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口づけされた頬に熱を感じながら、エフィはアークの館へ帰ろうとした。
隣といっても距離はかなりある。歩けば十五分ほどか。家まで送ると言ったのは、ルーウィットだった。
「歩きたい気分なんですが」
車を出すと言ったルーウィットの気遣いを丁重に断る。火照った顔を冷やさなくては、屋敷の者たちに顔を見せられない。生粋の貴族ではないエフィにとって、十五分は完全に徒歩圏だ。
「その格好で?」
言われて、エフィは自分を見下ろす。ドレス姿のままだった。確かにヒールの高い靴では歩きにくい。かといって、靴だけを変えてしまうと裾の長いドレスを引きずってしまう。
「着替えてきますね」
肌の露出が多いドレスに恥ずかしさを覚えながらも、エフィは着替えが置いてある部屋に向かう。
ルーウィットは、エフィのドレス姿を見ても何一つ感想を言わなかった。それがなんだか、今は安心した。
エフィは侍女人形に手伝ってもらいながらドレスからワンピースに着替える。過度に盛っていた髪型も元に戻す。整髪料で固めていた髪は、がちがちだった。ブラシで梳いて、何とか落ち着かせる。
部屋を出ると、ルーウィットが待っていた。彼もラフな格好になっている。
「裏から行こう」
そう言って、ルーウィットは手を差し出した。
今まで彼がエスコートを申し出たことはないルーウィットの手と顔を見比べていると、せかすように彼は言った。
「殿下たちは今、大広間でやけ酒をあおっている。原因はもちろんわかるよな? 表から堂々と帰るわけにはいかないだろう」
なるほど、とエフィは納得した。確かに降った張本人がランディに会うのは気まずい。
エフィはおずおずと左手をルーウィットの右手に乗せる。来たほうとは真逆に進むと、ひっそりとした会談があった。本当に裏口から出るようだ。
裏口から出るとともに夜風が頬を撫でた。思ったよりも冷たい。日中はまだまだ暑いので、半そでを着ていたエフィは腕をさすった。ふわりとショールがかけられる。
「意外と気が利くんですね」
エフィの口から思わず本音がこぼれた。意外と、というのは失礼だったかもしれない。
エフィを見下ろしているルーウィットの唇の端がほんのわずかだが持ち上がった。予想外の反応に、エフィは目を瞬かせる。
「これでも周囲をよく見ている方だと思っているが」
「ときどき、司教様だということを忘れそうになります」
ルーウィットが神の教えを解いているところなど見たことがない。ランディ曰く、盲目な女神の信者らしいが、そこまで信奉しているようには正直見えない。
「俺の場合は特殊だからな。エフィにはかなわないが」
苦笑いしながら、ルーウィットは歩きだした。裏門扉までは、綺麗に敷き詰められたレンガ道が続く。左右にはバラ園が広がり、見上げた空には星が冴え冴えと輝いていた。
「私が特殊ですか?」
「特殊だろう? 神の庭に渡ったことがあり、フラウリカを咲かせ、世界の常識を塗り替えるほどの理論をいくつも見出した。特級聖女と認められるもの近いだろう」
確かに、功績だけを見れば華々しい。たとえ過去に罪を犯していたとしても、教会は手放したくはないだろう。
「王太子の婚約者を放棄すると申し出があったから、すぐにでも特級聖女の座を認められるだろう。正直に言えば、教会トップはエフィが王家に取られるのが嫌で、二級聖女のままで保留にしていた」
キュリアス程度の聖女であれば、教会と王家、そして貴族たちのバランスも保てた。だがエフィの存在は大きすぎるのだとルーウィットは言った。
「だから大人しくしていたんですよ。自分が規格外なことは知っているんです。そうじゃないと、あの子を生き返らせることなんてできません」
「規格外……か。エフィ、君は何者なんだ?」
足を止め、触れていた手を離し、向かい合ってルーウィットは聞いた。
ルーウィットが尋ねてきたことに、エフィは驚きはしなかった。この数日、やりすぎた自覚があるから、いつかは悟られると思っていた。
