第3章 「公衆浴場と衛生革命、領地が蘇る」
ローゼンバーグ領の復興は、もはや「奇跡」という言葉すら生温い速度で加速していた。
「いいかい、みんな。身体の汚れは万病の元だ。仕事が終わったら、必ずここで汗を流すように!」
領都の中心に、ヴァイゼルが土属性の『ストーンバレット』と『ソイルバレット』を応用して一日で築き上げた巨大な公衆浴場がそびえ立つ。二十四時間いつでも温かい湯が溢れるこの施設は、ヴァイゼルの「衛生管理こそが生産性の基盤である」というサラリーマン時代の教訓に基づいたものだ。当初は戸惑っていた領民たちも、今では「聖なる湯」と崇め、領内の疾病率は劇的に低下していた。
さらに、ヴァイゼルは物流の最適化を図るべく、王都から大手商会を次々と誘致。黄金の小麦と魔石を求めて、領内には活気ある商人の列が絶えなくなった。彼らの宿舎として、土魔法で成形された均一で堅牢な集合住宅が整然と並び、かつての廃村は、今や機能美に溢れた「領都」へと変貌を遂げている。
「ヴァイゼル……。これを受け取れ。私の、感謝の印だ」
夕暮れの執務室。アンジェリカが、少し震える手で一杯のハーブティーを差し出した。かつての高圧的な「無能め!」という罵倒は、もう聞こえない。170cmの凛とした背筋はそのままに、彼女の瞳には、かつての苛烈な鋭さではなく、ヴァイゼルを見つめるだけで潤むような、熱い光が宿っていた。
「……君が淹れてくれたのか? 嬉しいよ、アンジェリカ」
「……ふん。貴様が倒れては、この領地の経営が滞るからな。……その、無理はするな。貴様に何かあれば、私は……私は、どうすればいいか分からん」
顔を真っ赤にして視線を泳がせる彼女は、戦場の死神と呼ばれた面影など微塵もない、恋する乙女そのものだった。
ヴァイゼルは、そんな彼女の健気な姿に微笑みながら、机の上に置かれた「新製品」を手に取った。
「ありがとう。じゃあ、プロジェクトの最終段階に入ろうか。自警団用の『バレット銃』、五百丁の配備が完了したよ」
それは、ヴァイゼルが開発した『ストーンバレット』や『ファイアバレット』を、魔力を持たない一般兵でも触媒を通じて撃ち出せるようにした魔導兵器だ。
「これがあれば、自警団の誰もが、オークを数百メートル先から無力化できる。君の負担も減るはずだ」
「……貴様は、どこまで私のことを考えてくれているのだ」
アンジェリカは、ヴァイゼルの手元にある銃ではなく、彼の穏やかな横顔をじっと見つめていた。
「領地の民も、商人も、そして私も……貴様の魔法に、貴様の優しさに救われた。ヴァイゼル、私はもう、貴様なしでは……」
彼女がその先を口にする前に、ヴァイゼルは彼女の温かいハーブティーを一口飲み、満足げに頷いた。
「最高の味だ。……さて、アンジェリカ当主。次は領立の『学校』の建設計画だ。未来のローゼンバーグ家を支える子供たちのために、一気に作っちゃおうか」
「……あ、ああ! 貴様が言うなら、私はどこまでもついていくぞ!」
恋に落ちた元騎士の、弾むような声が部屋に響く。
無限の魔力と前世の知識を振るう魔導師と、彼を心から愛する美しい女当主。二人が作り上げるこの領地は、今や王国で最も幸福な、そして最も難攻不落な聖域となっていた。
領都の発展は、周辺諸国の常識を塗り替える速度で続いていた。
ヴァイゼルは土魔法と石のバレットを応用し、領内全域に十校もの近代的な学校を一気に建設した。
「読み書きと算術は、搾取されないための武器だ。それに、領民の知的水準が上がれば、俺の事務作業もさらに効率化できるしね」
