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Capriccio  作者: 紫嶋桜花
2/9

#4 Apple and Cinnamon (i)

 目を覚ましたとき、彼はもう消えていた。

 それがどんな意味を持つのか、わからないほど心を遠ざけていたつもりはなかった。

 姫君に似合わない、ドレスというにもおこがましい簡素な衣と裸足のままでローラは石畳の上を駆ける。豊かな亜麻色の髪がたいまつのわずかな光を反射する。

 確信に衝き動かされ、たどり着いた部屋の扉を開け放つ。ひんやりとした空気と闇が彼女を出迎えた。

──マルクス。

──どうか。間に合って。

「……いるんでしょう、出てきて、お願い!」

 声は礼拝堂にこだました。




  Ⅰ


 王宮お抱えの楽団が代わり映えのない曲を流している。

 並んでいる食べ物は味と色の妙に濃いものが皿の上にぽっちりと載っているだけで、しかも、それを切り分けて口に運ぶまでを同席者にじっくりと観察されているとあれば、味わうどころではなかった。

 ローレンティアは、この国の王宮で二番目に年かさの、そして今のところ一番最近城に部屋を与えられた王女である。

 母は都からさほど離れていない農村の、何の変哲もない農婦だ。狩りの途中に立ち寄った王との間に娘を産んだことでわずかばかりの年金をもらう身分にはなったが、特に王宮に召されることもなかったので、そのまま赤ん坊を育てて暮らしていた。

 ローレンティアにしたって一昨年まで、近所じゃ学者とあだ名される地主の祖父に仕込まれて学問こそ人並み以上に修めてはいたが、家畜を追い畑や収穫したものの手入れをする毎日を送っていた。自分の血筋のことは知ってはいたが、多分、村で一番出来がいい男の子を婿に迎えてそのまま農家のおばちゃんになって年老いていくものだとばかり信じ切っていた。

 それが、隣国の王子との間に慌ただしく婚約話が調えられたかと思うと、この有様である。

 王宮に来るまでは小さい頃に謁見したことがある程度だった父親は壇上で豪奢な衣服を纏い、葡萄酒のグラスを傾けてはお気に入りの大臣に何かささやいて笑っている。こちらを見ようともしない。

 横に座っている髭の老人がさっきからうるさい。

「ローレンティア姫、いやはや、しかし、すっかりお美しくなられた。見違えましたわなあ。わしが最初に姫の母君を──」

 えーっと誰だっけこいつ。たしか武官の一人だったような気がする。ローレンティアは教育係に仕込まれた宮廷知識を必死に総動員する。

「ゆえにわしは陛下に申し上げたのですぞ。もしこの国を末永く安泰に──」

 あっ、そうだ。辺境の守備を任されているナントカ将軍だ。だから最近まで王宮で見たことがなかったのだ。

「将軍? わたくし、国境のことをお伺いしたいですわ」

 うっとうしい話を打ち切らせようとして声を上げると、反対側や向かいにいた貴族の皆さんの視線が集まった。──しまった。

 姫君は自分の意志とか希望とかを直接口にしちゃいけないんだったっけ。

「ほう、姫は鄙にご興味がおありですと?」

 将軍のとぼけた口調に、やはり所詮は田舎娘、と周囲の声が被せられそうな気がして、ローレンティアはいけないと思いながらも言葉を続ける。

「ええ、わたくし、来年には国境を越えてあちらに嫁ぎますでしょう。どんな旅になるのかしら。気候が違うと申しますもの、ドレスもそれに合わせて仕立てませんとね」

……ごまかせただろうか。

「ほう。大丈夫、そういったことはお付きの者が万事よしなにお取りはからいいたしますぞ。しかしあちら風のドレスと申しますと、そうですな、うむ」

 将軍は口髭を揉むと、にやあと笑った。嫌な予感。

「もっとこのあたりの丸みが重要になってきますなあ。姫、ほれ、もっと食べて肉を付けんといかんですぞ」

 伸ばされた手が高級な生地の上から太ももを撫でていた。

 ぞわ。

──ばちん!

