#4 Apple and Cinnamon (vii)
礼拝堂の外からわずかに入り込む灯火に照らされて、ふくれあがった影は翼と角を備えているように見えた。
影は老人と同じ声で笑う。
「供の青年といい、得がたき勘働きじゃの」
「やっぱり、会ったのね」
「あやつめ、この儂に取引など持ちかけてきおったわ」
神は愉快そうであった。
「己に価値があると思い上がる、小童にはよくあることじゃの」
「マルクスはあなたに何を頼んだの?」
彼は、二度と自分に逢うことなく、おそらくは死ぬつもりだ。共に過ごしている間も一瞬たりともそんな素振りは見せなかったが、何も言わず、痕跡も残さずに去って行ったことでローラには判る。
そして推測が正しければそれは、この王家に伝わる秘儀と強く関わっている。
「“邪神”は奴らに押さえられたのでしょう。だったら、ここにいるあなたは、力を奪われた抜け殻?
教えて、マルクスは“箱を開けて”何を起こすつもりなの」
くく、と喉を鳴らすような音で神は笑った。
「そうすればあなたは力を取り戻すことができるの?」
「さあてのう」
はぐらかす様子に、ローラは確信を強める。
「……命を落とした王の話を考えてみたのよ。もし誰かが箱を開けるだけであなたが力を取り戻せるなら、あなたは最初から陛下や兄様のところに姿を現していたでしょう。
教えて。あたしに何ができるの」
にたり、と闇の中に開いた口が赤いことが不思議と判った。
「聞けばそなたは、二度と元の生活には戻れぬぞ」
「そんなのとうに、二年も前に覚悟したことよ」
「母にもきょうだいにも会うことかなわぬやもしれぬ。後々、見落としていた大事なことに気づくというもよくある話じゃ」
「──大事なこと、ですって?」
声を張り上げるでもなく、その言葉は腹の底から出てきた。
ローラを構成するすべてのものの中心、一番大事な部分から。
「彼のいない生活に意味があるというなら、教えていただきたいぐらいだわ」
「余程、儂に約定を違えさせたいと見える」
影は呵々と笑った。
「よかろう。そもそも資格のなき者があれを開けても、古の約定を覆すこと能わぬ」
赤い髪の王女との契約のことか。
「かの約定により、儂はこの国土に及ぼす影響を減じられておる。ゆえにお主らの前にあのような無様を晒す羽目になりよった」
さほど悔しそうにでもなく、神は振り返る。水晶のかけらのようなものを集めていた時のことを言っているのだろう。
「無論このままでは、盗まれた儂の力を用いて操らるる配下の者共を解放せしめることも不可能じゃ。
しかして、新たな契約が過去のそれを上回れば、また話は違って来よう」
翼の手前に持ち上げられた、胴体に似つかわしくなく細い腕がぴたりとローラに向けられた。
「あたしに、契約をする力があるってこと? 赤い髪じゃないのに」
「左様。──契約によって、初めの王女の髪は赤と変じた。元はお主と同じ、亜麻色の髪の豊かな乙女であったな。
すなわち、契約者は元来赤き髪でなくともよい。
高位の魔と契約し、使い魔を従えることを許されし者、それはこう呼ばれる。
──魔女」
……母なる魔女の血。父なる王家の血。神は長い指を折って数え上げた。
「そしてお主自身の資質。より力のある契約を交わすにはうってつけじゃ。あとは、補佐する使い魔が入り用じゃの」
「……人外に知り合いなんていないわよ、あなた以外に」
「いなければ、変じさせてしまえばよい」
「……犬猫、とか……?」
にたり、と再び赤色が闇の中に弧を描いた。
「資格には様々なものがあるがの。異能、容量、血筋、──知識、因縁。
儂と渡り合い、取引をした。その胆力、我が新たなる契約者の眷属とするに相応しい」
「──待って!!」
ローラは制しようとした。神が宙で腕を動かすと、ぼんやりとした光が傍らに集まり、人の形を取る。
旅装のマルクスだ。少しその輪郭は闇に溶けており、また、わずかに映る周囲の様子から、ここではないどこか暗く狭い場所にいるようだった。
「あたしは、彼にまで人の世界から遠ざかってほしくない!」
「ふむ、ではお主との契約が成されるかは運次第となろうかの。
もしくはこのまま手をこまねいて、みすみす、惚れた男に命を落とさせるか?」
──ああ、これが魔物だ。
足元の床が崩れ、見える世界が暗く狭くなっていくような気すらした。
輪郭のぼんやりとしたマルクスがこちらを見た。視線が絡み合ったのがなんとなくわかる。ローラは喘いだ。
「あたし、守られるだけじゃないって、言ったのに──」
「──その通りだ」
声はその見た目に反し、力強く響いてきた。
「二人で、成し遂げるんだ。俺が何のために強くなろうとしたのか、君は知っているだろう?」
こちらの会話が聞こえていたのだろうか。……片耳に、老人に渡したはずの金の耳飾りが光っているのを見つけた。こんな時なのに。
「とうに決めた覚悟? 自分だけ残されていても意味がない?
その言葉、そっくりお返ししようか」
青年の様子は、いっそ晴れやかだった。
「今こそ伝えよう、ローラ。
俺は君を愛している、血筋や外見、関係性、そういうことでなしに──
君の魂、ありようにどうしようもなく惹きつけられたんだ。もう、ずっと前から」
泣き出す時のように、目の奥がきゅっと痛んだ。
こんな感覚、いつぶりだろう。
「だから、もし、もし君が俺の感じている何分の一、何十分の一でも。
同じ気持ちでいてくれるなら」
いつもあんなに回っている自分の口はどこにいったのだろうか。
ローラはうなずくことしかできなかった。
けれど、その瞬間、マルクスがほっとしたように、こみ上げるものを抑えきれないように、全身に喜色を浮かべたのがはっきりと判った。
──黄金色の光が、自分とマルクスを包んでいく。神の与えた力だ。
彼の好きなカモミールティーの色に似たそれが、自分たちを静かに書き換えていった。
そしてそれにより人知れず、王国は異形の軍勢から永久に解き放たれた。