貪欲
第三章 貪欲
前半 陰謀
瑞穂証券の本社は東京にある。スカイツリーが良く見える高台は、駅から登り坂を15分歩かなければならない。高津伸介はこの坂を10年登ったり下りたりした。海外投資部の部長になって間が無い。同期の社員の中で多分一番出世が速かった。
「高津君ちょっと来てくれ。」
「はい、すぐに参ります。」
「ドアを閉めていいよ。」
「はい。」
「うちの会社が香港の会社を買収することになったんだ。これはまだ正式に決まったわけではないが心の準備だけはしておいて欲しんだがね。」
「はい、金子副社長のご配慮に感謝いたします。」
「君の家族はどうかね。もし香港へ移るとしたら?」
「ああ、それは大丈夫だと思います。家内は外国が好きですから。子供は二人ですが、まだ幼稚園の年で、何も心配いりません。」
「それならもし決定したらすぐに知らせるよ。」
伸介は香港へ行くことを希望してはいなかった。海外へ出るには飛行場へ行き、税関をとおり、ゲートで待たねばならない。無駄な時間が多いし、最近の飛行機失踪事件などで、危険を伴っている。最近はこの危険を会社が認めて特別な保険があった。もし海外で何かの事故があると遺族に多額のお金が払われる。海外で死亡した場合には5千万円の保険金が出る。
「千代子、ちょっと話があるんだけど。」
「何なの?何かいいこと?」
「まあまあ良いことだよ。うちの会社が海外勤務特別保険を買ってくれたことが一つ。もう一つは家族も一緒に香港へ転勤になること。」
「香港?いつから?」
「来月だよ。まだ20日くらい準備の期間があるよ。」
「海外でもヨーロッパだったら良いのに。アジアはあまり好きじゃないわ。」
「まあ、でもね、子供たちにはいい経験になると思うよ。」
香港へ行く前に伸介は千代子に海外勤務特別保険の内容を一応説明しておいた。
香港の飛行場はこれまで千代子が行ったことがある場所とは違っていた。初めてアジアの国に足を入れた。海外旅行はいつもヨーロッパかアメリカだった。アジアの諸国にはあまり興味がなかった。
飛行場からタクシーで高層マンションへ着いた。16階までエレベーターで昇った。一歩エレベーターを出ると、大きなドアが二つあるだけだった。ホテルのエレベーターは普通長い廊下を歩いて各部屋へ行くから、二軒だけの専用エレベーターには驚いた。
部屋番号1678は偶然だろうが覚えやすい番号で嬉しかった。入ってすぐの所に広いスペースがあり、玄関にしては贅沢だった。かなり離れた右手にリビングのセットが見えている。その向こうには大きなガラスのドアから光が入っているのがわかる。子供二人と手を繋いでゆっくりとリビングの方へ足を向けた。
家具は既に揃っているが、必要最小限度のものだけで、部屋を飾るものは何もない。壁は趣味がよくない派手好みの中国っぽいパターン。照明は明るさを倍にすれば丁度良いだろうと思った。天井が高いせいで床に置くタイプの照明器具が必要だ。
寝室は4部屋ある。マスターベッドルームは広い風呂場がついていて、洋式の豪華な雰囲気を持っている。子供用の部屋が二つと客用の寝室
が一部屋ある。伸介が選んだマンションに文句はない。
「お荷物ここに置いて宜しいでしょうか。」
「ええ、ドアの脇に並べてくれますか。」
「はい、承知いたしました。」
マンションのドアマンがタクシーから大きなカートを使って運んでくれた。
「ただいま。」
「お帰りなさい。会社大変でしょ?どお、中国人の社員は。」
「思ったより言葉が通じるよ。英語ができればどうにかなるさ。」
「明日は子供たちの幼稚園に行ってみるわ。」
「ここは車で動くよりバスとか地下鉄が楽だよ。」
「そうね。少しずつ慣れるしかないわね。」
千代子は幼稚園を出て、香港の家具のお店に行った。大きな店舗では壁にかける絵と、中国らしい置物をいくつか買った。中でも高さ50センチくらいある細長い鉄製のモンゴル人の彫刻が気に入った。勇壮なイメージの鎧とかわいい目とが対照的だった。
伸介は毎晩付き合いがあり、家に戻るのは夜中だった。中国人の社員たちは社交が好きで、仕事の後で飲み屋へいくことも仕事のうちだった。日本でも同じように伸介の帰りは遅かったが、近くに親兄弟が住んでいたから千代子は退屈しなかった。母親は喜んで子供のお守りをしてくれたから、心配せずに友達と楽しめた。
