#4 Apple and Cinnamon (v)
「人には忘れられて久しいがの。“それ”はまさにこの時も、世界の片隅、あるいは、大地に広く潜んでおる」
森に落ちる夕日が最後の光を王宮の庭に投げかける中、老人は襤褸にも見える衣服の合間から枯れ枝のような腕を差し伸ばし、人差し指を立てた。教師が生徒に知識を授けるように。
「殿下が言ってた、邪神だの怪物だののことかしら」
生徒の答えに、老人は満足した様子でうなずく。
「さよう。尤も、この国の王族であらば、そういった“力”の存在を一時たりとも考えの片隅から追いやることはできまいの?」
契約の箱のことを言っているのだろう。もはや老人がそれを知っていても疑問はなかった。
「……ええ」
揺れる木の葉の、波紋の揺らぎの、小鳥のさえずりの、日が差した瞬間の土から立ち上る湯気の中に、それは、たしかにある。
「存在するならば、必ず見つける者はおる。見つければ使役せんとするのが人じゃの。牛や馬のごとく」
明快に断じられ、ローラは驚いた。
「待って、使役できるようなものなの?」
だって、契約を交わした王の一族でさえ一瞬で葬り去るような“力”なのだ。──老人は含み笑いで応えた。
「そのすべを、お主は既に耳にしておろう」
「既に……?」
何かが引っかかり、頭の中で慌ただしくこのところ見聞きしたことを思い出す。脳裡に流れてきたのは、得意げな演説の声。
──あらゆる神と称するものは、我らが神のご威光の前にひれ伏すのだ。選ばれし我ら民は、有象無象を退け、意のままに従わせる許しを頂戴しておる──
「……え」
探り当てた答えをローラはそのまま口にした。
「まさか、あちらの国の神様とやらが、お許しを出した、ってことなの?
でもどうやって」
老人は楽団の指揮をするように、伸ばした指先で宙に円を描きながら説く。
「尖兵として使役されておるのは、そもそもがこの国におった魔の者、あやかし、何らかの精と呼ばれるもののうち、人の世になにがしかの作用を与えるだけの力を持つ者共じゃの。
そういった魔物とは、人間より厳密に、上の階級に従う生き物。これは動物が餌を狩り子孫を残さんとする本能にも似て、抗えぬ、かつ、その者共の“ありよう”を規定するものじゃ。魔の者は決して、己を規定する魔力から逃れ得ぬ。
奴ら異教の術士はその喉元を押さえておる」
「喉元?」
老人はにたりと口の端を持ち上げる。
「奴らの言うところの、邪神じゃな」
刻一刻と暗さを増す庭の中、老人の両眼だけが爛々と光っているようにも見える。
「あいつらが信じてるのって、一神教じゃなかったの? いいのかしら、邪神とやらの力まで借りてそんなことしちゃって」
ローラの知識はあくまでもヴァルド王子から聞いた程度で、それ以上のものはなかったが、疑問を口にすると老人はけたけたと笑った。
「正しき神の代理人である王が、その権威を持って神を僭する魔物を導いておるそうじゃぞ」
「あっきれた……」
心底げんなりしてローラは溜息をついた。そのさまに老人はあくまでも愉快そうだ。気を取り直して、理解を深めるため質問を重ねる。
「ってことは一応、姿形がちょっと個性的でも、向こうの国の軍隊であることには変わりないのね。なのにどうして、攻めた土地をそのまんまにしてくのかしら」
ふむ、と老人は笑みを収める。
「土地を攻め、我が物とする。その後におくものは何であるかの、王の娘よ」
教師の新たな問いに、ローラは頭をひねった。
「えーっと……、
……何かしら……、ううん、土地の管理官?」
「及第点と言ったところかの。──畢竟、“人間”じゃ」
「ああ……、」
伝令の話では、異形の軍隊には随伴する人馬が存在していないという。
「そのための軍隊を用意してない?」
「用意できぬ、が正しいじゃろうな」
そんなに人材がいないのだろうか。わざわざ異形を使役するくらいだし。
しかし老人の続けた言葉は予想とはまったく違っていた。