その言葉通り、教育を無償化したことで、各地から「棄民」や「亡命者」がローゼンバーグ領へと押し寄せた。他国で見捨てられた民であっても、ヴァイゼルにとっては貴重な「人的資源」である。彼は移民たちに集合住宅と仕事を与え、瞬く間に三万人を超える巨大な経済圏を構築した。
街の中心には、世界最大規模の冒険者ギルドと商人ギルドの支部が立ち並ぶ。ヴァイゼルが開発した『バレット銃』で武装した自警団が守るこの地は、世界で最も安全な交易都市として、莫大な富を引き寄せていた。
「……ヴァイゼル。少し、風に当たらないか」
夕暮れ、新築された当主邸のテラス。アンジェリカが、少し震える声で彼を誘った。
170cmの長身を包むドレスは、かつての荒々しい戦闘服ではなく、ヴァイゼルが商会に発注した最高級の絹で作られたものだ。月光に照らされた彼女の肌は白く輝き、その美貌には恋に悶える乙女の情熱が溢れていた。
「いい夜だね。学校の第一期生も、みんな楽しそうに勉強してたよ」
「……貴様は、いつも領地のことばかりだな」
アンジェリカが、一歩近づく。彼女の長い指が、ヴァイゼルの袖をぎゅっと掴んだ。
「私が……私が、どれほど貴様に感謝し、どれほど……貴様の存在に救われているか、分かっているのか?」
「分かってるよ。俺も、君が隣にいてくれるから頑張れるんだ」
ヴァイゼルが気さくに微笑んだ瞬間、アンジェリカの瞳に涙が浮かんだ。彼女は意を決したように顔を上げ、彼の胸元に飛び込んだ。
「……不敬だと言っても、もう遅いぞ! 貴様の唇、私が徴収してやる!」
柔らかな衝撃が、ヴァイゼルの唇に走った。
それは、かつての「高圧的な女騎士」が、一人の「恋する女性」として捧げた、熱く、不器用なファーストキスだった。170cmの身体が、ヴァイゼルの腕の中で、まるで小鳥のように震えている。
「……な、無能と言わなかっただろう? 貴様は……世界で一番、有能で……私の、愛しい男だ」
顔を真っ赤にして、視線を逸らしながらも、アンジェリカは彼の胸に顔を埋めた。
「まいったな。サラリーマン時代、こんなに熱烈な『報酬』はもらったことがないよ」
ヴァイゼルは、幸せな重みを噛み締めながら、彼女の背中を優しく抱きしめた。
無限の魔力と前世の知識を持つ男と、その男に全てを捧げた女当主。二人が愛を誓った夜、ローゼンバーグ領の灯火は、希望という名の星のように、暗闇の中でいつまでも輝き続けていた。
アンジェリカとの口づけから数日、ヴァイゼルの「領地経営プロジェクト」は、ついに多種族を巻き込んだ巨大な産業構造へと突入した。
「おい、ヴァイゼル!また何か妙なものを掘り当てたのか?鉱山の方から、地響きのような音が聞こえてきたぞ」
アンジェリカが、少しだけ名残惜しそうに唇を触りながら執務室に飛び込んできた。以前のような刺々しさは消え、その瞳にはヴァイゼルへの全幅の信頼と、熱い恋心が隠しきれずに漏れている。
「やあ、アンジェリカ。ちょうどいいところに。鉱山の深部に眠っていた魔鉱石の脈を、ストーンバレットの振動で特定したんだ。人力じゃ無理があるから、最高の専門家を呼んだよ」
ヴァイゼルが窓の外を指さすと、そこには頑強な体躯を持つドワーフの一団がいた。彼らはヴァイゼルが提示した「最新の採掘理論」と「無限に供給される高品質な酒」に釣られ、一族を挙げて移住してきたのだ。
「ドワーフか!彼らの技術があれば、我が領の武具の質は王国一になるな」
「それだけじゃない。彼らには鉱山管理の全権を任せた。効率的な採掘ラインを構築してもらうんだ」
さらに、ヴァイゼルの計画は止まらない。彼は『ソイルバレット』で土壌改良した広大な耕作地に、食料だけでなく「綿花」を植えさせた。無限の魔力で湿度と温度を管理された綿花は、驚異的な速度で純白の穂を広げている。
