拓跋帛伝 1回
節度使。地方官僚として最大の権力を握る官職の名である。地方行政の最大単位、州を一つないし複数を束ね、行政軍事ともに最高責任者として君臨するものである。権力が大きいがゆえに、任命されるものは能力実績人間性全てにおいて高い水準が要求される。少なくとも、昌王朝が建国されたときは、そうであった。
しかしその強大な権力に目が眩んだ者たちは、金の力によってその地位を得んとした。重税をしき、特定の商人を優遇することで賄賂を得て、その金を今度は自らが賄賂として中央の高官に取り入り、節度使の地位を得る。そしてその権力を以ってさらなる重税を敷き、私服を肥やすものが後を立たない。昌国東部にあるここ章栄州を根拠地として近隣三州を治める拓跋望も、そんな腐敗節度使の一人であった。
「困った、困った」
落ち着き無く執務室を往復する拓跋望を、副政務官である主簿、王浜は所在なさげに見つめていた。
「なんとか賊を追い払いませんと、そろそろ中央からの監察が参りますぞ」
遠慮がちに進言する王浜に、拓跋望は苛立ちを隠そうともせず怒鳴り返す。
「だからせがれを討伐に向かわせておるだろうが!」
軍権を持つとはいえ、商人の家に生まれた拓跋望は自ら軍を率いる自信は無かった、いや、そもそもそのような考えすらなかった。だがまったくの他人を任命することは、手柄を立てさせることに繋がるため癪である。そこで多少なりとも軍学書を読んでいた次男の拓跋帛を賊軍討伐の大将に選んでいた。
「帛よ、無事に帰ってきておくれ」
そうでなくては監察官のために多額の賄賂を贈らねばならぬ、とは、さすがに声には出さなかった。
章栄州の隣州であり、拓跋望の支配下である洪州の、とある城(城とはつまり街のことでもある)に賊が現れたと聞いた拓跋帛は、急ぎ配下の兵1万を率いて救援に向かった。しかし兵の足取りは重く、予定の速度が出ていない。気持ちばかり焦る拓跋帛は、副官に問いかける。
「何故こうも足が遅いんだ、この兵たちは。これでは賊にまんまと逃げられてしまうではないか」
「まあ、そうですな、兵たちは逃げて欲しいのですよ、賊に」
投げやりにも聞こえる口調の副官。それを聞いた拓跋帛は悔しそうに手綱を握り締めた。
「臆病もの達め…そんなことではそのうち章栄州にも攻めてくるかもしれないというのに!」
「気風ですかなあ。穏やかといえば聞こえがいいですが、昔から章栄州の兵は弱腰だと言われておりましてなあ」
副官の言葉に、項垂れてしまう拓跋帛。確かにその噂は聞いたことがあったが、自らが率いてみると噂以上の臆病ぶりと言うしかなかった。
予定から大幅に遅れて、ようやっと目的地が見えてくる。運の悪いことに、いや、運のよいことに、賊たちは略奪を終えてちょうど根城の開風山へ戻ろうとしているところだった。遠目にそれを見定めた拓跋帛は、俄然気力を取り戻して下知を下す。
「弓兵、射て! 歩兵隊は突撃せよ! 逃がしてはならんぞ!」
突撃の鐘が鳴らされ、槍を携えて前衛が突進する。また、左翼に配置されていた弓兵が部隊長の支持にあわせて弓を射る。これに対し、盗賊たちははじめこそ突然の敵襲にあわてる様子を見せたが、荷車を盾に降りかかる矢をしのぐと、突撃してきた歩兵に対し猛烈に反撃を始めた。もともと士気の低かった拓跋軍は、この反撃に恐れをなしてしまい、壊走を始めてしまった。
「ま、待て、逃げるな! 戦え! 逃げるな!」
声を嗄らして鼓舞する拓跋帛だが、一度崩れた部隊を立て直すのはただでさえ難しいというのに、経験の浅い指揮官に最初から逃げ腰の兵とあっては、そのまま撤退するより他に無かった。
居城に戻った拓跋帛は、父拓跋望から酷い叱責を受け、気分転換に街の酒場へとやってきていた。
酒を呷って嫌な事を忘れようとするが、酔いが回るほどにかえって理不尽さが増してしまう。
「聞いたかよ、うちの兵士、賊軍相手に尻尾巻いて逃げ出したってさ」
「おう、節度使さまの次男坊が勇んで出かけていった結果だろう?笑っちまうよな」
そして、そんな気分の悪さを助長するように、口さがない町人は、早速軍の醜聞を肴にしはじめた。
「どうせ聞きかじりの兵法で出かけていったんだろ?」
「戦う前に一人逃げ出したっていうぜ」
噂は尾ひれ背びれをつけ、謂れの無い辱めをうけてしまう拓跋帛。
(政庁にいれば父に怒鳴られ、街に出れば町人の陰口を聞いてしまう。ああ、なんとついてない)
このような状況では酔いも醒めてしまう。もう帰ろうかと拓跋帛が思いはじめたところ。
「わっしなら、ここの兵でも勝たせてやれるぜ」
ぐでんぐでんに酔っ払った無精ひげの男が、壁にもたれながら高らかに声を上げる。他の客が口々にいくらなんでも無理だろうと笑う。しかし拓跋帛は酒の力もあってこの男への怒りを抑えることが出来なかった。
「ふざけるな! お前のような酔っ払いになにが出来る!」
げえっ、次男坊だ、と拓跋帛がいることにやっと気付いた客たちは知らんふりを決め込んだ。しかし無精ひげの酔っ払いはけらけらと笑うのみ。
「わっしが倒すんじゃねえ、兵士が倒すんだ。そうだろう坊ちゃん」
「それが口先だけで無いと証明できるか!」
激昂して机をどん、と叩く拓跋帛。空のとっくりがひっくり返った。
「ここの支払いをしてくれるなら、証明してやるよ」
飲む手を休めず、大言する酔っ払い。頭に血が上ったままの拓跋帛は売り言葉に買い言葉。
「おう、持ってやる。だからその方法とやらを教えてもらおうか!」
「じゃあ、明日…いや、三日後にここにきな。そのとき教えてやるよ」
「三日だと!? 逃げるつもりではないだろうな!」
「酒に誓って逃げやしないよ、坊ちゃん」
そう言った酔っ払いは、どっこいしょと立ち上がりふらふらと店を出て行こうとする。
「待て! 名前を名乗っていけ!」
「人はわっしを酔狂って呼ぶぜ。それじゃあ、三日後に」