#4 Apple and Cinnamon (fin.)
重厚な木製の扉が変わった拍子で叩かれた。執務室で妻と談笑していた初老の外務大臣は、自ら立ってそれを開け、若年の部下を招き入れる。
この国の王族の出身である妻は、応接セットに腰掛けたまま、夫が部下から仕事の報告を受ける間もそれを気にも留めぬ素振りで、紅茶のカップを傾け自ら持参した焼き菓子をつまんでいた。部下も慣れたもので定例報告をつつがなく済ませる。──そしてふと。
「そういえば公爵。
協力者の中に俺と同じぐらいの年の茶色の髪の奴いるじゃないですか、赤毛の豪快な、凄い美人が時々同行してる。……あの人だけ素性わからなかったんですけどいったい何者なんですか?」
大臣はふう、と息を吐いて腰の後ろで両手を組んだ。
「君もまだまだ、修行が足りんな」
──ヒントはこの城下のいたるところに残されているというのに。
首をひねりひねり部下が退出すると、妻は結い上げた白髪を揺らし、ことりとカップをソーサーに置いた。
「元気そうで何よりだわ。けれど妬けてしまうわね、凄い美人ですって。わたくしはもうこんなおばあちゃんになってしまったというのに」
大臣は一人掛けのソファを回り込んで妻の額にキスを落とす。
「何、私にとってはいつまでもあなたが世界一の美女ですがね」
「あら、嬉しいこと」
机に置いた、妖精の力を活用した最新の連絡機がけたたましくベルを鳴らし、大臣は眉をひそめて歩み寄った。
受話器を取る。また別の部下からの来訪の予告だった。妻は婦人用の、ビーズで飾られた華奢な物入れを手に立ち上がった。
「わたくしはもう参りますわ。彼女をあまり待たせてもいけませんものね」
「ああ、よろしく伝えてくれ」
「まあ、愛人へ妻をけしかけなさるの? いけないひと」
表向き仲良くけんかをしている彼の妻と贔屓の高級娼婦は、その実、この国の外交を裏で担う貴重な戦力だった。
もうずっと国が戦火にさらされることはない。
若き折に訪れた、あの危機を乗り越えた彼には、それが何よりの報酬だ。
──そろそろまた、いい酒を用意して待っているか。
自分の年齢を考えるともう、そうそう何度も機会があるでもないだろう。
若い部下を翻弄する、いつまでも姿を変えなくなった盟友を思い出し、彼は目尻に皺を刻ませた。
波打ち際に張ったハンモックの上、楽なドレスを纏って、豊かな赤毛の魔女が紙に目を通している。
細やかな文字の綴られたそれは、遠方から届けられた手紙のようだった。
「カーミレ」
茶色の髪の青年が、軽食と飲み物を携えて傍らに立ち、声を掛けた。
「ヘザーから、何だって?」
にやりと笑って魔女は手紙を見せる。とある箇所を指で示して。
確かめた青年は目を丸くして、それから心底ほっとしたように大きく息を吐いた。
「やっとか」
大人になったって、いつも正しい道を選べるわけじゃない。──だが。
「アルヴィンもあんたの流儀を真似るのは、大概にしろって思ったんだがねえ」
肩をすくめて魔女は笑う。
「ま、刷り込みみたいなもんかも知れないね。アルヴィンにとってあんたは巣から落ちて初めて目にした親鳥なんだろうし」
仕方ない。彼女の相棒も苦笑した。
「でも、二人で手を取り合えたってことは、きっと、もう」
二人の故郷は、今や大きくその姿を変えている。
近しい者すべてに別れを告げる時間を、神は与えてくれた。
そして流派を同じくする魔女に相まみえ、数年にわたる修行の後、正式に名前と格を授かった。
カーミレとは、彼が好んだあの薬草茶の、他の国での呼び名である。
海を越えたのも、その師匠筋の依頼だ。
赤い髪の王女の伝説には、新たに一節が加わって、今でも面変わりした故国に残されているという。
当人はそれについて一つだけ文句があった。──始まりの姫君から数百年を経て再び現れた彼女は、物語の中、世にも清らかな姫君として扱われていたのだ。
これだけ掛け離れた形容も珍しかろうとぼやいたのだが、彼女の相棒はそれを聞いてなんとも言えない顔をした。
「え? あ──、そういう意味じゃないわよ。やだ、もう」
もしかして自分で言っていた通り、魔の者の関心を避けることを見越しての行動だったのだろうか。
そう問うと、憮然とした様子になった。
「いや、そんな余裕なかったな」
それがおかしくて、きゃらきゃらと笑った。
──Apple and Cinnamon 了




