#4 Apple and Cinnamon (vi)
諸々の手配を終えたあと、長椅子に身を沈ませるマルクスに、ローラは冷えた果汁で満たした杯を差し出した。
そのまま何も言わずにいると、受け取ったマルクスがじろりと見上げて一言。
「何が『大丈夫』ですか」
侍女たちから話を聞いたのだろう。──さすがに決まりが悪かったが、ローラはそっぽを向いてうそぶいた。
「大丈夫にしてくれたじゃない、あなたが」
「──……」
マルクスは杯を一息に干すと、それを傍らの小卓にがつんと置き、脱力して背もたれに身を沈ませ、両手で自分の頭を乱暴にかき回した。
一応悪かったとの自覚のもとでの一言だったのだが。
しばらくして小さなうめき声が漏れてくる。
「どんな殺し文句ですか。まあ、……本望ですけど。
私が何のために力を付けたと思ってるんだか」
──自分のそれこそたいした殺し文句だと、気づいているのだろうか。二の句が継げずにいるとまだぼそぼそとした声が続けられる。
「元夫君予定に乱暴を働く羽目になるとは思ってませんでしたけどね、さすがに」
「……まったくだわ」
ローラは自分もどすんと横に腰を下ろし、視線を合わせぬまま訊いてみた。
「あたしが主君の姫だから守ってくれてるわけじゃ、なかったのよね」
「聞かないと判らないんですか?」
声はいっそ呆れた調子だった。
「……わかっていても、聞きたいの」
ふ、と溜息のように苦笑を漏らした気配がした。──そのままマルクスが何か言うのを待たずに、ローラは口を開いた。
「でもあたし、守られるだけでいるほどか弱い姫君じゃなくってよ」
「知ってます」
あなたは強い。その言葉は、やはり密やかな吐息のようにローラの耳に届けられた。
もうかの国の一行の目をはばかる必要もない。今日ばかりはと貴族連中の存在も無視し、ローラは日が落ちた城の中を久方ぶりにたった一人で闊歩していた。
洗濯室や厨房を冷やかして、城に来た頃から自分をかわいがってくれた鉄腕の女傑たちと軽口をたたき合う。
厩舎の干し草に飛び込んだりもしてみたかったが、今は戦時だ、邪魔してはいけないと我慢する。
塔の一つの螺旋階段を駆け上がって、鼻歌を楽しみながら踊り場をくるくると回りバルコニーへとまろび出た。
目に飛び込んだ光景に驚きでメロディーが止まる。
そこにいる毛皮のマントを纏ったままの先客は、王冠こそないが、父王その人だった。
非常時に一国の王が供も付けず何をやっているのだこんなところで。ローラはつい、自分を棚に上げてしまった。
先方も相当驚いた様子だ。ローラより少しだけ高さのある視線からじろじろと眺め回されているような気がする。
「あー……、その、なんだな」
目を伏せて礼を取ることも忘れていたら、先に立ち直ったのは父王のほうだった。
「怪我はないか」
「あ、ええ」
一瞬何でそんなことを聞かれたのだろう、と訝ってしまったが、そういえば自分は昼間大立ち回りを演じていたのであった。
「軽率に振る舞ってごめんなさい、傷物にでもなったら再利用できませんものね」
一応姫君である己の身分を思い返してそう応えたら、父は明らかに渋い顔をした。
「親の心配は素直に受け取らぬか。
──と言っても無理か、余の所業では」
……所業?
