#4 Apple and Cinnamon (iv)
ローラが驚くべき知らせを受け取ったのは、それから間もないある晩のことだった。
その日は王妃主催の舞踏会で、マルクスは元より饗応の責任者からは外されていた。
ローラがヴァルド王子やジェルベ将軍──ダンスの腕前は、付け焼き刃のローラをくるくると踊らせてしまう驚嘆すべきものだった。女好きの面目躍如と言ったところか──の相手を終え、壁際の椅子に引っ込んで飲み物を口にしているところに、ベルが硬い表情である知らせを持ってきたのだ。
腹心の侍女ですら困惑気味に伝えるその内容を聞くなり、ローラは勢いよく立ち上がっていた。
「マルクスはどこ」
「なりません、姫様」
「なりませんなんて言ってる場合じゃないわ。あたしはもう今夜の義務を果たしたのよ。なのにあいつは、こんなふざけたことを、いったいぜんたいどうしたっていうの?」
剣幕に押されて、ベルは身を翻す。案内されたのはダンスホールからほど近いサロンの一つだ。
そこに彼は、気の置けない同年代の貴族階級の青年たちと共にいた。
丸みを帯びたグラスに、濃い色の液体をたゆたわせて。
マルクスがこちらに視線を向ける前に、青年たちの幾人かがローラに気づく。ある者はあからさまにぎょっとし、またある者は「おでましになったか、ほら」と横の者を肘でつついた。それで、彼らの皆、少なくとも大半の者が既に事情を察していると知れた。
このような屈辱があるだろうか。
「皆、外して頂戴。わたくしはマルクスに用があります。
よろしくて?」
そこでやっと、名指しされた当の本人が気怠げに視線を上げる。
周囲の友人たちは、「おい」とか「ほら」などと互いにささやき合っていたが、マルクスもローラもそのまま黙っていたので、やがて示し合わせて部屋を出て行った。
開け放した扉に控える侍女の気配を背に、ローラは詰問する。
「どういうこと」
出した声は我ながら尖っていた。
「供を辞退する、なんて」
「既に陛下にはお許しを頂いております」
もちろん、だからこそローラの耳に入ったのだ。
「おわかりになりませんか」
わかるはずがない。わかりたくもないが、わかろうとしても無理だ。
「そんなに王子が嫌だった? あちらでは扱いが軽んじられそうだから?」
マルクスは肩をすくめて目を伏せ、気のない様子でグラスを揺らす。
「じゃあ、国の仕事に未練があるの? それとも、離れたくない人が? だとしたら、もし相手がよければですけど、連れて行くことだってできるかもしれないのに──」
「そういうわけじゃありません」
では。……そういうことなのだろうか?
「──あたしのことが、そんなに嫌だったの? 前もって相談もできないぐらいに」
「いえ。それは違います」
マルクスは視線を合わせぬまま、つぶやくように否定すると、いつかの夜のような、長く尾を引く溜息をついた。
ローラはやるせなさに胸が潰れる思いだ。
「どうして。あたしたちの相性は最強だったじゃない、二人なら、できないことなんか何もないって」
「まさにそのことですよ」
「……え、」
両目を上げ、こちらをひたと見据えた青年が、まるで知らない人間のように見えた。
「これはあなたのためでもあることです。私とあなたの関係が、王子やあちらの国の方々にどう見えるか、想像できんあなたではありますまい」
どう、って。
「他人の目なんてどうでもいいじゃない!」
強くローラは叫んでいた。
「あたしにはやましいことなんてなんにもない。
これはあたしとあなたの問題だわ!」
「──じゃあ、正直に言わせてもらうが」
知らない男の眼差しは鋭く、声は低かった。
「俺のことを何でもわかっているようなふりをしないでくれ。
俺があなたをどういう目で見ているのか、それを知ってもやましいことなど何一つない、そうしらを切り続けられるのか?」
「──っ!!」
全身で叫んだあとの肺が、何故かうまく空気を吸えない。
何かを言わなくてはならない。迅速に何かを。でも何を?