伸介と千代子はほとんど会話がなかった。千代子が目を覚ますと伸介は出社した後だ。子供を寝付かせて11時には床に入る。毎日何もすることがない。一人でいる時間があり過ぎる。会話が恋しくなった。親や兄弟とスカイプをしても何も楽しい話ができないから、かえってスカイプはしたくない。
マンションにはプールやジムがあった。一人でプールに入り、その後でジャクジで温まるのは楽しみだった。ジムではいつも数名の人が器具を使っていた。千代子はゆっくりと歩ける歩行器具に乗って考え事をしながら毎日30分くらい歩いた。
「日本の方ですか?」
「ええ、そうですけど。」
「僕も大阪から来たんですよ。」
「ここに住んでらっしゃるの?」
「ええ、まだ昨日入居したばかりです。ちょっと試しにこのジムに来たんですよ。」
千代子は小柄で、肩まで伸ばして少しカールが入った髪型だ。目が二重で下がり目なのが特徴だ。かわいいタイプの女性で、中国人の顔とは違っていた。横顔が特に日本人らしい雰囲気があった。
「どちらにお勤めですか?」
「メーカーです。工場が夜も稼働していて、僕は日中暇なんです。短期の出張ですよ。3か月ほどで帰国します。」
「じゃあご家族は一緒じゃないの?」
「まだ独身です。」
「じゃあそろそろのお年でしょ。」
「そうですね。その日のために貯金をしていますよ。」
「うちの主人は仕事が忙しくて子供の顔を見る時間がないからかわいそうよ。」
「よかったら一緒に近くの中華を食べに行きませんか?」
「あら、いいところ知っているの?」
「ええ、この界隈では一番評判がいい中華のお店を同僚から聞きました。」
「嬉しいわ。下のロビーで後30分くらいしたらお会いしましょう。」
香港には洒落た中華のお店がたくさんあった。洋風な雰囲気と高級な内装がうまく調和しているところは千代子の好みだった。
「滅多に外食なんてしたことないのよ。一人ぼっちだから。」
「僕も一人でこういう雰囲気がいいところには入る気がしませんよ。」
「お名前聞いてもいいかしら?」
「ああ、ごめんなさい。東条達也です。」
「私は高津千代子です。宜しく。」
二人掛けのテーブルがあるのはきっとデートをするお客さんのためじゃあないかと千代子は思った。達也は女性にかなりもてた。眉毛が濃く、目が鋭いところが男っぽかった。日本人にしては背が高い方だ。千代子はまたここで会いたかった。
「とってもおいしかったわ。私が払いますね。多分私の方が年上だから。」
「はは、そんなことはできませんよ。僕は若作りなんですよ。」
「年の話は止めて、ここで何か楽しいことでもあったら教えていただけます?」
「そうですね。一人で行っても楽しいところって無いんですよね。」
「それもそう。私が時間を持て余している時にお誘いしてもいいかしら?」
「もちろんいいですよ。僕も退屈している時の方が多いですから。朝は弱いですけど。お昼頃には起きてどこかでお昼食べます。」
「そうなのね。私もお昼は子供が幼稚園に行っていないから、いつもひとりよ。」
毎日決まって同じ中華のお店でお昼を取った。
「ここにひとりでお住まいなんて贅沢ね。」
「最上階にはベッドルームが二つの独身用があるんですよ。」
「あら、知らなかったわ。」
「よかったら最上階からの眺めをご覧になりませんか?」
「独身男性のお部屋に急に入るのは申し訳ないわ。」
「はは、僕は綺麗好きなんです。何も飾りがないし、洗濯物は押し入れに放り込むだけですから、部屋はきれいなもんです。」
「じゃあ、ちょっとだけお邪魔しようかしら。」
達也の部屋はエレベーターを降りて廊下を歩いて3軒目だった。家族用とはずいぶん作りが違っていた。部屋の雰囲気はモダンだった。リビングには黒いエル字型のソファーセットが床面積をほとんど全部埋めていた。マスターベッドルームはダブルベッドが真ん中にある他はドレッサーがあるだけで閑散としていた。もう一つのベッドルームはオフィスにしているようだった。窓からの景色は真下を見るとめまいがするほど高かった。
「わあ、高いわね。私には無理ねこの高さは。高所恐怖症だから。」