「従えたばかりの初陣じゃ。魔の者がどうやって、どの程度、どのような、どこまでの被害を与えるか、術士にも判ぜぬ。
周囲が一瞬で灰燼と帰すやもしれぬ。何里にも渡って草の一本も生えぬ地になるやもしれぬし、生きとし生けるものの血を吸い尽くす力が何百年も渦巻くやもしれぬ。
迂闊に貴重な人間の軍隊など控えさせてはおけぬのじゃよ。人馬は魔物と違い、新しく土地から呼び出して使役する、というわけにはゆかぬでの」
「そんなものを──、」
血の気が引いた。
「──あたしたちの国に放ったの?!」
そんなものを相手にしているのか、自分たちの国の兵は、民は。
「よくできた話じゃ。新たな軍の威力と使い勝手を十全に確かめた後、大地と残された民に使いようがあらば我が物にすればよく、さもなくば、余人が足を踏み入れられぬ要害と成せばよい。知恵が回るものじゃの」
「悪知恵としか言いようがないわ」
ローラは吐き捨てた。人であるはずの彼らが、魔物と呼ばれる存在よりも遥かに人の心を失った、自分とは掛け離れた存在に思われた。
「異形の軍隊。その目的。
返礼としてはこのようなところかの」
老人は話を終えようとした。その手に、ローラはもう片方の耳飾りを握らせようとする。
「……ふむ、娘よ、まだ儂に求むるものがあるか。強欲じゃの」
くつくつと笑う老人だったが、別にそういうわけではない。
「そんなつもりじゃないわ、これ、お小遣いで買える程度の、しかも片側だけだもの。……国難の折の貴重な情報源に支払うには、ちょっとお安すぎるでしょ? それに、あたしだって片側だけ残しといても使えっこないわ」
「ふむ。儂は、そのような理屈で動いているというわけでもないのじゃがな」
それはなんとなく、察してはいたが。
ともあれローラは老人の手に耳飾りを押しつけ、きびすを返す。
「どうしても貰えないって言うなら、誰か適当に見つけた人にでもあげちゃってよ。
……あたし、今の話を伝えに行かなきゃならないわ」
何者かの助けがあったのか、それからすぐにローラは軍議の間を離れたマルクスを捕まえることができた。こちらを認めてはっきりとしかめ面をする彼を小部屋に引っ張り込み、再びベルに頼み込んで入り口の番をさせる。
……最近彼女にはこんなことばかりさせてしまっている気がする。臨時賞与を弾まねば。
つい先日まで教育係兼従者だった青年は、こんな忙しい時に何ですか、などとありきたりな注意をしたりはしなかった。
「前置きは要りません。どうぞ、お話しください」
こんな時に気まずくしていたはずの自分を呼び止めるのだから、よほど重要な用事があるのだろう。そうした彼の察しの良さに改めてひるみながら、ローラは今しがた耳にしたばかりのことを洗いざらい喋った。
マルクスの顔が次第に険しくなっていく。ローラは自分が持ったものと同じ激情を感じ取った。
「あなた──」
しかし、彼が最初に口にしたのは、まったく別のことだった。
「──仮にも一応姫君なんですし、そういったものには軽々しく近づかないでいただけませんか」
仮にも一応って、二重に前置きをしなくてもいいではないか。むっとして言い返す。
「じゃあ誰かを代わりに近づけさせたらよかったってわけ?」
「ええ、そうですね、あなたそれでも乙女の部類じゃないんですか、かろうじて。
そういったのって魔の者に好かれると聞きますし、概念上は」
……この男、本当に自分にあらぬ感情を抱いていたのだろうか。
「みんな忙しそうにしてるじゃない、感謝してほしいぐらいだわ」
肩をすくめたマルクスは、そのまま体を戸口へ向けると歩を進める。その背中にローラは声を投げた。
「ねえ、みんなに伝えてくれる!?」
歩みを止めずにマルクスは返す。
「ご自分ではおっしゃらないんですか?」
「だって、何と言って? 魔女の伝承とでも言えっていうの?」
まだ、怒らせているのだろうか。ローラは両手を握りしめた。
──しかしマルクスは最後に、振り向かないまま、ぽつりと残していった。
「……裏を取ります」
よかった。