「綿花……? 確かに服の材料にはなるが、これほどの量をどうするのだ」
「これを最高の生地に仕上げるために、森からエルフの氏族を誘致したんだ。彼らの繊細な魔力操作と指先なら、魔法を編み込んだ最高級の紡織品が作れる」
かつて人間を忌避していたエルフたちも、ヴァイゼルがピュリフィケーションバレットで彼らの聖域の汚れを浄化し、さらに「伝統技術を産業として保護する」という近代的な契約書を提示したことで、喜んで紡織工場の運営を引き受けた。
「ドワーフが掘り、エルフが紡ぎ、人間が売る……。貴様、本当にこの領地を、種族の垣根を超えた『世界の中心』にするつもりか」
アンジェリカは、ヴァイゼルのあまりに壮大な、しかし着実な手腕に溜息をついた。170cmのしなやかな肢体を彼に預けるように寄り添い、その腕をぎゅっと抱きしめる。
「……有能すぎるのも考えものだな。貴様が遠くへ行ってしまいそうで、時折、怖くなる」
「行かないよ。俺の『終身雇用』先は、ここだって決めてるから」
ヴァイゼルが彼女の頭を優しく撫でると、アンジェリカは「……ふん、当然だ。逃げようとしても、音速のアクセルで捕まえてやる」と、幸せそうに目を細めた。
鉱山からは槌の音が、工場からは機織りの音が響き渡る。
多種族が共生し、富が循環するローゼンバーグ領。それはもはや一貴族の領地ではなく、ヴァイゼルの前世の知識と魔法が作り出した、歴史上かつてない「多文化産業都市」へと進化を遂げていた。
執務室の窓からは、ドワーフたちが整備した頑強な石造りの街並みと、エルフたちの手による色鮮やかな街路樹が調和した美しい領都の景色が見える。ヴァイゼルは、隣で熱心に書類を確認しているアンジェリカの横顔を眺めながら、執事のセバスを呼び寄せた。
「セバス、現在のローゼンバーグ領の『定期経営報告』を頼むよ。特に人口、貧困率、魔物の数、そして食料充足率だ」
老執事セバスは、ヴァイゼルが持ち込んだ「スプレッドシート風」の書式にまとめられた最新の資料を広げ、慇懃に、しかしその声には隠しきれない誇りを込めて報告を始めた。
「ハッ。ヴァイゼル様、アンジェリカ様。現在の領内状況、以下の通りでございます」
■ ローゼンバーグ領 定期経営報告
総人口: 約58,000人(移民、ドワーフ、エルフの移住により、当初の3,000人から約20倍に増加)
貧困率: 2%未満(学校での教育と、鉱山・紡織工場の雇用創出により、絶対的貧困はほぼ消滅)
魔物生息数: 領都周辺および主要街道沿いは0。未開拓の深部森林にわずかに残存するのみ(自警団のバレット銃配備により、脅威度は最低水準)
食料充足率: 450%(自給自足を遥かに超え、現在は余剰分を王都および近隣領地へ輸出。備蓄量は全人口の三年分を確保)
「……充足率450%だと? ヴァイゼル、貴様……たった数ヶ月で、この荒野を王国の胃袋に変えたというのか」
アンジェリカは報告書を二度見し、驚愕にその豊かな胸を上下させた。かつて、泥水を啜るような生活を送っていた領民たちを知っている彼女にとって、この数字はもはや神話の領域だった。
「計算通りだよ。ドワーフの掘削技術で水路を通し、エルフの知恵で品種改良し、俺の『ソイルバレット』で土壌を最適化した。さらに自警団がバレット銃で魔物を寄せ付けない。……これだけの『経営資源』を集中させれば、当然の結果さ」
ヴァイゼルが気さくに笑うと、アンジェリカはたまらなくなったように彼の腕を掴み、その胸に顔を埋めた。