達也が左手にグラスを持ち、右手にコニャックを持っていた。
「昼間からお酒をお勧めしたら悪いかな。僕は食事の後でコニャックをすするのが好きなんですけど。」
「じゃあ、いただくわ。」
エル字型のソファーは普通以上にふわふわだった。腰かけると体全外が沈んでしまう感じがした。窓を正面に見て、並んで腰かけた。なんとなく頭を達也の肩にもたれかけるような姿勢になった。達也は千代子の肩に手を回してじっと何かを考えているようだった。
千代子は香港に来てから一度もセックスはなかった。伸介の態度は夫婦の関係はどうでもいいように見えた。達也が肩から手を胸に下げても違和感がなかった。コニャックの甘い香りが達也の口に残っていた。
千代子は伸介が会社一本の方がかえって気が楽だった。昼間の浮気を正当化できた。夫から無視されている自分が少しでも楽しい日を迎えることができることに喜びを感じた。
「今日は子供たちを連れて動物園にでも行こうか?」
「そうね。日曜日くらいは何かしなくちゃね。」
「どうだい、毎日。友達はできたの?」
「いいえ、そんなチャンスがないのよ。日本だったら色々なお教室があるのに。」
「それもそうだな。」
千代子と伸介は動物が好きだった。東京では犬を三匹飼っていた。香港に着いて間もなく千代子と二人の子供がパグを飼うことにした。香港の雰囲気とぴったりしていると思った。
動物園から家に戻って達也の服の洗濯をした。いつものようにポケットの中を空にする作業から始まり、一着ずつ洗濯機に放り込んだ。シャツの胸のポケットに小さな紙切れが入っていた。走り書きで電話番号と中国人の女性っぽい名前が英語で書いてあった。リン・ペング。千代子はジーンズのポケットにこの紙切れをしまった。
翌日千代子は目覚めが悪かった。今日も達也と会うつもりでいたが、何か胸がすっきりしなかった。リン・ペングは誰なのか知りたかった。まだ朝8時だが伸介はとっくに出社した後だ。この電話番号に電話しても多分中国語が帰って来る。
「ここでお昼を一緒にするのはこれでもう一か月になるのよ。」
「そうですか。あっと言う間ですね。」
「あなたは中国語できるの?」
「ええ、少しだけ。でも英語なら問題ないですけどね。」
「もし中国人の女性に電話していただけるか聞いたらやってくださる?」
「え?女性に?」
「そう。この女性のお仕事を知りたいの。会社の名前だけでも知りたいのよ。」
「何か事情があるんでしょうね。でもいいですよ。」
達也は快く引き受けた。英語が通じた。どうも普通の会社の社員のようではない。質問を少し変えて、あいまいに聞いた。
「あなたのサービスを使うとすると一日いくらですか?」
「それはどれだけ時間がかかるかによります。丸一日のエスコートは朝9時から夜9時までで500ドルです。」
「じゃあいつかまたお電話します。サンキュー、バーイ。」
会話を横で聞いていた千代子の顔がひきつっていた。伸介がエスコートサービスを使って遊んでいたのだ。家庭をほっぽり出して。日本の親や兄弟と離れて一人で住んでいる自分の気持ちがわからずに、遊びまわっていたのだ。
「あなた、リン・ペングさんと私話したわ。」
伸介は一瞬何のことかわからなかった。千代子は本気で怒っている。子供たちはとっくに寝ていた。夜中1時半まで千代子は起きて伸介の帰りを待っていた。大きな家のリビングルームから子供部屋までは距離があったので少々の声はドアの向こうまでは響かなかった。
千代子は伸介が言った言葉が気に食わなかった。自分勝手なことばかり理由をつけて、弁解した。千代子のことなどまったく考えてくれていない。怒りがおさまらないままベッドに入った。伸介はいびきをかき始めた。
千代子は達也との関係を深めて、この情けない人生を転換しようと思いついた。このままでは伸介の言うとおりに生きるしかない。伸介の会社は社員に海外勤務特別保険をつけていた。事故死の場合には5千万円が遺族に渡されることを知っていた。
エスコートの中国人の女に対して嫉妬心が湧き上がり、眠れなかった。朝4時頃に伸介の様子を見るとまだいびきをかいていた。ベッドの横にはモンゴル人の鎧を着た鉄製の彫刻が置いてあった。