「ざっけんじゃないわよヒヒジジイ! 辺境暮らしで女に飢えてんだかなんだか知んないけど、そういうおふざけはそういう店で金払ってやんな!」

 気がつくと、椅子を蹴倒して立ち上がり、腕を払いのけたついでに相手の頬を張っていた。

 口を突いて出た啖呵に広間じゅうの視線が集まり、はっとする。

 怖くて玉座が見上げられない。

 ローレンティアは引きつった笑みをなんとか顔に貼り付けて、白々しく淑女のお辞儀をした。

「……あら、ごめんあそばせ。わたくし気分がすぐれませんので、失礼いたしますわね」

 視線を落としたまま玉座にも一礼し、裾をさばいて広間の扉を抜ける。

 かつかつと音を立てて石畳を歩いていたが、やがて、それも面倒になって、かかとの高い靴は脱いでしまい、それを両手に持つと走り出した。




「──姫様」

 やって来た。お小言の時間だ。

 ローレンティアは王女に与えられた自室に戻ると、気心の知れた侍女に手伝ってもらい、夜会用のドレスからもう少しゆったりとした服に着替えて長いすの上で一息ついたところだった。

 呼びかけたのは、こちらも夜会用の光沢のある服を身につけた青年である。父王の側近である大臣の息子で、彼女がここに来てから教育係と定められていた。

 ローレンティアは目の前に置かれた小卓の上の、侍女が作ってくれたホットミルクとバター付きのパンに没頭しているふりをしてそれを無視した。

「姫様。もう耄碌なさったのですか。あれだけ綺麗な一撃を入れておいてそれはないでしょう」

「やだ、そんなに綺麗に入った?」

 思わず反応すると、青年は長いすと小卓を回り込んで溜息をつく。

「ええそれはもう。ご高齢といえど武勲を重ねられた武官が形無しでしたよ」

「あちゃー……」

 また伝説を作ってしまった。

「目の当たりにしたのは私とせいぜい数人といったところでしょうがね。

 私はあなたが将軍に何やかやと話しかけられておいでなのをお見かけしてから、何か起こさないか気が気でなかったので」

「見張ってたってわけ?」

「ええ、その甲斐もありませんでしたが。

 姫様」

「…………」

「まただんまりですか」

 はあと、あからさまに彼はまた溜息をつく。

 ローレンティアは呟いた。

「──『ローラ』よ」

 その声は我ながらとてもふてくされていた。まるで小さな子供のような。でも。

「あたしは『姫様』なんかじゃない」

「あなたは姫様ですよ」

 穏やかな声音が憎たらしい。こいつだって、昔はそう呼んだりしなかったのに。

「あたしは、ローラだった。一人ぐらいそうやって呼んでいてくれないと、あたしはあたしが誰であったのか、忘れてしまうわ」

「……あるいは、おそらくそれが大人たちの狙いなのかもしれませんけどね」

 ふっと、今度の溜息は半分笑ったような響きがあった。

「いいでしょう、ローラ。

 自分のしでかしたことはわかっていますね?」

 ローラはほっとして、知らず入っていた肩の力を抜く。

 ホットミルクを啜って返事を探す。ええと。

「将軍、あたしの婚儀のために来てくれてたのよね」

「ええ、隣国の先触れをご案内して来られたんですよ。あなたが嫁ぐときは国境まで護衛軍の隊長を務められます」

「ご苦労さまなことね。あのへんもきな臭いのに」

 急速に力を付けた隣国。我が国との国境は大部分が山林地帯だが、その土地や資源を巡って十数年前から小規模かつ非公式な衝突が繰り返されていたという。

「兄様も大変ね。もう少し父上が頑張っておいてくれないと、まだ継承どころじゃないんじゃないかしら」

 肩をすくめるローラに青年は苦笑した。この姫君は暗愚でもなければ、顔を突き合わせるようになったばかりの兄弟姉妹との関係も悪くはなかった。

「そのお手伝いをされるのがあなたですよ、ローラ。責任重大ですね」

「あなたもね、マルクス」

 教育係の彼は、輿入れにも供として同行することが既に決められていた。

「まあ、そうですけど」

「でもあっちは気候も違うから、固有の植物とかもあるそうじゃないの。実はちょっと楽しみでしょ?」

 パンをかじりながら見上げると、博物学を趣味とする青年は思わせぶりに腕を組んで、おどけた声色を作ってみせた。

「ええまあ。でもそれに没頭させてもらうためには、安心してさっさと楽隠居できるように、ローラ自身にがんばってもらいませんと」

「……善処するわ」




 青年に言い渡された罰は詩集の暗記だった。それをなんとかこなして数日後、昼の光が差し込む自室で繕い物をしていると再び彼が扉をノックした。

「開いてるわよ、どうぞ」