「……貴様は、本当に……。無能などと呼んでいた過去の自分を、剣で斬り捨ててしまいたいほどだ。ヴァイゼル、私は……幸せすぎて怖いくらいだ」
「幸せにするのが、俺の今の『社訓』だからね」
ヴァイゼルは、恋する乙女の顔になったアンジェリカの肩を優しく抱き寄せた。
セバスは二人の睦まじい様子に目を細めながら、そっと次の資料を差し出した。
「ヴァイゼル様、あまりに豊かになりすぎた我が領に対し、隣国の辺境伯が『共同開発』という名の不当な介入を打診してきております。いかがなさいますか?」
「ふん、不届き者が。我が領の平和を乱すというのなら、当主自ら『アクセル』と『マッスル』で分からせてやるまでだ」
アンジェリカはヴァイゼルの胸から顔を上げ、かつての苛烈な女騎士の、しかし慈愛に満ちた瞳で宣言した。
「いや、アンジェリカ。まずは『交渉』からだ。……それでもダメなら、新しく開発した『長距離弾道バレット』のデモンストレーションを見せてあげようか」
二人の前には、希望に満ちた未来と、それを守るための圧倒的な力が満ち溢れていた。
ローゼンバーグ領の急成長を妬み、あわよくばその富を掠め取ろうと画策する隣国の辺境伯、ヴォルツ公が「共同開発の最終通告」と称して、五百の重装騎兵を伴い国境へと現れた。
「ふん、賊軍が。我が領の土を踏ませるわけにはいかぬな」
アンジェリカは170cmのしなやかな肢体を新調した魔導銀の軽鎧に包み、愛剣を携えて最前線に立った。その隣には、欠伸を噛み殺しながら魔力の計算盤を操作するヴァイゼルの姿がある。
「ヴァイゼル、交渉の準備はいいか?」
「ああ。まずは『サラリーマン流のプレゼン』から始めよう」
ヴォルツ公が傲慢な笑みを浮かべ、馬上で口を開こうとした瞬間、ヴァイゼルが指先を天に掲げた。
「――『スカイバレット:照明弾』」
昼間だというのに、空が太陽よりも眩い光で埋め尽くされ、ヴォルツ公の軍勢は一時的に視界を奪われパニックに陥る。
「これが第一提示だ。次はこちらの『戦力分析』だね。――『バレット銃・斉射』」
アンジェリカの合図で、丘陵に伏せていた自警団五百名が一斉に引き金を引いた。放たれたのは殺傷用ではなく、威嚇用の『音響バレット』だ。空気を震わせる爆音と衝撃波が騎兵たちの馬を跪かせ、ヴォルツ公は落馬して泥に塗れた。
「な……なんだ、この魔法は!? 詠唱も、魔法陣もなしにこれほどの……!」
「交渉決裂だ、無礼者め!」
アンジェリカが『身体強化:アクセル』で音速の踏み込みを見せ、ヴォルツ公の喉元に大剣を突きつけた。
「我が領の富は、領民と……そして私の愛するこの男が築いたものだ。指一本触れさせん。命が惜しくば、二度とこの地を望むな!」
ヴォルツ公が這う這うの体で逃げ出したその時、街道の向こうから純白の騎兵隊が姿を現した。中央の豪華な馬車には、王家の紋章。女王アリシアが、直々に視察に訪れたのだ。
「……見事な手際ね、アンジェリカ。そしてヴァイゼル」
馬車から降り立った女王は、かつての荒野が黄金の麦畑と近代的な街並みに変わっている光景に、驚嘆を隠せなかった。
「報告以上だ。読み書きを教える学校、ドワーフとエルフの共生、そしてこの圧倒的な防衛力……。ここはもはや、王国の一部ではなく、新しい時代の『理想郷』そのものだわ」
女王はアンジェリカの、以前よりずっと穏やかで、かつ凛とした表情を見て微笑んだ。
「当主の顔つきも変わった。愛する者のために戦う女は、これほどまでに強いのね」
「へ、陛下! そのような……!」
アンジェリカは顔を真っ赤にして、ヴァイゼルの背後に隠れた。170cmの堂々たる身体を縮め、恋する乙女として悶える彼女に、ヴァイゼルは苦笑しながら肩を抱き寄せた。