「哀れな一人ぼっちの花のしもべですよ」
エフィは小さく物悲しい笑みを浮かべた。
人間はどうも勘違いをしているが、フラウリカは女神フィーリルフィアの化身ではない。夢を見る花フラウリカがその魔力を凝らせて作り上げたのがフィーリルフィアだ。
エフィでは、フラウリカの本来の力を半分も引き出せない。かけた魂を復元することも、時間を巻き戻すこともできない。
「神の庭を飛び出してきたのは私の意思ですが、やるべきことを終えれば私はまたあの場所に舞い戻るでしょう」
ルーウィットの青い目を見つめながら言う。エフィは、フィーリルフィアの姿は知らない。神の庭には自らを映すものが何もないから。ただ、ルーウィットを見ていると、漠然とこんな色合いだったのではないかという気がしてくる。
十二年。神である身には短いが、人である身、特に幼い身には長すぎた。だんだん、自分が人なのか、本当に女神だったのかが曖昧になる。
特に、ルーウィットに会ってからはそれが強い。揺さぶられているのはエフィ自身なのか、それとも彼の幼馴染だというエイシャなのか。
もう潮時なのだろう。今回の件が終わればエフィは神の庭に還るつもりだ。だから今まで避けていたことに首を突っ込んでいる。
「やるべきこととは、以前言っていた、死んだ人間をよみがえらせること?」
エフィを包むベールを一つ一つ剥いで行くように、ルーウィットは聞く。静謐に包まれたかのような声は、耳に心地よかった。
「わかっているのです。それが無理だということは。最初に教会に送った理論が通らなかった時点で、私は退くべきでした。」
これは懺悔だ。奇しくもエフィの話を聞いているのは司教。エフィの罪を赦してもらえるだろうか。
「十二年前、私は一人の少女を殺しました。神の庭への扉を自分の意志で開けた、稀にみる才能にあふれる子でした。彼女は病に侵されていた。私は助けたかった。けれど私は、肉体というものの重要性を知りませんでした。彼女をできるだけ早く苦しみから解放しようとするあまり、肉体を壊してしまったのです。その余波で魂は砕け散りました。肉体の再生は簡単です。ですが魂の再生は困難を極めます。私ができたのは、本のひとかけらの魂をそっと抱え込むことだけでした。そして彼女の魂を復活させるために、私は神の庭の扉をくぐった」
エフィからは、涙は出てこなかった。心は凪いでおり、どこまでも澄み切っていた。
ルーウィットもまた、静かにエフィを見下ろしていた。
「その少女の名前は?」
震えてもおかしくはないはずの彼の声も、ひどく落ち着いていた。もしかすると、彼はとっくに気づいていたのかもしれない。だからあえて、エフィの引き取り先に彼らを選んだ。
「エイシャ・ヴィーヴィス。この体の本来の持ち主です」
一瞬だけ、ルーウィットの目が揺れる。予想できたとはいえ、言葉にされるとその衝撃は思って以上に大きい。
それでもルーウィットは職務を全うした。
「神はあなたを赦したもう」
フィーリルフィアは裁きの神ではない。エフィを裁けるのは、死んでしまったエイシャだけ。それでもエフィは、誰かに許されたかった。
「ありがとうございます」
エフィは深々と頭を下げた。その後頭部に、ルーウィットの声が降ってくる。
「明日、アークとヘルミーナに説明しよう」
エフィはガバリと頭を上げた。血の気の引いたエフィの顔を見て、ルーウィットは険しい顔つきになる。
「彼らはいまだ、娘が生きていると信じている。結果はどうあれ、真実を知る権利がある」
「わかりましたけど……でもヘルミーナさん?」
「気づいてなかったのか? ヘルミーナはアークの奥方、つまりエイシャの母だ」
やけにエフィに対して親しげだとは思っていたが、まさか彼女が母親だったとは。ますます気が重くなる。
「俺も付き合ってやるから安心しろ」
エフィの震える手を温めるように、ルーウィットの手が包み込んだ。
エフィよりも、ルーウィットの手の方が冷たかった。




