雪と共に君が腐る
最後のわがままに、俺はつき合うことにした。
「雪が見たい」と、彼は初めてわがままを言った。それは彼の両親に零した言葉ではなく、少ししか話したことのないクラスメイトである、俺に零された言葉だ。俺と彼は同じクラスという事以外は接点など存在しなかった。運動部に所属して、常に暴れているような俺とは反対に、彼はいつも椅子に座り、本を読んでいる物静かな生徒だった。話した事といえばふとした日常会話くらいで、印象に残るようなことはひとつもなかった。そして気づけば、彼はいつの間にか教室からひっそりと消えていた。
彼はいつも体育を休んでいた。クラスメイトの話しによると、心臓が弱いとかであまり運動をしてはいけないらしい。そういえば休むことも少なくなかった、と話しを聞いた時に思い出した。幸薄でどこを見ているのかわからない彼は、一部の女子にモテていて、女子は彼が休む度に騒いでいたのだ。嫌でも耳に入ってくる、という言い訳をする。今回も二三日もすれば学校に来るだろう、と思っていた。けれど彼は何週間経っても学校には来ず、ついには担任から「家の都合で転校した」と聞かされた。それからしばらくして彼の机と椅子はどこかに持っていかれてしまった。みんな転校なんだ、と納得していたが、俺はどこか引っかかっていて、担任に無理半分に、彼が長期入院しているのだと聞き出した。それを聞き出してどうするんだ、とも思ったが、胸のもやもやがつっかえて仕方なかったのだ。さらには住所まで聞き出し、俺はお見舞いに行った。
彼の両親には親友だと嘘をついた。けれどその嘘のおかげで入院を知っていた事も怪しまれなかった。彼の今回の入院は相当長くなるらしく、学校もそれで辞めてしまったらしい。急な体調悪化のせいだと、彼の母親が寂しそうに呟いてた。
病室のドアを静かに開ける。中は真っ白な空間で、彼が寝ているベッドだけが、まるで異世界空間のように思えた。どこかこの世界から浮いていて、近づいたら幻想のように消えてしまうのではないかとガラにもなく考えてしまった。一歩一歩近づくと、彼が足音に気づいたのかこちらに顔を向けた。驚いたような彼の顔に、思わず笑ってしまった。
「なんで中村が?」
「見舞いだよ」
「言ってないけど」
「それは俺の超能力で読み取ったんだよ」
適当な事を言い、見舞い品を渡す。その袋を覗いて、彼は飽きれた顔をしていた。中身はうまい棒全種類だったから。果物なんて食べ飽きてるんじゃないか、と勝手に思って買ったのだ。彼はあまり嬉しそうではないが、それをベッド脇の机の上に置いたから、一応は返さないらしい。俺は窓際の椅子に腰掛けた。
「元気そうだな」
「そうだな」
「嘘だよ、少しやつれた」
「そうかな」
「そうだよ、もっと食え」
「うん」
彼と今までろくに話した事がないせいか、どこかぎこちなかった。その後はなにも話さず、ただお互いの存在を感じ合って、俺は退室した。それから俺はこまめに見舞いに行った。見舞い品はその時々で変えたが、彼からのリクエストでよくブラックサンダーチョコを買って行った。共通の話題がないせいか、会話こそしない。けれどお互い心地いい空間で、お菓子を食べたり、彼は本を読んでるだけで、十分だった。彼もきっと、十分だった。
それから数ヶ月が経って冬が来た。
雪を見たいと言った彼に、どうにか雪を見せてやれないかと思索した。けれど良い方法は思いつかない。見せれたとしても、彼に負担がかかる方法にどうしてもなってしまう。俺は考えた。考えて考えて考え抜いて、ついに行動に移した。とりあえず家にあるありったけの上着とマフラー、薄めの毛布を二枚。それから毎年なにかの為にと取っておいたお年玉、ブラックサンダーチョコとうまい棒。それらを大きなリュックに詰めて、大きく息を吸った。彼は、多分俺に呟いたその瞬間に覚悟したのだと思う。死を、自分の死を。そして、俺に最初で最後のわがままを言ったのだと思う。俺はそれを、人生最大の覚悟で受け止める。
夜中、彼の病室の窓を叩く。ここまで来るまでドキドキして仕方なかった。誰かに見つかったら、と。けれどその心配も無く、俺はたどり着けた。何度か窓を叩くと、彼がカーテンを開けて、そしてすぐに窓を開けた。
「お前、」
「行こう」
「……冗談で受け取っておけよ」