「陛下、視察の後はぜひ公衆浴場へ。エルフ特製の石鹸と、最高のシチューを用意してありますよ」
「ふふ、楽しみにしているわ。……この領地が、王国の、そして世界の未来を照らす道標となることを期待しているわよ」
女王の公認を得たローゼンバーグ領は、名実ともに王国最高の聖域となった。ヴァイゼルとアンジェリカの絆は、物理的な力と、揺るぎない愛によって、誰にも壊せないものへと昇華していた。
女王アリシアを案内した公衆浴場は、彼女の想像を遥かに超える衝撃を与えた。
「……信じられないわ。これほど清冽な湯が、二十四時間、平民から貴族まで分け隔てなく溢れているなんて。王宮の浴場ですら、これほどの解放感と清潔感はないわね」
ヴァイゼルが土魔法で組み上げ、エルフの浄化魔法とドワーフの配管技術を融合させたその施設は、女王の心を瞬時に射抜いた。湯上がりの女王は、上気した頬を撫でながら、隣で控えるヴァイゼルとアンジェリカに身を乗り出した。
「ヴァイゼル、アンジェリカ。これは命令ではなく、一人の女性としての切なる願いよ。王都にもこれと同じ……いや、これ以上の規模の公衆浴場を建設してちょうだい。予算はいくらでも出すわ。民の衛生管理だけでなく、この癒やしは国力そのものになるわ」
「はは、女王陛下にそこまで気に入っていただけるとは。承知いたしました、王都進出の『プロジェクト』として、最高の布陣を派遣しましょう」
ヴァイゼルが気さくに請け負うと、女王はさらに、エルフたちが紡ぎ上げた「新製品」に目を輝かせた。
「それと、このアンダーウェアよ。エルフが編んだ綿花の布地……信じられないほど柔らかく、肌に吸い付くようだわ。絹よりも吸水性に優れ、それでいてこの清潔な白。王都の貴婦人たちはもちろん、全兵士にこれを普及させたい。ローゼンバーグ商会として、独占供給契約を結ばせてくれないかしら?」
エルフの紡織技術とヴァイゼルの魔力制御が生み出した「最高級の綿下着」。それは、衛生観念を劇的に変える革命的な製品だった。
「陛下、恐れ入ります。領民の健康のために開発したものですが、王都の皆様にも喜んでいただけるなら光栄です」
アンジェリカが凛とした声で応える。170cmのしなやかな肢体を包む彼女自身の服もまた、ヴァイゼルとエルフたちが共同開発した機能美の結晶だ。
視察の最後、女王はアンジェリカの手を優しく取り、ヴァイゼルとの距離を見て悪戯っぽく微笑んだ。
「素晴らしいわ、アンジェリカ。貴女はこの有能な男と共に、富と、技術と、そして何より『愛』に満ちた国を創り上げたのね。王都への浴場建設と下着の供給……これらは二人の『婚約祝い』の公務として進めましょう」
「こ、婚約……!? 陛下、まだそこまでは……っ!」
アンジェリカは顔を真っ赤にして、ヴァイゼルの袖をぎゅっと掴んだ。かつての高圧的な女騎士の面影はなく、恋する乙女として狼狽する彼女の姿に、ヴァイゼルは三十五歳の余裕を持って、そっとその手を握り返した。
「陛下、浴場の設計図には、アンジェリカとの『共同生活』で培ったノウハウも詰め込んでおきますよ」
「ヴァイゼル! 貴様、陛下に何を……っ! 不敬だぞ、この……この、愛しい男め!」
結局「無能」という言葉は最後まで出てこなかった。
王都へと続く街道には、ローゼンバーグ領産の綿製品を積んだ馬車が列をなし、二人の愛が形となった「文化」が、王国全土へと広がっていく。
王都での事業展開は、ヴァイゼルの「前世のデベロッパー」的知識と無限の魔力によって、まさに電光石火の勢いで進められた。