千代子はモンゴル人の鎧の部分を右手に持って振り上げた。鈍い音がして、伸介の頭が二つに割れた。ベッドは血だらけになった。
伸介は重かった。ベッドからペルシャ絨毯の上に死体を転がした。ドスンと鈍い音がして伸介が絨毯の上に落ちた。千代子は絨毯を丸めて伸介の死体を隠した。
この時間には誰も部屋の外に人がいないのを知っていた。丸めた絨毯を引きずってエレベーターまで運んだ。地下2階は倉庫となっていて、保管する家具やマンションの所有物が山のように積んであった。丸められた絨毯はそこに放置された。
朝になってベッドはきれいなシーツに取り換えられていた。ベッドカバーを置くと何事もなかったように見えた。千代子はいつものように子供を幼稚園へ連れて行き、お昼は達也と一緒だった。
翌日千代子は家具店へ行き、ベッドを買った。新しい絨毯やベッドの脇に置く小型のデスクを二つ、ベッドとお揃いのドレッサーも買った。古いベッドルームの家具は、すべて廃棄してもらった。
瑞穂証券は伸介が行方不明となり、警察へ届け出た。千代子も捜査に協力した。伸介が夜退社した後で、姿を見た人はいなかった。行方不明の場合には保険金は出ない。死体が発見されないと死亡が確認できないためだ。
3か月経ち、マンションの管理人が地下2階のテーブルを取りに行って、極端な異臭がすると警察に届け出た。伸介の死体が発見された。ペルシャ絨毯がどこで使われていたものかを追及した。家族、瑞穂証券の社員、友達関係、すべて警察の調査の対象になった。誰もこの絨毯を見たものはいなかった。千代子はその絨毯は見たことが無いと言った。
警察は確定的な証拠がなく、捜査は行き詰った。伸介の死体と絨毯は香港の警察の管理のもとに保管された。死因は固い物による頭骸骨殴打と記録された
千代子は伸介がその晩家に帰っていなかったと証言した。子供はとっくに寝ていたので子供たちもその証言を裏付けた。瑞穂証券の社員の中で伸介がエスコートサービスを使っているのを知っている同僚が2名いた。捜査はエスコートサービスへと向けられた。
千代子は子供を連れて親元へ帰っていた。2年過ぎた。達也とは香港で恋愛しただけで別れた。
子供たちが小学校へ行った後で、千代子は新聞を取りに郵便受けに行った。新聞と一緒に手紙が数通あった。その中の一通は千代子宛だった。一枚の紙が入っていた。ワープロで書いてあった。
「私はあなたが犯した犯罪の動機も方法も知っている。」
***
濃いい緑色と黄緑色が交じっている高い丘の麓に薄茶色のビーチが広がっている。タヒチ島のビーチで二人が日光浴をしている。男は体格が良い。女はビキニが似合っている。久々に会った二人は過去を思い出しながら、真昼の直射日光を浴びている。
「どうだった、大阪は?」
「大変ね、お金を稼ぐのは。」
「何してたの?」
「モデルの仕事で忙しかったわ。あなたはずっとヨットであちこち行ったの?」
「そう。ニュージーランドまで行ったよ。一人でいるより楽しいと思って兄を誘ったけど、アイツ困るよ、金の話ばかりで。働く気がないくせに。」
「相変わらずね。真一は。」
「真面目に生きる気がないのさ。一か月で陸へ連れて行ってオーストラリアで別れたよ。」
洋二は日本のプロサッカーで活躍したが、足を故障して引退した。プロの時代に貯めたお金で、ヨットで世界一周をするところだった。佐和子とはプロの時代に知り合った。モデル風の顔立ちは一目で洋二の心に焼きついた。
佐和子は独立心が強い女だ。モデル業と化粧品の販売で高収入があった。時間を調整して自分の好きなことをした。眉毛を太目にして、マスカラで目がきれいに見えるだけの薄化粧。ビキニのモデルの体型だ。
2年前、洋二と佐和子は一年間付き合った結果、仕事が忙しいのと、将来の希望があまりにも違っていたので別れた。しばらく別の道を歩んで、お互いに相手の価値がわかった。この再会で二人が結婚まで進むか、永遠に別れた方がいいかを考えたかった。
洋二は怪我をした後で6か月間の休養期間があった。一度もサッカーの練習はしなかった。本を読み、将来何をするべきかを思考した末に、ヨットを買って海に出ることにした。佐和子はモデルの仕事で大阪に住んだ。貯金はできたが、仕事は退屈だった。好きになれる男は現れなかった。