そうよぎった時、そう思わせたのが、マルクスが荒唐無稽な自分の話を信じてくれたことにではなく、いつものようにちょっかいを出し合いながら話せたからだったことに気づいて、ローラは、体の力が抜けてその場にしゃがみ込む。
足音が遠く離れていく。ドレスの裾が、丸く広がった。
翌日にはジェルベ将軍が禁軍を率いて出陣した。
マルクスがあの話を伝えてくれているかどうかは判らず、また、伝わっていたとしてもまだ対策が練れているとは思い難い時期である。
「お気の毒ね、さすがに魔物にいただかれちゃえとまでは思ってないもの。味もそんなによろしくなさそうだし」
滅入る気分を振り払うため、侍女たち相手にそんな軽口を叩きながら厨房のそばを歩いていると、ばたばたと行き違った下級官の一人が声を上げた。
「あっ、ローレンティア姫様!! よかった!」
「ばかっ、姫様を巻き込めるわけないだろ!」
声を上げた者も叱りつけた者も、まだ若い、少年とも呼べそうな年頃である。ローラは見たことがあった。確か現在は、幽閉したヴァルド王子の身の回りの世話を担当しているのではなかったか。
「殿下がどうかされたの? いいわ、お話しなさいな」
王子は昨日から食事を摂ることを拒んでいるという。婚約者であった、ローラの給仕を要求しているのだ。
「そう、なら行けばいいのね」
「おやめください!」
侍女たちが悲鳴を上げた。
「こうなったからには婚約も白紙ですわ、姫様になんの義理があると仰いますの」
「ええ、先に裏切ったのはあちらのお国じゃございませんか」
「そうかもしれないけど、ね」
ローラは自分と侍女たちの顔を見比べて戸惑う下級官を厨房へと促す。
「だとしたらあたしだって、この城の中で穀潰しよ? 何のために連れて来られた王女だと思ってるの。
陛下も兄様も、今殿下の命を取るのは得策でないとお考えなのでしょう。
大丈夫。情報もぎ取ってくるわ」
自分は隣の国へ送り込まれるために姫君の身分を得た。
もしそうでなければ、そもそも初めからその話がなければ、本来彼の隣に立つことも許されない一介の村娘に過ぎないのだ。
そのことを、マルクスは判っているのだろうか。
「参りましたわ、殿下」
腹立たしくすらある気持ちを抱えてローラは王子の部屋の扉を開けた。数日ぶりに顔を合わせる王子は撫でつけられていた髪もあちこちを跳ねさせ、こちらに向けた目は据わらせている。
「その者は下がらせよ」
顎で示したのは配膳台を押していた下級官である。戸惑う少年に、ローラは「いいから」と微笑みかける。扉まで下がったのを見て、そこからは自分が台を押した。
載せられているのはとうもろこしのスープにそれなりの肉の焼いたもの、酢漬けの野菜にパンである。それと、いくつかの食器。
老人を介護するように匙を運ばされたらどうしよう、と埒もないことを考えつつ近づく。
腕を組んでいた王子が、あと数歩というところで、突然大きく身を乗り出した。
スープの皿がこちらめがけてひっくり返される。とっさに顔をかばった腕を捕まれてぐいと引かれる。
がちゃりと金物の音がした。首筋に冷たい感触。
少し遅れて、腕と肩に鈍い痛みがやってくる。
ローラは王子に戒められていた。首筋に突きつけられているのは、先の尖った食器のどれかだ。
「あ……あわ……!」
腰を抜かす官に王子は言い渡す。
「姫の命が惜しければ、私の言う通りにせよ。よいな?」
「こんなことをなさったって、何にもなりませんわ」
つとめて静かに、ローラは口を開いた。少し体を動かせないか試してみる。
通り一遍の護身術を身につけている彼女だったが、さすがに体格の差は厳しかった。あるいは村の子供たちが言っていたように、これで案外すっげえ強い、のかもしれないが。──だが、そう、何かきっかけさえあれば。
「うるさい、かくなる上は、父上のご意志と呼応して内側から王宮を陥落させるのが私の務め」
……なるほど、そっちの方向に燃え上がったのか。