 いつも客を通す侍女達がいないのでそう声を上げる。目をぱちくりさせて入ってきたマルクスが、こちらのしていることを認めると眉をひそめる。

「……何よ、姫君がすることじゃないって言うんでしょ。

 でも仕方ないじゃない、みんな出払っちゃってるのよ。自分のことは自分でしたっていいでしょ? この寝間着お気に入りなんですもの、肌触りが」

 どうせすぐここからいなくなる身である。家来に与えて新しいものを下ろすのはもったいない、と思ってしまったのだ。

「──もしかして、皆あなたが?」

「今日は暇を取らせたわ」

 ローラは顎で窓の外を指す。

「だって今日はお祭りですもの」

 マルクスはくすりと笑う。

「そのお祭りの日に、あなたがしおらしくしているなんてね」

「悪かったわね。この間の騒動のことは、一応反省してるのよ」

 ローラは決まり悪げに、少し口を尖らせてぶすぶすと寝間着の生地に針を刺す。

 ふむ、と青年がうなずいて言った。

「でも、あなたにとっても最後の例大祭でしょう。父がぜひ楽しんでいらしては、と申しておりましたよ」

「遠慮するわ。あたし一人の支度のためにどんだけ手間が掛かると思ってんの。

 侍女達はほとんど出払っちゃったのよ」

 それに護衛も、と言いかけた彼女をマルクスは片手を掲げて制した。

「姫君の支度であれば、そうでしょうが」

「え? まさか──」


 初夏の鮮やかな陽光が、街路樹や街灯に飾り付けられた色とりどりの布に降り注いでいる。行き交う人々の笑顔も晴れやかだ。

 そんなわけでローラは意気揚々と城下町を歩いていた。供はマルクス一人を伴うのみである。

 亜麻色の髪は編んで頭の後ろに巻き付けた。明るい草色のバンダナを被り、服はぴったりした袖なしの上着にブラウス、そしてくるぶしまでの赤いスカートに布靴だ。

 マルクスも下級役人が着るような地味な取り合わせを選んでいたが、そこはかとなく育ちの良さが透けて見えるようなのが悔しい。対してこちらはこの格好が、

「水を得た魚とはこのことですね」

「うっさい、文句あるの?」

「いいえ、お似合いだと申し上げてますよ」

 しれっと言ってのけられた。こいつは。

 軽口はともかく、ローラは屋台で飲み物を買おうとするマルクスを止めた。

「街の入り口の屋台なんてやめなさい、ほとんどぼったくりよ。

 こっちにもっと味も値段もいいとこあるわ、氷なんかでかさ増ししてないような」

「なるほど」

 広場に面して、椅子を店先に並べた場所がある。ローラが昔から祖父や母に連れられて都に来るたび立ち寄っていた酒場だ。

「や、ローラじゃないか」

「はあい」

 祭りの日だけ軒先にしつらえたカウンターで、こちらに気づいたマスターがレモネードを作る手を休めずに笑顔を見せる。ローラは片手を振ってそばの椅子に腰掛けた。

「お城にあがったそうじゃないか」

「そうなのよ、前より近所になったのにあんまり顔見せられてなくてごめんなさい」

 マスターは苦笑する。ローラが国王の庶子だという話は、つきあいの長い相手には隠してはいなかった。

「そっちのお兄さんもお城の人かい?」

 視線で示したのはマルクスのほうである。とっさになんと答えたものか躊躇った彼を横目に、ローラが引き取る。

「そうよ、わりかしお世話になってるの。日頃お仕事一辺倒だから今日は気晴らしに連れ回してるってわけ。

 おじさん、レモネードあたし達にも頂戴。ジョッキで二つね」

「あいよ、ちょっと待ってな。食いもんは?」

「おばさんの魚のフライある? ええ、それと、あとは適当に見繕って」

 マルクスはローラの隣の椅子に腰を落ち着けた。心なしか憮然としている。

「何よ、言いたいことあるなら言ったらどう」

「……いえ、特には」

「どこが特にはって顔よ。わりかしお世話どころか、ずいぶん甚だしくお世話してる、とか主張してもいいのよ」

「それを言わせていただけるならばむしろ、お世話されている自覚があったのかと驚いていたところですが」

「ちょっとひどくない?!」

 やりあっていると、軽食を運んできたおかみさんにくすくすと笑われた。そちらにも不義理を詫びて、近況を聞くなどする。

「みんな変わんないよ、いやさ、金物屋の若夫婦のところに赤ん坊ができたりはしてるけど。でもあんたほどにはねえ」

「それは言えてるわ……」

 しばらくぶりの魚のフライは旨かった。レモネードとの取り合わせもぴったりだ。ローラとおかみさんとの会話を邪魔しないようにか言葉少ななマルクスが、晩餐会であればたしなめられそうな早さで平らげていくのに気がついてにんまりした。