佐和子は親友の汀子とどこに行っても携帯で連絡した。一人だけでいるのは好きではなかった。孤独を楽しめるタイプではなかった。洋二はひとりで太平洋に浮かんでいても平気だった。
「どう、仕事?忙しいの?」
「仕事はあるけど、この頃面白くないのよ。どうでもいいようなものばかり入って来て。」
「私もよ。景気が悪いからかなあ。」
「どう、洋二?元気?」
「ひとりで考えたいって言ってヨットで海へ出たでしょう。あれ以来会ってないわ。」
「そうか、ショックね。あなたはまだ彼の事好きなの?」
「それはね、好きよ。良い人よ、洋二は。今タヒチにいるのだって。会いに行こうと思っているのよ。」
佐和子がタヒチに飛び、一週間前にヨットで先に来ていた洋二と再会した。ヨットを基地にしてタヒチの自然を満喫していた。
「ヨットに一人でいるのは楽しい?」
「いい経験になってるよ。サッカー人生が急に終わったから。」
「私もいつまでもモデルをやってるだけでは退屈よ。この先何をすれば満足できるのか考えてるのよ。」
「一緒にヨットで生活してみる?」
「ええ、そのつもりで仕事を入れてないのよ。」
「ちゃんと計画してたんだ。」
「勿論よ。」
「昨日真一からまた電話が来てさ。大事な話があるから会って欲しいって言ってるんだよ。」
「またお金をたかりに来るのではないの?」
「いや、今回はお金の話ではないってさ。」
「そうなら良いけど。兄弟の仲がいいのは知ってるわ。」
洋二は兄の真一が何かで成功してくれることを願っていた。幼い頃に父親が事業に失敗し、破産して自殺した。母親は自活力がなかったから、洋二は高校を出てすぐにプロのサッカー選手となった。怪我をするまでは経済的に恵まれた。兄は洋二がスポーツの世界で成功したことを讃えたが、自分の事業はうまく行かなかった。
「久しぶりだな。どう、事業は?」
「なかなか大変だよ。金儲けは難しいね。」
「タヒチで彼女と一緒なんて最高だな。」
「佐和子は良い子だよ。」
「俺も彼女がいてさ、いい人生だよ。」
「大事な話って何なのさ。」
「俺の友達に金持ちがいてね、投資で成功してるんだ。銀行にお金を置いておくのはもったいないだろ。」
「いや、こうして勝手なことして生きていられるのは銀行がお金を管理してくれてるからだよ。」
「そうじゃないよ。銀行は客の預金を使って、利息がいい投資でもうけるんだよ。」
「まあ、そうかな。」
「高利息の投資をすることが一番得だよ。銀行はだめさ。」
「それはわかるけど、銀行に預けておけば安心していられるよ。」
真一は洋二が思うように話に乗ってこないのに、しびれを切らした。昔のように口論になった。しかし感情が高まるのは一時的だった。
汀子が佐和子に何度電話しても出なかった。タヒチで使う携帯は繋がりが悪かったので、汀子はそれほど気にかけていなかった。洋二がヨットで海に出たことを友人たちは知っていたので、誰も洋二には電話をしなかった。
一か月後、汀子は佐和子の母親に電話をした。佐和子と連絡が取れないので、佐和子の様子を聞きたかった。
「お久しぶりです。汀子です。お元気ですか?」
「あら、久しぶりね。」
「お久しぶりです。最近佐和子さんとお話しなされました?」
「最後に話したのは2か月前くらいのことよ。その時は洋二さんのお兄さんがタヒチへ遊びに来るって言っていたわ。兄弟の仲があまりよくないから嫌らしいわ。でもこの一か月何も連絡がないのよ。おかしいわ。」
「私もまったく連絡が取れないのでちょっと心配になってお電話差し上げたのですよ。」
佐和子の母と汀子は警察へ行き、行方不明の話をしたが、タヒチでの捜索はできないからと断られた。しかし佐和子と一緒にいるはずの洋二に連絡がつけば居場所がわかることを説明した。
洋二の親と真一にも連絡をした。誰も洋二と最近連絡がなかった。洋二の親が持っている情報に、洋二のクレジットカードと銀行の口座があった。ヨットで旅立つ前に親にこうした情報を渡してあった。
「昨日洋二さんの小切手が銀座にあるコイン売買専門店で使われたと情報が入っています。」
「それで少し安心しました。」
「銀行からの連絡だったんです。どうも小切手にサインしたのは本人ではないと判断しているようです。」
「どういうことですか?」