「無理だ、俺は馬鹿だから」
ほら、と服が入ってる袋を差し出して、着替えさせる。それに上着を何枚も重ねて、上に毛布を一枚かけ、俺は彼を病室から連れ出した。ここから雪を見に行くには夜行バスで八時間、そしてそこからまたバスで二時間かかる。彼にそれを説明すると、とても嬉しそうに頷いた。彼の冷え始めている手を取って、俺は彼がついてこれるように、ゆっくり歩いた。それもちゃんと時間に入っているから、バスまで時間はまだまだある。雪こそ降ってはいないものの、夜中なので気温も低い。吐く息は白く、彼と俺だけの息が空気に消えて、まるで世界がそこだけ区切り取られたように感じた。彼も俺も一度も言葉を発さない。けれど繋いだ手から、彼の気持ちが伝わってくるようで、服の袖で目元を拭った。
決して広くはない駅前ののロータリーに止まっているバスに乗り込む。隣同士の席に座り、とりあえずは落ち着いた。彼はうとうとしながらも起きているので「寝て良いよ」と声をかける。彼はそれに頷いて、ゆっくりと目を閉じた。まるで死んでしまうようで、不安になったが、規則的に呼吸を繰り返す彼の腹を見て、安心する。バスがゆっくりと出発して、しばらくすると見た事もない景色が広がった。多分彼の両親は、朝にはお見舞いに来る。そのときに彼がいないことに気づくだろう。いや、その前に看護婦さんが気づくだろうな。自虐的に笑いながら、それでも覚悟はできていた。彼が覚悟していたから。そんな事彼は一言も言わなかった。けれど、外に出たいと言わない彼が、そう言ったのだ。俺はそれを叶えさせてあげることしかできない。少しの後悔と、恐怖に苛まれながら、俺は眠りについた。
放送で目を覚ます。もう既に目的地には着いたようで、何人かは降りている最中だった。隣で眠る彼を起こして、二人でバスから降りる。既に朝日が昇っていて、その眩しさに目を細めた。また二人で手を繋ぎ、今度は県のバスに乗った。
「ここからどれくらいなんだ?」
「二時間くらいかな、終点だよ」
「そっか」
彼は胸の辺りを握りしめながら窓の外を眺めていた。俺はただ、握っていた手を、強くさらい強く握る事しかできなかった。
向かう先はスキー場だった。あの街から近い雪の場所は、もうそこしか思いつかなかった。幸いにも今年は雪を北海道から運んできてそれを敷いたらしいので、雪景色に包まれているとネットで見た。まがい物の景色でも、俺は彼に見せてあげたかった。北海道まで持たない彼の命。短い命。俺にできる精一杯は、これだけだった。
いつのまにか寝てしまっていたようで、前のバス停で目が覚めた。目を何度も擦って、降りる準備をしようと、彼を起こす。けれど彼は何度も何度もゆすっても起きない。名前を大声で呼んでも反応がない。けれど握る手はまだ脈打っていて、生きている事を証明している。もう、長くないのだと悟る。
リュックを置き去りにして、目を閉じている彼を抱き上げてバスを降りる。スキー場までの坂を、彼を抱き上げて上る。何度も変な目で見られたけれど、どうでもいい。俺は、雪にたどりつければそれでいい。スキー客で溢れ帰ったスキー場の端に彼を座らせる。木に背を預けさせて、頬を叩く。
「起きろ、石橋!!」
俺の呼び声に、彼はうっすらと目を開けた。
「なかむら?」
「そうだよ」
「お前のうしろ、まっしろだ」
「うん、雪だ」
ほら、と彼の手に雪を乗せる。彼はそれを弱々しく握りしめて、微笑んだ。
「あぁ、雪だな」
「冷たいだろ」
「うん、つめたいな」
「白いだろ」
「しろいな」
「すぐ溶けるだろ」
「とけるな」
「食べれないぞ」
「そうか」
「それと」
「なぁ、なかむら」
「……なんだよ」
「ありがとな」
彼の手のひらの雪が溶ける。音もせず落ちた彼の手は雪に埋もれて冷たそうだ。それを握りしめて、俺はただ暖めるように摩った。色の無くなった彼の目が、どこも見ていない彼の目が、俺を射抜いている。それを閉じるのも嫌で、何度も何度も、赤くなるまで摩る。覚悟は、していた。けれど、足りなかった。いや、覚悟なんて最初からきっとできていなかった。それを思い込んで、俺は。
何時間そうしていたのだろうか。いつの間にか警察がいて、その中には彼の両親もいた。むせび泣く母親と、俺に向かって来る父親。俺は目を閉じて、その拳を甘んじて受けた。