喪失
俺は鳳城さんの部屋を出て、ピナの部屋へ向かう。
ドアの前に立ち、大きく息を吸って吐き出した。
何と言えば良いだろうか。
すると、急にドアが音も無く開く。
あまりの不意打ちに、驚きで思考停止。
そんな俺の前にピナは微笑みを見せ、中に入るように促した。
その微笑は、どれほど泣いた後なのか。
更に零れる涙に既視感。
そうか、初めて会った時だ。いや……俺の今の記憶での話。
あれは忘れたすぐ後の出来事なのか。
ピナの歩く後姿は、いつもより小さく見える。
無言の沈黙が重く圧し掛かるようだ。
ここにも小さな机とイスが二つ。互いに向き合って座る。
「サキチ、まだ……。……怒っている?」
言葉の途切れた間は長く、本音を隠した言葉。
「今の俺は“まだ”ピナの事を忘れていない。俺には欠けた記憶が存在する。今回の潜入で、鳳城さんのピースから見えた母親に、君は過剰な反応を見せた。俺の記憶にない母。秘成、ごめん。どれほど傷つけてきたのかな。忘れた君の事を知る権利があるだろうか。」
忘れた記憶と、また同様に忘れるかもしれないのが怖い。
「サキチは、どこまで気づいているの?あなたの失った記憶に触れるような事がないよう、慎重に接してきた。……私がいけなかったのかな、我儘に独占したいと思うのは……いけないことなの?」
何があったのかは分からないけど、ピナが前の俺を想って泣く。
まるで俺以外の奴に恋心を抱いているようで、嫉妬と複雑な痛み。
俺は駆られる様に立ち上がり、ピナのそばに行って抱き寄せる。
「……好きだ。今の俺じゃ駄目なのか?何故、俺のそばにいる?前の俺に戻って欲しいのか?」
悔しさと、絶対に忘れないと約束できない状況に涙が零れた。
抱き寄せる力を弱め、彼女の表情を見ようと視線を落とす。
必死で堪えながらも零れ続ける涙が頬を伝う。
「やっぱり怒っているよね。ごめんなさい……っ。ふ……ぅ……」
彼女の悲しみが胸を締め付けるのに、泣いている姿が愛しくて触れたいと思ってしまう。
「秘成に怒っているんじゃない。自分が情けなくて、どうしていいのか分からないんだ。」
零れる涙を指で拭い、頬を撫でるように掌で覆う。
記憶が無いのに味わう喪失感。
俺は……
そっと顔を近づけ、額にキスを落とす。
心音が自分に響いたのは一瞬で、周りの音や空気さえ感じなくなるような一時。
新たに零れた涙の一筋が、頬を覆う自分の手を伝う。
触れた瞬間の熱が、徐々に冷えていくのを感じた。
それは長いようで短い時間。
秘成は無意識なのか、俺の掌に頬をすり寄せる。
愛しさと切なさ。
「サキチ、あなたは変わっていないよ。大好き……」
急かされるようで、息も詰まるような激しい衝動で目が回りそうだ。
戸惑う俺に、秘成は首を傾げるように見上げて微笑む。
そして真っ直ぐに顔を上げて、頬を覆う俺の手に手を重ねた。
「……触れて。」
潤んだ唇はゆっくり動いて、俺を誘惑する。
細める目は俺を映したまま。
どこまで触れても良いですか。
それは君の記憶まで?それとも…………
俺の目は見つめる。
目を閉じて待つ秘成の表情に、近づく距離。
目を細め、視界を遮るのも惜しみながら唇を重ねた。
柔らかさと、懐かしい香りに包まれて味わう幸せ。
なのに切なくて、甘い……溺れそうだ。
このまま、時が止まればいいのに…………
『……私以外の人に触れないで……』
「うん、約束する。ピナッち……君以外の人には触れないと。」
白い世界で、君は最高の笑顔を見せた。
その姿は、中学生の制服………………
どこまでが夢だったのかな。
また、秘成を悲しませてしまっただろうか。
俺は何を失ったのかな。
得た物と失った物は表裏一体……記憶喪失…………