「別人がサインしてゴールドコインの支払いに使ったのです。」
「それで、そのゴールドコインは買い手に送られたのですか。」
「いいえ、銀行が小切手を引き取らなかったのでその売買は成立しませんでした。」
「じゃあ誰かがそのコインを買いたいと思っているだけですね。「
「ええ、そうです。金額が5百万円ですから、銀行は小切手のサインが本人のものであることを確認する義務があります。」
「洋二と佐和子にもしものことがなければいいのだけど。」
警察は洋二の銀行から報告された情報を元に、本腰で捜査を開始した。真一が警察で話した内容と佐和子の母親からの情報とで食い違いがあった。
「真一さん、弟さんとは最近会ってないそうですね。」
「はい、会っていません。」
「最後に会ったのはいつだか覚えてますか?」
「そうだな、ずいぶん前のことですよ。多分3か月くらい経ったのではないかと思います。」
「そうですか。明日もう一度来ていただけますか。その時には必ずパスポートを持って来てください。」
「わかりました。」
警察はコイン売買のお店の主人と連絡を取り、罠をしかけた。小切手をサインした人間をコイン売買のお店へ呼び寄せるための工作だ。
「もしもし、洋二さんでいらっしゃいますか。」
「はい、そうですが。」
「私はあなたからのゴールドコインの注文をここに置いてあります。当店にいらしてゴールドコインをお買いになれます。ただ直接お渡しせねばなりません。明日の午後3時にお越しいただけますか。」
「わかりました。どうもお電話ありがとうございます。」
ゴールドコインのお店の前で、車に乗った私服警官二人が見張った。3時に店に入ったお客と店の主人が話しているのをガラスの窓越しに見ていた。主人が頭をかく仕草の合図で、すぐに車から二人が降りて、お店に入り、逮捕した。
「この小切手のサインは洋二さんのものではないことを銀行が証明したよ。これはお前のサインだろ。」
「弟から頼まれてしたことだ。」
「いつどこで頼まれたんだ。」
「タヒチに弟が行く前にオーストラリアで。3か月くらい前に。」
「このゴールドコインを買ってどこで洋二さんに渡すことになっているのだ?」
「弟から連絡が来るのを待つことになっているのです。」
「じゃあ弟さんはタヒチで健在なんですね?」
「ええ、勿論。」
警察はこれ以上追及ができなかった。小切手の偽装の署名が洋二の指示のもとで行われたと主張したからだ。
タヒチの沖で死体が浮いた。男性と女性の死体を見つけたのは釣りをしていたタヒチ人だった。
真一は洋二の署名が入っている小切手を使えばゴールドコインを渡すと言われた。数日間真一は小切手の偽装の署名を書く練習をした。家を出る前に郵便箱から封筒を4通手にした。そのうちの一通は送り主の名前がなかった。中には紙が一枚入っていた。
「私はあなたが犯した犯罪の動機も方法知っている。」
***
ヤシの木に囲まれた小さな教会は、地元で生まれたハワイ人だけで構成されていた。先祖代々伝わった古い家がこの地域に集中していた。そこに住んでいる人たちは高齢者が多かった。若い人たちはホノルルで仕事を見つけて出て行った。
オアフ島のダイアモンドヘッドの北にあるこの村では、長年犯罪がなく、何かが必要な時には隣人に頼むのが当たり前であった、隣人を疑うことはまったくなかった。
教会員は48名、そのうち日系人が28名、サモア系が20名。女性の会員の方が多かった。どの家庭でも女性が財布のひもを握っていた。夫はのんびりと仲間たちと賭け事をして毎日を過ごした。ポーカーは人気があった。贅沢はできないが、何かで困る種もなかった。たとえポーカーで負けが込んでも、長年の付き合いで、取り立てられることはなかった。
「アメリカの経済は落ち込んでるわね。」
「いつまで経っても生活はよくならないわよ。」
「昨日あの美容室で聞いたけど、民子さんが言ってたわよ、いい投資が見つかったって。」
「投資するお金なんか持ってるのかしら。」
「それがね。お金はいらないんですって。」
「じゃあ投資にならないでしょ?」
「家があればそれを担保にしたお金でいいんですって。」
「じゃあ家に住めなくなるの?」
「そうじゃあないわ。家の価値よりも低い金額なら銀行が出すんですって。」