焦る気持ちを打ち破ったのは、高く響く軍靴の音と近衛兵の荒げた声だった。
「姫様、マルクス様、ここにおられましたか! 速やかに広間へお戻り下さい!!
──国境の隣国軍が、武力をもって我が領内への侵入を開始したとの知らせが、ただいま!」
王宮の対応は素早かった。
隣国との関係の悪化は、いまだ直接的な衝突こそなされていなかったが、皆が予期していたことではあったし、また、慶事にかこつけての侵入や同盟を組むふりをして油断を誘う、というのも歴史上ありえないことではない。
近衛が即座にヴァルド王子を始めとする隣国の使節を拘束し、互いに連絡が取れぬ場所へとばらばらに押し込めた。
国境の近隣の戦力を再編してあたらせるための使者が城を発ち、逆に戦場からは続報が次々と届けられる。
そこに及んで、国王以下、戦に関わるすべての者が絶句する事態となった。
──伝令の言葉を信じるならば、
敵の主戦力は、空を飛び家々を薙ぎ倒す、異形の集団であったのだ。
「皮肉なことね。怪物や化身なんて、お伽話じゃなかったのかしら」
地図が広げられて軍議が行われている部屋の近くの廊下で、ローラは侍女へと肩をすくめて見せた。
軍議は当然紛糾していた。更に不可思議なことには、敵の軍団は蹂躙した土地を支配するでもなく、中途半端に火を掛け建物を壊しては次の土地へと向かっているのだ。食料や家畜などの財産さえ野ざらしにされたところもあるという。
およそ一般的に考えられる征服とは掛け離れている。彼らにどんな利益があるというのだ。
王子から情報を引き出すことはできないだろうか、とローラは考える。兄の話では、彼や一行の者は誰も侵略について知らされていなかった、ということだったが。
それはそうなのだろう、特に王子は、どうにも腹芸のできそうにない人物だ。しかし、慎重に探りを入れれば、手がかりをつかむこともできはしまいか。
たとえば、滔々と語られたあちらの国の神の話のように。
もとより、自分にできることはそのくらいしか──
「……おや。いかがされました、ローレンティア姫」
ばたんと扉が開き、数名の貴族や武官が現れた。休憩の時間だろうか。
そのうちの一人、青年貴族が、部屋を控えめに窺っていたローラに気づいて歩み寄ってくる。彼は姉の夫である公爵家の嫡男で、マルクスにとっても年齢や立場が近い、懇意の人物だ。
……もちろん、先日のサロンにもその姿はあった。
「このような事態になってしまい、さぞ歯がゆいことでしょうが、今しばらくご辛抱を。誓って姫様に悪いようにはいたしませんので」
ローラ自身も彼とは、姉の屋敷に招かれた時など、近しく言葉を交わしている。親身な気遣いを感じて、首を左右に振った。
「いいえ、あたしが歯がゆいのは、事ここに至って、あたしがみんなのためにできることが何にもないことだわ」
ああ、とローラの気性を察した義兄はうなずいた。ローラは苦笑してつぶやく。
「あなた方は、マルクスに同情的なのでしょうけれど」
「いえ、私は恐れ多くはありますが、姫様にもご同情申し上げておりますよ。──そして、ヴァルド殿下にも」
「え」
同じく苦笑した義兄からは、意外な言葉が返ってきた。
「初対面から牽制を食らわせたくなるほどの脅威だったわけですからね、殿下にとっては」
牽制? 何のことだろうか。初対面というと、誰相手であるにせよ、自分が引き合わされた玉座の間でのことしか考えられないのだが、そんな場面に遭遇した記憶はない。
義兄は苦笑いのままローラの様子を眺めていたが、腑に落ちないでいるようなのを見て取ると、そうですね、と細い顎をつまんだ。
「奴から、お聞きになったのでしょう? 姫様の供を外れたわけは」
「……ええ」
ローラは慎重にうなずく。それは、他人にうかつに明かしていいような類のことではない気がする。
「ご安心を、皆が存じているわけではありません。私はそうですね、姉君とも近しゅうございますから」
そうなだめられて安堵する。しかし、ということは姉も、何か知っていたのだろうか。