「アンジェリカ、王都の主要三区画の土地は押さえた。ドワーフの工務店とエルフの内装チーム、それに俺の土魔法があれば、三日もあれば完成だ」
「貴様……相変わらず手順というものを知らん男だな。だが、その非常識なまでの迅速さこそが、今のローゼンバーグ家の原動力だ。……よし、護衛は私が責任を持って行う!」
ヴァイゼルが『ストーンバレット』と『ソイルバレット』を微細に制御し、地面から直接大理石の壁と複雑な配管をせり上げさせる。ドワーフがボイラーを据え付け、エルフが清潔な綿のタオルとアロマを配置すれば、あっという間に「ローゼンバーグ式・王都公衆浴場」が三軒同時に産声を上げた。
それと並行して、隣接する敷地には「ローゼンバーグ商会」の王都支店も三軒オープンした。ここでは、領内で生産された最高級の綿下着、石鹸、そして魔力で保存された濃縮シチューの瓶詰めが並べられた。
開店初日。王都の貴族街は、未曾有のパニックに陥った。
「見て! この下着、まるで雲を纏っているような肌触りだわ! 今までの麻や絹とは次元が違うわよ!」
「この『浴場』という施設、一度入ったらもう邸宅の桶風呂には戻れませんわ……。肌が赤ん坊のようにツルツルになるんですもの!」
口コミは瞬く間に広がり、三軒の浴場と支店には、高級馬車で乗り付けた侯爵夫人や伯爵令嬢たちが文字通り殺到し、押し寄せる人だかりで街道が麻痺するほどだった。
「これ、私に一ダース譲りなさい! お金ならいくらでも払うわ!」
「無礼ですよ、奥様。並んでいらっしゃるのは私の方が先ですわ!」
淑女たちの「物理的な」争奪戦を、アンジェリカは『身体強化:アクセル』による目にも止まらぬ身のこなしで次々と捌いていった。170cmの凛々しい姿で、横柄な貴族たちをその眼光一つで黙らせる。
「貴婦人方、列を乱すな! ローゼンバーグの秩序を乱す者は、公爵夫人であっても入浴を禁ずる。……ヴァイゼル、在庫が足りんぞ! 補充を急げ!」
「了解。次元収納から今出すよ。アンジェリカ、少しは顔を和らげないと、お客さんが怖がっちゃうよ?」
ヴァイゼルが気さくに笑いながら、魔法で商品を次々と補充していく。その姿を見た夫人たちは、「あら、あの方が噂の……」「なんて有能で余裕のある殿方なの……」と、今度はヴァイゼルに熱い視線を送り始めた。
「……っ! 貴様ら、ヴァイゼルをそんな目で見るな! この男は……この男は私の専属魔導師……いや、私の婚約者だ! 不敬だぞ!」
アンジェリカは顔を真っ赤にし、ヴァイゼルの腕を強引に引き寄せて抱きしめた。恋する乙女の独占欲を剥き出しにする彼女に、夫人たちからは「あらまあ」と溜息が漏れる。
王都の経済を、たった数日で下着と風呂で掌握した二人。ローゼンバーグ商会がもたらす富は、もはや国家予算に匹敵する勢いで膨らみ始めていた。
王都に巻き起こった「風呂と下着」の旋風は、経済のみならず王国の文化そのものを塗り替えた。その功績を称え、女王アリシアは二人を王宮へと召喚した。
「アンジェリカ、そしてヴァイゼル。そなたたちがもたらした富と技術、そして種族共生の理想郷は、もはや一伯爵領の枠に収まるものではないわ。本日をもって、ローゼンバーグ家を『公爵家』へと昇爵させることを宣言します」
女王の宣言に、謁見の間は割れんばかりの拍手に包まれた。170cmの堂々たる体躯を騎士礼で捧げるアンジェリカと、その隣で穏やかに微笑むヴァイゼル。かつての没落騎士と食い詰め魔導師は、名実ともに王国の柱石となったのだ。同時に、二人の結婚式の招待状が、ドワーフの伝令やエルフの精霊通信を通じて、大陸全土へと送られた。