「じゃあローンでしょ。」
「そうだけど。預けたお金の20パーセントが毎年半年ごとに送ってくるんですって。」
「現金で?」
「いいぇ、小切手よ。投資会社はしっかりしたとこですって。」
「でもローンを返さなきゃならないでしょ。」
「ローンは年に8パーセントくらいだから、半年ごとに20パーセントもらえれば大得よ。」
「それはそうね。」
民子が教会の会員だったので、この話は教会員の間で広まった。
民子には家族がいなかった。両親は民子が5歳の時に交通事故で二人とも即死した。一人っ子だったので叔母に引き取られた。叔母がこの教会の会員だったので民子も会員になった。
民子は日系ハワイ人。黒髪にパーマをかけていた。上品な顔立ちだ。友達が大勢いた。カリスマ的なところが、人の信頼を買った。
「民子さん、元気?」
「あら、百合子さんね。」
「あの投資の話だけど、何か書いたものある?」
「ええ、ちょっと待ってね。ここにあるは。」
「このパンフレットはずいぶん上等ね。写真もたくさん入ってるし。」
「しっかりした会社よ。マウイ島で大きなモールを建てるプロジェクトですって。」
「もう建設してるの?」
「いえ、まだこれかららしいの。間もなく株主の応募は締め切るらしいわ。」
「じゃあ、投資はこの会社の株主になること?」
「そうよ。株主としての特典もたくさんあるの。モールができたら株主の特別割引があるそうよ。それも大幅のディスカウント。」
「あと10日で締め切るって聞いたわ。定員枠が一杯になるんですって。」
民子はこうした話し方で、短期間に30名以上の株主を得た。株主になった者は、投資をするために、先祖代々から引き継がれた家を担保にした。
百合子はおばあちゃんとお父さんを説得して、家を担保にして一千万円のローンを銀行から借りた。
モール建設のプロジェクトはまだ設計の段階だった。実際に建設が確定し、法律的に許可がおりて、工事が開始されるのは1年先のことだった。
民子はマウイ島の実業家近藤浩二からこの話を聞いて、資金集めに協力することにした。契約で民子は投資額総額の1パーセントを受け取ることになっていた。
投資総額は30億円から40億円を予定していた。
投資をした人たちは契約を読まないで署名した人ばかりだった。民子の知り合いで、同じハワイの人間だから、騙されることは考えられなかった。
この契約には解約条項も、株主に対する配当金の計算の方法も、プロジェクトが何かの理由で破棄される場合の保証も、一切入っていなかった。どんな事態が起こっても、投資金の払い戻しはないとはっきりと書いてあった。
2008年にアメリカの不動産市場が暴落した。ハワイの不動産も急激に下落した。一年間でそれまでの不動産の価格から半額近くまで値下がりした。家を担保にして借入れした人は、ローンの支払いだけが残った。マウイ島のモール建設は中止となり、投資者はパニック状態となった。
「うちの家を手放すなんてできるもんか。先祖代々受け継いできたんだ。」
「銀行から催促されても、ないものはないんだ。」
「家を売るにも売れないさ。半額でなんか売れるもんか。何十年もここに住んでるんだ。」
民子は教会から姿を消した。投資者が民子と会うことはできなかった。行方不明となった。民子には叔母がいたが、2年前に死亡した。
教会の会員30名が被害にあった。投資会社は倒産手続きを取ったので、資産は管財人が処分することになった。投資額がどこかに隠されているのだろうが、帳簿上は資産をほとんど使い果たしていた。会社の銀行口座からスイスの銀行へ送金したことはわかっていた。
投資会社のオーナー近藤は行方不明だった。教会員がほとんど皆破産したので教会も破綻した。
「こうなったのは一体誰のせいだ?」
「民子の話に乗った俺らが悪いのか。」
「先祖代々静かに暮らしてきたのに、こんなばかなことがあるのか。」
「欲をついたからだろ。」
一年以上経っても失踪した民子と近藤は姿を見せなかった。警察が失踪事件として捜査を開始した。
西マウイのラハイナからラナイ島へ行くカタマランで、観光客は大型スーツケースが浮いているのを見つけた。梶を取っていた男が嬉しそうな顔でそれを引き上げた。
