覚えている、彼女のための記憶だ。匂いは記憶を強く揺さぶるから、思わず反応してしまっただけなのだ。
「ルウも立ち会いたいと言っていたのだが、これは私たち親子の問題だからね。席は外してもらうことにした」
書斎机ではなく、応接ソファに腰を掛けていたアークが静かに言う。座るように指示をされ、エフィはアークの向かいに腰を下ろした。ヘルミーナはアークの隣に腰を掛け、彼女が淹れたお茶は侍女が出す。
エフィは息を吸い、彼らの娘が亡くなって――いや、エフィが殺してしまったことを告げようとした。が、アークはそれを制する。
「まず、秘密裏に打診があった王太子との婚約は、正式に断りを入れた。そろそろ受理されていることだろう」
エフィがランディに告げたのは昨日の夕方ということを思えば、受理されるのが早い気もするが、キュアリス派からすれば吉報のなので早く通ったのかもしれない。
「同時に、教皇から、君を特級聖女に任命するという話もあった。こちらの返事は保留にしている。エフィの意思を尊重しようと思ってね」
「許されるのならば、お受けしたいと思います」
エフィはもう聖女としての資格を失っているが、エイシャの魂は清らかなままだ。できることならば、歴史に名を刻んでおきたい。
「許される、とはどういうことかね?」
アークは穏やかな表情で尋ねる。
「あなた方が、私がエイシャを名乗ることを赦してくれるならば」
エフィの声は、震えていた。
一番罪を暴かれたくはないものの前で、エフィは罪を告白する。
「ですが私はかつて、人を殺めております」
「取り寄せた君に関する情報の中には、殺人などという物騒な文字はないがね」
「記録がとられるよりも前です。教会に保護される前。神の庭にて」
「それはまた――。証明のしにくい状況だな。だが虚偽審査魔法で神の庭にいたのは真実だと出ていたな」
アークは呆れたように天を仰いだ。
「だが女神は君を罰しはしなかったのだろう? いや、それとも記憶をなくしたこと自体が罰だったのか?」
視線をエフィにおろし、アークは聞いた。エフィは首を静かに左右に振った。
「記憶はなくしておりません。都合がよかったため、なくしたふりをしておりました。今でも覚えています。あの子を殺してしまった時のことを。そして私は償わなければなりません」
エフィは深く頭を下げた。
「あなた方の大切なエイシャを殺したのは私なんです」
静まり返った部屋に、ヘルミーナの息をのむ音がやけに大きく響いた。
「…………顔を上げなさい」
アークの声が静かに告げた。エフィは恐る恐る顔を上げる。アークの顔は青ざめていた。ヘルミーナの顔はもっと血の気を失い、それでも気丈に意識を保っていた。
「エイシャは誰かに殺されたわけではない。それが運命だったのだ。エイシャが末期の魔力過多症だったのは私たちも承知している。七歳を迎えられないだろうことも覚悟していた。ある日、エイシャは忽然と姿を消した。私たちは思ったのだ。たとえ死んだとしても、あの子は生きているのだと私たちに希望を与えるために、別れの言葉も言わずに姿を消したのだと」
「違います。彼女は最期まで生き抜くことをあきらめなかった。別れの言葉を言わなかったのは、再び会うつもりがあったからです。私が彼女の願いの解釈を間違いさえしなければ、今もここにいたはずなんです!」
エフィは勢いよく立ち上がり、アークとヘルミーナに訴えかけていた。
深く息をついたヘルミーナは、紅茶を一口飲んだ。そしてエフィに優しい微笑を向ける。
「私たちはね、実はエフィがエイシャじゃないかと思っていたの。忽然と姿を消し、必死で行方を追っていた矢先、記憶をなくしているというあなたの存在を知ったわ。若いころの私にそっくり。でもどうやって魔力過多症を治したのかしら? 元気になったのにどうして還ってこないのかしら? でももし、あなたがエイシャじゃなかったらと思うと、怖くて確かめられなかった。でも娘にしか思えなくて、こっそりあなたに会っていたわ。あなたをお世話していた、よぼよぼの修道女は、覚えている?」
エフィは目を瞬かせた。覚えているも何も、雰囲気がヘルミーナに似ていると思った。同時に、年齢が違いすぎるとも思った。
「あれは私。変化の魔法をかけて、あなたに会いに行っていたの。あなたがエイシャかどうか、判断はできなかった。だって、あの子はいつも病気で苦しんでいて、笑顔なんて見ることができなかったから。でもね。あなたに会っているうちにだんだんエイシャとの思い出が笑顔に変わっていったの。そう、つらい中でもあの子、ちゃんと笑顔を浮かべていたんだって」
ヘルミーナはエフィにそっくりの笑顔を浮かべた。
「あなたのおかげね。そしてエイシャは一人さみしく死んでいったわけではないのね? あなたがエイシャの最期を看取ってくれたのでしょう?」
ああそうだ。エフィの記憶に残るエイシャは、笑顔だった。
――ありがとう女神さま。やっと痛くなくなった。やっと楽になった。
魂が砕ける瞬間、彼女が間違いなくそう言った。
「私は、エイシャには死んでほしくなかった」
エフィはポツリとこぼす。
失敗したのに、それでもエフィを受け入れてくれた彼女をどうしても生かしたかった。
「そう思ってもらえて、エイシャは幸せよ」
「だから、エイシャを生き返らせようとして、でも魂までは無理で。いっそのこと、何もしない方が誰も傷つかなかったのかと……」
「いいえ。あなたがこうして行動を起こしてくれたから、私たちはエイシャとの思い出を辛いものだけで終わらせなかった」
「君は確かに、私たちのもう一人の娘だよ」
アークは立ち上がると、エフィのそばまで来て抱きしめた。温かな感触に、涙が出そうになる。だが泣いてはいけない気がして、エフィは唇をかみしめてこらえた。
「私は、エイシャがこの世界に生きていたという証を残したいんです」
だから聖女としての地位を高めたいことをアークに告げる。
「だとしたら、これからはエイシャを名乗らないとね」
ヘルミーナが囁くように言った。それは、エフィが受け入れられたととっていいのだろうか。困惑の表情を浮かべるエフィに、ヘルミーナはふふ、と微笑む。
「そうね、これを食べてみて」
ヘルミーナがエフィの口元にクッキーを持ってきた。エフィはされるがままにクッキーを頬張る。
それはエフィが作るものと同じ味だった。エイシャの体がこの味を覚えていて、試行錯誤で行きついたのだ。エフィの中には確かにエイシャが生きている。
目じりからひとしずくの涙が零れ落ちた。