数週間後。領民、ドワーフ、エルフ、そして女王までもが参列した前代未聞の盛大な結婚式が執り行われた。祭りの喧騒が遠のき、新設された公爵邸の最上階。二人きりになった寝室には、柔らかな月の光と、エルフ特製の香草の香りが満ちていた。
「……ヴァイゼル。貴様、いつまでそこに突っ立っているのだ。不敬だぞ」
アンジェリカが、豪奢な婚礼衣装を脱ぎ捨て、自慢の綿で作られた純白の寝着姿でベッドの端に腰掛けていた。赤らんだ頬と、潤んだ瞳。普段の苛烈な女公爵の鎧は完全に剥がれ落ち、そこには一人の、震えるほどに緊張した乙女がいた。
「ごめん。あまりに綺麗で見惚れてたんだ」
ヴァイゼルが歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろすと、アンジェリカはビクッと肩を跳ねさせた。彼女は視線を彷徨わせた後、意を決したようにヴァイゼルの袖をぎゅっと掴み、消え入りそうな声で囁いた。
「……あの、な。ヴァイゼル……。私は、その……剣の振り方は知っているが、こういうことは、初めてなのだ。……貴様の魔法のように、あまりに『加速』されたら、私は……耐えられる自信がない」
彼女は顔を真っ赤にし、ヴァイゼルの胸に額を押し当てた。
「……だから、その。初めてなのだから、優しく……優しくしてくれ、ヴァイゼル……。これは、当主命令ではなく……私からの、一生のお願いだ」
「……ああ。分かってるよ。魔法なんて使わなくても、時間は無限にあるからね」
ヴァイゼルは、震える彼女の肩を優しく抱き寄せ、その額に、そして耳元に、慈しむようなキスを落とした。
「ゆっくり、君のペースに合わせるよ。俺たちのこれからの人生みたいにね」
「……うむ。貴様がそう言うなら……信じてやる。……愛しているぞ、ヴァイゼル」
アンジェリカは安堵したように、だが熱い期待を込めて、彼の首に腕を回した。
窓の外では、二人の門出を祝うように星々が輝いている。
無限の魔力を持つ元サラリーマンと、彼を深く愛する元騎士。二人の「新しい研修」は、月の光に包まれながら、どこまでも甘く、穏やかに始まっていった。
公爵家としての激務の合間を縫い、アンジェリカとヴァイゼルは久しぶりに二人きりで、かつてのように森へと狩りに繰り出していた。
夕闇が木々の間を埋め尽くす頃、ヴァイゼルは掌をかざし、周囲の水分を瞬時に凝縮して、透明度の高い氷のテーブルと椅子を作り上げた。
「さあ、お待たせ。今日のメインは、昼間に君が仕留めたオークのロース肉だ」
ヴァイゼルは火を一切使わず、純粋な魔力の摩擦と振動によって食材を内部から加熱する「魔導調理」を開始した。氷の鍋の中で、肉と新鮮な野菜がとろとろのソースと共に踊る。
「ふん、相変わらず手際のいい男だ。貴様のその魔法を料理に全振りする姿勢、相変わらず呆れるが……食欲には勝てんな」
アンジェリカは170cmのしなやかな肢体を氷の椅子に預け、少しだけ乱れた黒髪をかき上げた。
ヴァイゼルが氷のジョッキになみなみとエールを注ぎ、焼き立てのパンを添えて彼女の前に置く。
「どうぞ。公爵邸の豪華な食事もいいけど、たまにはこういう野外飯も悪くないだろ?」
アンジェリカは一口、シチューを口に運んだ。瞬間、彼女の瞳が蕩けるように和らぐ。
「……っ! これだ。この濃厚な肉の旨味と、鼻に抜ける香辛料。やはり貴様の手料理が、世界で一番私の胃に馴染む」
彼女はパンを千切り、シチューに浸しては口に運び、キンキンに冷えた氷のジョッキを煽った。
「ぷはぁっ! 美味いぞ、ヴァイゼル! やはり貴様は、有能どころか……私にとって唯一無二の、最高の夫だ」