「ずいぶん重いぞ。金でも入ってるんじゃないかな。」
「わあ、こんな沖まで流れてくるんだ。」
スーツケースの中には人間の胴体が入っていた。頭も手足も切断してあった。体のガスが水中でスーツケースに溜まり、人間の体は水上に浮上する。
海上警備隊から警察暑に死体が渡された。鑑識課が解剖した結果、女性だと断定された。
海上警備隊はスーツケースが発見された場所から想定して、マウイ島の西部からの潮の流れでそこまで着いたと見た。その近辺で投棄された残りの体の部分を捜索した。大型スーツケースが見つかり、頭と手足が入っていた。鑑識課は民子だと断定した。
「あの民子さんが殺されたんだな。」
「近藤はどうしたんだ。あいつが悪者だろ。」
「誰が民子を殺したんだろうな。」
「近藤じゃあないかな?」
「そうだろ。多分金を隠した場所を民子が知ってたんじゃないか?」
「近藤が大金を独り占めにしたんだろ。」
近藤浩二はモールの建設工事が中止になった翌週にハワイを発った。近藤の家族はオアフ島に住んでいるが、いつどこへ近藤が行ったのかまったく知らなかった。失踪届を出していた。
沖縄の南のはずれにある糸満市の小さな食堂で近藤は昼食を取っていた。鮮魚がこれほどおいしいところはないと思った。ハワイの家族とはまったく縁を切った。大金を隠しているから、これからの人生を頭に描いていた。
ホテルへ帰って水着に着替えた。窓から眺めた海はサンゴ礁の色がグリーンと青とをパレットで混ぜたようだった。プールで泳いでから、ホテルのフロントに寄った。部屋へ戻り、昼寝をしようとベッドに横になった。その時にふと机の上の白い紙が目に付いた。ベッドから体を起こして手にそれを取った。一行だけのメッセージだった。
「私はあなたが犯した犯罪の動機も方法も知っている。」
後半 発掘
千代子の実家は福島。雪が降っていた。息子新太郎と娘栄子は小学校へ通っていた。雪が積もっているので、家に着くまでに30分かかった。香港での生活が突然終わった理由は、伸介が会社の帰りに襲われて殺害されたからだと子供たちに言ってあった。
葬式は伸介の両親が住む東京で行われた。2年以上経っても、保険金はおりなかった。保険会社の説明では伸介の殺害に多くの疑惑があり、事故死ではないことが理由だった。
香港警察が捜査中だった。ペルシャ絨毯がどこから来たのかを探るのが一番重要な捜査だった。この絨毯を鑑識課が入念に調べた結果、人間の毛と犬の毛があった。毛のDNAを調べたところ、人間の毛はすべて家族のものと断定した。犬の毛はパグの毛だと断定された。
香港警察の刑事はマンションの管理人に、マンションに住む住居人の中でパグを飼っていた家があるか聞いた。一軒だけだった。
千代子は子供たちが学校から帰って来るのを待っていた。福島県警のパトカーが家の前に停まった。
***
「真一さん、弟さんと連絡が取れましたか?」
「はい。これ弟が署名した小切手です。」
東京の警視庁に真一が訪れた。この時までに真一が洋二と佐和子を殺害した犯人であると断定していた。その証拠は真一のパスポートと、洋二が署名した小切手だった。
真一のパスポートを検査して、タヒチへ行ったことが実証された。この旅行の期間は洋二と佐和子がタヒチにいた時と一致した。
洋二と佐和子の死体が発見されたのは、真一が警視庁へ呼ばれる前日だった。この情報は誰にも伝えていなかった。洋二が小切手に署名をして、郵送でそれを東京へ送ることは不可能だった。真一の証言はすべて嘘であることが証明された。
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沖縄県警はホノルル警察発行の指名手配の情報を受け取った。女性殺害容疑と金銭詐欺の容疑が説明されていた。容疑者は近藤浩二。タミコ・ロイドと言う日系アメリカ人の女性を殺害した。ハワイの教会の会員たちから30億円を騙し取り、逃走した。
糸満市の警察暑に近藤浩二の指名手配の情報が那覇警察から入った。近藤浩二の顔写真も大きく掲載された。ホテルのフロントの女性が指名手配の写真を見て、糸満警察に通報した。
近藤浩二は終身刑を言い渡された。30億円の行方を知っている者はいなかった。
終わり