きょとんとしたローラにお構いなしに、父は独白のような言葉を連ねる。
「だがこの期に及んで、ヴァルド王子との縁組みを維持し、戦後処理に使おうなどと言い出す輩もおるまい。近いうちに元の生活に戻れよう」
「……えっと」
昔の生活に戻れるなど、考えたこともなかった。
「それは、お役御免ってこと?」
苦笑が漏れる。
「いいの? 他の誰かに嫁がせるための駒に取っとかなくて」
皮肉な物言いを少し悔やみはしたが、口から飛び出してしまったものをなかったことにもできない。
「それとも、その時にはまた呼び戻されるのかしら」
「いや、もしそのようなことがあっても、その時はその時で他の手立てを講じよう。
無論そなたがきょうだい達に会いたくなれば、いつでも訪ねてくるがよい」
王も苦笑した。父が感情をローラに向かって見せた姿など、初めてではないだろうか。──そして。
「また母の菓子でも持ってきてやれば、あやつらも喜ぶことだろう」
父が、城内での自分の振る舞いを把握していたらしきことに、何よりも驚いた。
「父上、ええと」
「何だ」
「あたしには関心をお持ちでないものとばかり、思っていましたわ。その、」
うろたえる自分が情けなかったが、こればかりは仕方がないと心の中で言い訳をする。
父王は今度は、にやりと表現するしかない笑いを浮かべた。
「城の中で起こっていること、交わされた会話は皆把握しておるぞ」
「あらやだ」
父に出歯亀趣味があると思ったわけではないが、そうと知らず勝手なこともだいぶ言い放ってしまっていたのではないだろうか。
その内心を読んだようなことを父は言う。
「案ずるでない、そこまで気にするほどのものでもなかったぞ」
「そんなにいろいろご存じなら、教えてくだすってもよかったのに」
恨みがましく見上げると、あからさまに視線をそらされた。
「そうせぬ方がよいと思ったのだ」
いたずらっ子が悪さを見つかった時のような表情だ。
「すぐに嫁いじゃうあたしに、里心がつくから?」
「いや。ひとえに余の側の問題であるな、これは」
王は肩をすくめ、視線をローラの面に戻した。
「よく似ている」
……呆れた。
「若い日のことを思い出しちゃう?」
「長くは許されぬからこそ鮮やかな、束の間の自由であったな」
──陛下が惚れ込んだとしたら、むしろ。
マルクスの言葉を思い出す。あの時彼が何を言いたかったのかは判らなかったが、今なら少し察せられることもある。
そして、いつも田舎の話を面白がって聞いてくれた弟妹たち。
「今納得したわ。本当にあたしたちの父親なんですのね」
「付け加えれば、母親達や周囲に付ける人間を選んだのも余であるぞ」
「ほんとだわ」
ふふっとローラは吹き出した。──そう、マルクスを自分に付けたのも。
父も力が抜けたような笑いでそれに付き合ってくれた。そして、──だが、と続ける。
「そなたはもう自由だ」
……自分は、村娘に戻るのだろうか。
「今度は余の分の菓子も持たせるよう、あれに伝えてくれ」
ローラは仰々しく膝を折る淑女の礼をした。
「かしこまりましたわ、陛下」
寝台に潜っても、なかなか眠りにつくことができず、ローラは何度も寝返りを打った。
こんなことはそうそうない。城に初めて迎えられた時だって柔らかい寝心地に感動していたのは一瞬で、すぐに熟睡に落ちて体力を回復させられることはローラの自慢の一つでもあったのに。
ほのかな月の光が窓に掛かる分厚い布の隙間から存在を主張している。聞こえる声は梟のようだが、もしかしたらそうと似せた何かの精だったりするのだろうか。
もうどのぐらい夜は更けたのだろう。
──ふと、胸騒ぎに駆られてローラは身を起こした。
あとになってみても、何故そのときにそうしたのか結局説明はできなかった。
ローラは姫君に似合わない、ドレスというにもおこがましい簡素な寝間着のまま寝台を抜け出し、裸足のままで寝室の扉にたどり着き、それを開けた。
暖炉の火も落とされた応接間に彼が立っていた。
手にする燭台が照らす両眼が驚きに見開かれ、それで、彼はどうしてかここにはいるが、自分に逢ってゆくつもりではなかったのだとわかった。
理由は問わなかった。
ローラは寝間着の襟をかき合わせ、毛の長い絨毯を踏み、数歩、彼の方へと近づいた。
一瞬戸惑いに瞳を波打たせたマルクスは、──結局、折れた。
その場でひざまずき、更に歩み寄るローラを迎え、片手を取る。
「──今宵一晩、お慈悲を、姫」
その声がかすかにうわずっているように聞こえたのは錯覚だろうか。
ローラは目を細め、首をわずかに傾げて、応えた。
「お情けを掛けていただくのは哀れな村娘のほうよ。
若君さま」
──目を覚ましたとき、彼はもう消えていた。
それがどんな意味を持つのか、わからないほど彼と遠ざかっていたつもりはなかった。
ローラは跳ね起き、自室を飛び出して、城の石畳の上を裸足でひたひたと駆ける。豊かな亜麻色の髪がたいまつのわずかな光を反射する。
確信に衝き動かされ、たどり着いた部屋の扉を開け放つ。ひんやりとした空気と闇が彼女を出迎えた。
──マルクス。
──どうか。間に合って。
「……いるんでしょう、出てきて、お願い!」
声は礼拝堂にこだました。
すぐに応えがある。
「軽々に“願う”ものではないぞ、姫君。特に、得体の知れぬもの相手にはな」
笑い含みの声は祭壇のそばに現れた老人のものだ。
「か弱い姫君に、そんなことの他に何ができるというの?」
それはいっそ啖呵のようだった。
「それにあなたは“得体の知れない相手”なんかじゃないでしょう」
ローラは確かな足取りで祭壇に近づくと、襤褸を纏った老人をしっかりと見据え、告げた。
「──バフォメット様」
それは王家が奉じる神の名。
老人の姿がふくれあがった。
「明察じゃ」