エピローグ
天正十三年、飛騨は落ちた。
金森長近が美濃から兵を進め、松倉城は開城。姉小路頼綱は降伏し、国司家は滅びた。焔硝蔵は接収され、桜洞城は破却された。
宗旦は、その報せを堺で聞いた。驚きはなかった。だが、胸の奥に、冷たいものが沈んだ。
「飛騨は、誰にも従わぬ国だった。だが、誰にも守られぬ国でもあった」
父・宗悦の言葉が、今になって重く響いた。
数年後、宗旦は老いた身を押して、再び飛騨を訪れた。高山城が築かれ、町は整備されていた。だが、かつての桜洞には、何も残っていなかった。石垣は崩れ、薬草園は森に還っていた。
宗旦は、宣綱の墓を訪れた。白川郷の職人たちが、密かに守っていたという。小さな石碑に、ただ「宣綱」とだけ刻まれていた。
焔硝壺を一つ、供えた。蓋には、宣綱の筆で記された「静」の字が残っていた。
「あなたは、火薬を灯に変えようとされた。私は、それを見ていた」
宗旦は、そう呟いた。
飛騨の山々は、変わらずそこにあった。雪は深く、風は冷たかった。だが、宗旦の胸には、宣綱の声が残っていた。
「癒すことが、戦うことよりも大切だと、私は今も思っております」
高山の町を歩くと、焔硝の匂いがした。だが、それは戦の匂いではなかった。灯火の匂いだった。
「宣綱様の願いは、形を変えて生きているのかもしれませんな」
白川の職人がそう言った。宗旦は、うなずいた。
堺に戻った宗旦は、焔硝の商いを再開した。だが、かつてのようには扱わなかった。
「これは、命を奪うものではない。命を照らすものだ」
そう言って、灯火用の火薬を売った。寺の灯籠、町の行灯、そして、芝居小屋の舞台。
ある日、若い商人が宗旦に問うた。
「その壺に刻まれた『静』の字は、何の意味ですか」
宗旦は、しばらく黙ってから答えた。
「ある若殿が、火薬に託した願いです。争いではなく、安らぎを。怒りではなく、祈りを」
宗旦は、老いの中で筆を執った。飛騨で見たこと、聞いたこと、そして、宣綱の言葉を記した。
「飛騨の雪は深いが、民の笑顔は温かい。私は、その温もりを守りたかった」
その一文を、最後に記した。
山は変わらず、空は広い。だが、人の心は、誰かが記さねば消えてしまう。宗旦は、それを知っていた。
そして今、焔硝の壺は、灯火の下にある。静かに、確かに、宣綱の記憶を照らしている。