「こっちの野菜スティックも食べなさいよ、ディップがまろやかなのにさっぱりしてて癖になるのよ」

「……いただきます」

 フライに野菜にオムレツにチーズたっぷりのジャガイモのグラタン。たらふく食べてお代をと立ち上がったら、マスターが首を横に振る。

「いいよ、ローラ。久しぶりに顔見て嬉しかったからな」

「おじさん、でも、あたしだってちゃんとお小遣い貰ってるのに……」

 同行者に払わせるつもりではない、と伝えようとしたが、マスターとおかみさんは微笑んで受け取らない。

「聞いてるよ、もう来年にはどっかの王妃様なんだろ? だからこれは餞別、それとお祝いみたいなもんさ」


 神妙な面持ちになったローラに、マルクスは何も言わずついてきてくれた。

 広場から少し足を進めると、今日の例大祭のメイン会場となる大きな礼拝堂が見えてきた。人混みに囲まれて、木で組まれた何基かの山車が出番を待っている。

 その一つには遠目にも鮮やかな赤い髪をなびかせた姫君の像が据えられている。王家の、すなわちローラにとってもご先祖様にあたるという姫君だ。

 建国神話で重要な役目を担う彼女の血が、時を超えてこの身体にも流れていることは、しがない地主の娘でしかなかったローラにとっては誇りであった。けれど。

 山車を見上げて歩みを止めてしまったローラに、黙っていたマルクスがつぶやく。

「大丈夫、あなたならできますよ、なんでも」

 その声はふとすると祭りの喧噪に紛れてしまうくらいの小さなもので。

「──うん」

 そうかもしれない。あなたもこうしてついてきてくれるなら。

 すべては言葉にせず、ローラはあたりを見回した。

「今年はお願いの箱、どこで配ってるのかしら?」

 背伸びしてあたりを見回したが、身長の高いマルクスが見つける方が早かった。

「あちらですね。行きますか」

 ええ、とうなずいてマルクスが指した方へ先に立って歩く。お願いの箱というのは、建国神話になぞらえた祭祀の道具のことである。

 赤い髪の姫君は、土地の民を苦しめていた荒ぶる神をなだめ、それより後は国と民の守護者となることを約束させ、その契約の証として特別な箱に祈りと願い、神の荒ぶる力を込めて聖地に安置したと伝えられている。

 それにあやかって、この日のために木と色鮮やかな紙でできた箱を街の礼拝堂がいくつも用意し、民は幾ばくかの供物や金銭と引き替えにそれを手に入れては願いを込め、川に流すのだ。

 伝統的には家や一族の安全が祈られていたようだが、最近では商売の繁盛や立身出世、恋人達が永遠の愛の成就を祈るなど、もはやなんでもありである。

 ローラが両手にちょうど収まるくらいのそれを、いくつも抱えて配布所を離れたら、マルクスに思い切り呆れた顔をされた。

「多すぎですよ」

「仕方ないじゃない。母様、お爺様、兄様に姉様に弟たち妹たち、はまあまとめて一つでいいとして、お城のみんな、一応マルクスも、あと一応の一応で父上と大臣のぶんもお願いしなきゃなんないわねって思って、だって、最後なんですもの」

 念のため言っておくが全部のお代をきちんと小遣いから出している。自分は一つだけを片手で持っているマルクスが、はあ、といつものように苦笑混じりの溜息をついた。

「ご自分のは?」

「……まあ、そこまでは欲張らなくてもいいかしら、って」

 では。マルクスは自分の箱を軽く振って言った。

「僭越ながら、あなたの分は私が祈らせていただくとしますか」

「もったいないでしょ?! そっちこそ自分の分はどうするのよ!」

「あなたに願っていただけるみたいですから」

 これ知ってる、侍女達がどや顔って言うやつだ。

 それ以上何かを言うのもなぜか気恥ずかしくなって、ローラはマルクスに背を向けすたすたと水場へ向かった。




 日が傾いて赤く染まった水面に箱が浮かんで流されていく。特に時間が決められているわけではなく、日が高いうちから辺りが街灯の明かりに照らされるまでこの行事は続くが、ローラは見えるものすべてが真っ赤に染まるこの短い時間帯が好きだった。