幸せそうに頬を緩め、無防備に微笑む彼女は、かつての刺々しい女騎士の面影など微塵もない。ヴァイゼルはその様子を満足げに眺めていたが、食事が一段落したところで、ふと立ち上がった。
「さて、腹ごなしに少し体を動かそうか。アンジェリカ……俺と模擬戦、してくれないか? 魔法は抜き、純粋に剣だけで」
アンジェリカは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「……ほう。宮廷魔導師長ともあろう者が、私に剣で挑もうというのか? 私の『マッスル』と『アクセル』は、貴様から教わった後に独自の進化を遂げているぞ」
「分かってる。でも、たまには君の隣で背中を守るだけじゃなくて、真正面から君の強さを感じておきたくてね」
アンジェリカは愛剣を引き抜き、月光の下でその白刃を輝かせた。
「いいだろう。後悔するなよ、ヴァイゼル! 手加減はしてやるが、私の剣は……貴様への愛と同じくらい、重いぞ!」
二人は月明かりが差し込む広場で、互いの呼吸を合わせる。
無限の魔力を持つ男が振るう拙くも真剣な一撃と、それを圧倒的な技量で受け止め、導く女公爵。
森の中には、鋼が触れ合う澄んだ音と、愛し合う二人の楽しげな笑い声が、夜が更けるまでいつまでも響き渡っていた。
模擬戦の激しい打ち合いを終えた二人の間には、心地よい静寂と、荒い吐息が混じり合っていた。
「……はぁ、はぁ……。やるな、ヴァイゼル。剣筋こそ荒削りだが、迷いがない。私の剣を真っ向から受けて、腕が痺れていない男など、この国には貴様くらいしかおらんぞ」
アンジェリカは170cmのしなやかな肢体を心地よく弾ませ、額に浮いた汗を拭った。
「君の剣が重すぎるんだよ。……さて、汗をかいたままだと風邪を引く。約束通り、風呂にしようか」
ヴァイゼルが掌を地面に向けると、周囲の水分が吸い寄せられ、二人の目の前に巨大な氷の浴槽――露天風呂が出現した。内部には魔力で一定の温度に保たれた湯が勢いよく満ち、月明かりを反射して美しく揺らめいている。
「またこれか。……だが、今夜は特別だ。貴様の誘いに乗ってやろう」
アンジェリカは少しだけ照れくさそうに、だが迷いのない仕草で着衣を脱ぎ捨て、湯船へと足を踏み入れた。
「……ふぅ、極楽だな。この、氷の冷気と湯の熱が混ざり合う感覚……貴様の魔法は、本当に贅沢だ」
アンジェリカは湯船の縁に腕をかけ、肩まで浸かった。透き通るような肌が湯気に包まれ、上気した顔が普段の凛々しさを溶かしていく。
ヴァイゼルも隣に腰を下ろすと、彼女は自然にその肩へと寄り添ってきた。170cmの堂々たる身体が、今は驚くほど柔らかく、ヴァイゼルの体温を求めている。
「……こうしていると、かつて貴様と初めて出会った頃を思い出す。あの時は、貴様をただの食い詰め魔導師だと侮っていたが……まさか、私の生涯を預ける男になるとはな」
「俺もだよ。まさか、高圧的な女騎士様にこうして甘えられる日が来るとはね」
ヴァイゼルが冗談めかして言うと、アンジェリカは「……不敬だぞ」と囁きながら、彼の腕をさらに強く抱きしめた。
「ヴァイゼル。私は、貴様が連れてきてくれたこの景色、この平和を愛している。だが、何より……この湯船のように温かい、貴様の隣を愛しているのだ。……明日からも、私を導け。公爵として、そして夫としてな」
「ああ。君の『アクセル』がどれほど加速しても、俺が必ずその先を照らしてあげるよ」
二人は、静かな森の夜に抱かれながら、重なり合う体温と湯の温もりに身を任せた。氷の浴槽の外では、夜風が木々を揺らしていたが、魔力で守られたその空間だけは、どこまでも穏やかで、幸福な愛に満ちていた。