続けられた言葉は、ローラにとって予想もしていなかったものだった。
「隠しおおせると思ったのでしょうね、少なくとも一度は。
まあ、奴はよく凌いでいましたよ。殿下があの手この手で、奴が姫様のことをぽろりと漏らすのを誘い続けておられても、未熟者で付き合いが浅く存じ上げない、それは侍女に確かめておきます、などとのらりくらりとかわして。
本当はこの城にいる誰よりも前からあなたのことを見て、深く知っていたのに」
ローラは絶句した。そんなこと。目を瞠るしかない。
──私が存じておりますよ。その言葉を、マルクスは台所で、どんな思いで口にしたのだろう。
「ですが、そうですね。これは男同士にしかわからない感覚かもしれませんが。
抜け目のない男というのは、たとえ味方にしていたとしてもね、どこか安心することができないものなんです」
そのあたりは、なんとなく理解できる気もするが。
「あいつのためには、さっさとぼろを出すほうがまだよかったのかもしれない。殿下のご心証だけ考えるとね」
「でもそれは、」
ローラは焦燥感に声を上げた。義兄が引き取る。
「ええ、国のための婚姻でそれはあってはならないことです、ましてや奴は我が国が全ての権威と権限を委ねて任じた供の者です。
そしてなにより、姫様、あなたの御為には」
──これはあなたのためでもあることです。
サロンでのあの台詞も。掛け値なしに真実だった。
なんて馬鹿なことを言ったんだろう。前もって相談なんか、できるはずがない。
「あたしを、守ろうと」
喘ぐように吐き出すと、義兄は痛ましそうに目を細めた。
「奴は、最後までお伝えするつもりはなかったと、思いますよ」
「あたしが、」
言わせたんだ。
彼自身が隠し続けてきた、決して見せてはならない、心の内を。
ローラは、半開きの扉をおそるおそる見やった。マルクスは休憩には出てこなかった。今も資料を片手に、苦しい知恵を絞っているのだろうか。
「姫様は巧みに殿下と渡り合っておられると、奴も申していましたよ。──自分がおらずとも、立派にやり遂げられるだろうと」
慰めるようなねぎらいの言葉も、今はただ痛いだけだった。
姉の応接間には弟妹が集まっている。
うろうろと歩き回る上の弟。年少の二人は、長椅子に腰掛ける姉の膝に左右から取り付いて唇を噛んでいる。
ぽつりと呟いたのは窓のそばに立ち、夕日の沈む庭を眺めていた上の妹だった。
「わたくしが、もし赤い髪であったなら」
ローラは驚いた。
たおやかな妹が、そのような考えを秘めているとは露ほども思わずにいたからだ。
しかし少し思いを巡らせれば、ぽっと出でにわか仕立ての王族である自分とは違い、きょうだいたちは物心ついたときから常に、その重圧を心に受け続けていたのだ。
できることが何かあるはずだ。その思いは皆同じだった。もちろんローラもだ。
自分たちには責任がある。民の敬愛を受け、よい暮らしをさせて貰っていることへの。
それが王族としての──、
「……!!」
がたり、と椅子を鳴らして立ち上がったローラを、部屋にいる全員が注視した。
「どうしたの、ローレンティア?」
「──いえ、お姉様。ちょっと用事を思い出したの。部屋に戻るわ」
控えの間のベルを呼びつけ、ローラは足早に通路を渡った。
自室に立ち寄って私的財産である装飾品の引き出しを漁り、向かったのはいつぞやの庭園である。
ベルを通路に面した場所に見張りとして残し、ローラは一人木々の中へと踏み込んだ。
その手には片方のみの金の耳飾りがある。
「ねえ、いるんでしょう。
聞きたいことが、あるわ」
──果たして、赤くつぼみを付けたバラのアーチの陰から老人は姿を現した。
「教えて頂戴。先だっての耳飾りの対価を頂くわ。
異形の軍隊は、いったい何なの? 彼らは、何が目的なの?」
老人は笑う。
「それがお主の知りたいことか?」
ローラは強くうなずいた。
「そうよ」
「よかろう」
辺りは、毒々しくもある橙に染まっていた。