 ほどなく空は紫、群青へと色を変えていく。土手の上に立ってずっとそれを眺めていたローラが、傍らのマルクスを振り返って、帰りましょうか、名残惜しいけど、と言いかけた時。

「どこ見てんだジジイ!」

 声が上がったのはマルクスの背後、すぐそこである。

 祭りで酒をひっかけたであろう赤ら顔の柄の悪そうな若い男二人組が、こんな日だというのにぼろきれと見紛いそうな粗末な衣服を着込んだ老人を怒鳴りつけていた。

 老人は声も出せない様子で、ぺこぺこと頭を下げている。ローラは眉をひそめた。

「いやね、こんなおめでたい日に」

 もちろん老人の身なりについてなどではない。二人組は歯向かってこない老人に気をよくしたのか、片方がその胸ぐらをつかみ上げると凄み掛かる。

「わかってんだろなてめえ? 出すモン出してくれなきゃこっちは引っ込みがつかねーんだよ!」

「出すモンだよ出すモン、ジィさん、わかってんだろ?」

 にやにやともう片方が老人が手にしていたすり切れた布袋を奪い取る。振るとちゃりちゃり音がした。

「しけてんなあ。まあ飲み代くらいにはなるか?」

「いんや」

 老人をつかみ上げた方は口の片端をつり上げて笑うと、空いている方の手を振りかぶった。

「それっぽっちじゃ俺の気は収まんねえなあ! ジィさん、ちょっと憂さ晴らしになってくれ……っかはっ!?」

 拳を老人の顔にめり込ませようとした瞬間、男は横合いからの衝撃に肺の息を吐き出し、両手をばたつかせた。

 男達が老人の方ばかりに気を取られている間に、静かに数歩の距離を詰めたローラが、体を沈めて肘打ちを入れたのだ。解放された老人が、土手の上にへたり込んで咳き込む。

「なんだ、んのアマ!」

「邪魔しやがってっ……!」

 一瞬あっけに取られていた、袋を奪い取った男がローラにつかみかかろうとする。体勢を崩した男が胸をかきむしってそれに続く。

「マルクス、あとよろしく」

「……まったく、あなたときたら。やれやれ、私は非力な文官なんですけどね」

「知ってるわよ」

──騒ぎに気づいた人々が集まってくる頃には、男はどちらも片付けられていた。


「大丈夫?」

「ああ。世話を掛けたな」

 ローラが汲んできた水を飲み干して一息つくと、老人は彼女を見上げ、笑みを浮かべた。さっきまで乱暴されていた老人とは思えぬその不敵さを面白く思いながら、彼女は尋ねる。

「さっきの袋、中身は大丈夫?」

 マルクスが拾い上げていたそれを渡すと、老人は確かめもせずに懐にしまい込む。

「うむ、かたじけない」

「ふうん……見なくていいの、大事なものなんじゃないの? さっきの音、お金じゃなかったわよね」

 男たちは硬貨の音と勘違いしていたようだったが、ローラの耳には何か水晶のようなものが触れ合ったときのような音に聞こえていた。

「ほう」

 老人は顎をつまんで、すがめるようにローラを見た。

「確かに、儂にとって失うたら難儀するものではある、このように、人々が羽目を外しておる中、襤褸を纏ってうろつかねばならぬほどにはな」

「なら気をつけなさいよ……。っていうか、おうちの方心配してるでしょう。早いとこ帰った方がいいんじゃないの、日も落ちたし」

 こんな常識人ぶった説教をしていると、マルクスにどの口が言うのだとか後で笑われそうな気がするが。

 老人はふっ、と笑った。

「路銀がのうなってな」

「──ああ、そういうこと」

 ローラは自分の片耳に手をやって、そこを飾っていた金の耳飾りを外す。

「これ一つで足りるかしら、あなたのおうちまで」

 そしてマルクスに向かって言い訳をする。

「……あたしの化粧代から出したやつだからね。宝物庫とか伝来とか謂われもないわよ」

「別に、そういった心配はしておりませんが」

「あっそう」

 握らされた老人は、面食らったようだった。

「早く帰りなさいよ。あたしたちももう、帰るから」

「そう……じゃな」

 その一言は溜息のような笑いを含んでいて。

 後になって何度もローラは、老人とこの時出会ったことを何故深く考えなかったのか、思い返すことになった。

──朝焼けと夕焼けの前後には、人ならぬものに遭うという。



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