かの老人の話を聞いた限りでは、蹂躙しどう姿を変えるか判らない土地に送り込まれたこの王子が、期待されている身だとも思えなかったが。
「どうかお考え直しくださいませ。わたくしなど、この王宮ではものの数でもございません。陛下も王太子も、わたくしの命などと引き替えには……」
「黙れ、それを判断するのはそなたではない」
これもだめか。案外思い込んだら頑固な人物なのかもしれない。
「そこの者、さっさと誰ぞ家臣を呼んで参れ」
「ひ、姫……申し訳ございません……ただちに……!」
「お待ちください」
睨まれて部屋から這い出そうとする少年を留めて、ローラは王子の腕の中で声を震わせてみせた。
「それではせめて、わたくしの命を何よりも尊く扱う、あの者をこの場にお呼びくださいませ」
びくり、と王子の腕が動いた。
「そなたの供の、あのいけ好かない男のことか。
何か勘違いしておったようだが、いかな掌中の珠と育て上げてきた女であっても、結局は私のものになるのだ、私にはいかようにもする権利がある。供の分際で、その程度のこともわきまえておらぬとは見苦しい、何度も言い聞かせてやったものだがな」
こいつ、そんなことも言っていたのか。王子の想像以上の俗物ぶりに半分、残りの半分は自分の迂闊さにはらわたを煮えくりかえらせながら、ローラはか弱く繰り返した。
「非力な文官でございます。どうか、お願いいたします……」
「よかろう、この姫の姿を目に焼き付かせ、手も足も出せぬところを思い知らせてやる」
──釣れた。
駆けつけた家臣たちを扉の外に控えさせ、王子はマルクスが部屋に入ることだけを許した。
風のない湖面のように凪いだ瞳を見てローラは小さく首を竦ませた。あとで、絶対に怒られる。
「要求は何ですか」
最低限の礼節をかろうじて保っているという態でマルクスは口を開いた。とたんに王子が逆上する。
「なんだ、その態度は。この有様が見えぬのか」
「……失礼をいたしました。お望みのものは何でもご用意いたします。ですのでどうか、姫様のお命だけは」
マルクスは腰をかがめて顔を伏せた。鼻息を荒くした王子が重ねて命じる。
「そうだ、それでよい。まずは我が国の者共を解放せよ、武器を返し最高の馬と馬車を用意するのだ。
また玉座の間を我々に引き渡せ。それから──……」
それからいくつも、思いつかんばかりを並び立てたのだろう、王子は矢継ぎ早に要求を並べ立てて、荒く息を継いだ。マルクスは顔を伏せたまま、部屋の外に控える者にそのまま従うよう申しつけた。
「以上にございますか」
「……、……、いや、まだある」
息を整えた王子が顎を動かす気配がローラの頭の上でした。
「お前がそこで、土下座をするのだ」
「…………」
ローラは内心が悟られないよう、哀れそうに聞こえる声を上げておく。
「殿下、お許しくださいませ……それは……、」
「私が土下座をすれば」
──ああ、
「姫様を解放していただけますか」
顔を見せないまま張り上げられたマルクスの声の響きに、この人となら何でもできると思った。
「それはして見せねばわからんな。
どうだ、するのか、せんのか」
王子がもったいぶってみせる。
「……致します」
マルクスの返事も、そして動作も、負けず劣らずもったいぶったものだった。
まるで屈辱をねじ伏せるようなのろのろとした動きに王子が焦れる。
「早くいたせ!」
その、やや身を乗り出した瞬間をローラは逃さなかった。
ドレス用の高い靴のかかとを思い切り王子の片足に突き立て、斜め後ろに向かって思い切り頭突きを食らわせる。
「ぎゃっ!」
備えていたとは言え、自分もそれなりの衝撃を受けたが、留まっている余裕はない。ダンスの時よりよほどしなやかに身を回転させ、その場から数歩距離を取った。──その傍らを、低い姿勢から床を蹴って接近したマルクスがすり抜ける。
彼の攻撃は的確に王子の膝や急所に与えられた。──合掌。
「さよなら。
根性がある殿方、嫌いじゃなかったわよ」
大きく扉を開け放って武官たちを招き入れながら、ローラはつぶやいた。




