バイノーラルビート
それは突然の事だった……。
龍二さんから連絡が入り、今週末の事務所への立ち入りを禁じられる。
珍しいクールさも感じないような不安が見える口調。言葉が少ないのは変わらず、速度と調子から感じたのは危機感。
何かがあった。それが何なのか。
ピナの所にも連絡があったのか、昼休みにやって来て人気のない所へ移動する。
先に口を開いたのは、ピナだった。
「龍二さんたちって、危険臭がするよね。事務所、使えなくなるかもしれないって聞いた?」
笑って話すピナに違和感は一瞬で、『事務所が使えなくなる』という言葉に意識が逸れてしまった。
「聞いてないぞ、何があったんだ?」
思わず、ピナの両肩を捕まえて詰め寄る。
「ちょっと怖い……」
ピナは少し逃げ腰で、視線を逸らした。
怖い?
ピナの後ろは壁で、彼女の逃げ道を閉ざしている。
両手が触れるピナの身体は男とは違い、柔らかくて細い。折れてしまいそうな小さな体が俺の陰に覆われ、芽生える感情が純粋な物なのか不純な物なのか、一瞬の時間を長く感じた。
戸惑いながら手を退けて、俺も視線を逸らす。
「ごめん。龍二さん、いつもと違って取り乱しているように感じたから。」
「え?」
ピナの驚いたような声に、視線を戻して思考が止まる。
彼女の表情に陰りが見えた。目が合ったのに言葉を探す様な視線だろうか、俺を見ていない。
「ピナ、何か……俺に隠しているのか?」
違和感が何なのか、不安となって波のように押し寄せる。
ピナの表情は、いつもと違うという確信がある。
それなのに、無理に笑顔を振りまいて繕う。首を傾げ、いつものような素振り。
その行動に、『いつも』が作られた動作で、無理して俺と接しているような印象を受ける。
演技?
現実から切り離されたような孤独を味わう。
独りは嫌だ……秘成、お前は……
「お前は一体、誰だ?」
不意に出た言葉に、ピナは青ざめて目を見開き俺を見つめる。
「う、そ。どう、して?まだ、だよ?いや、だ。忘れたの?消しちゃったの?ね、サキチ……“また”私を……」
言葉を連ねて呟く速度が増し、涙が溢れて、次々に零れていく。
また?
秘成を忘れた?
消した?
グルグル回る思考は、記憶を探すが見つからない。
「秘成。」
名を呼んだ俺に、秘成は涙目で見上げて微笑みを見せる。
自分の内にある愛しさ。それが芽生えたものなのか、以前からあったものなのかが理解できない。
泣いている彼女を慰めたくて、駆られるような衝動。
脳内に、耳に響くバイノーラルビート。
記憶に掛からないほどの微かな何か。
「泣くなよ、ピナッち……」
これは何だ?
“初めて”、『瞑想回廊』を使った時の感覚。
それはいつだった?
いや、それよりも……ピナを慰める“俺”がいる。
自然に、彼女に触れて愛情を注いでいく“俺”。
そんな俺に甘えるような声。
「サキチ、忘れちゃイヤ……」
ズキンと胸が痛むのは、外観している俺だった。
見ているのは夢か現実?
泣くな、秘成……
夢だろうが現実だろうが、君には笑っていて欲しい。
零れる涙を指で拭い、頬や頭を撫でながら額にキスを落とす。
俺の必死な慰めを受け入れ、求めるような彼女の視線に……俺の口が触れる。
柔らかな彼女の唇。
感覚は見ている事に連動するのに、意識は遠退いて真っ白な世界に引き込まれていく。
もう一人の俺を残して……