4話
桜洞城の石垣に、春の雨が染み込んでいた。
天正十一年、宗旦は三年ぶりに飛騨を訪れた。かつての庭は手入れが行き届かず、薬草の畝も雑草に覆われていた。主が変わったのだと、宗旦はすぐに悟った。
「父上が松倉へ移られてから、ここは私の居城となりました」
宣綱はそう言って、城の縁側に腰を下ろした。まだ十八歳。だが、その表情には年齢以上の疲労が刻まれていた。
「政務は任されておりますが、肝心なことはすべて松倉で決まります。私は、飛騨の顔であって、手足ではないのです」
宗旦は言葉を選んだ。
「それでも、民は殿を見ております。桜洞にいるのは、宣綱様ですから」
宣綱は微かに笑った。
「民の目は、温かい。ですが、父上の目は冷たい。私が何をしても、疑念が先に立つのです」
頼綱は、信長の死後も秀吉に与せず、柴田勝家や佐々成政と連携していた。飛騨の独立を守るための策だったが、宣綱にはその道が見えなかった。
「秀吉公は、力で世を治めようとしておられる。父上はそれを嫌っておられる。飛騨は、誰にも従わぬと」
宣綱は、焔硝蔵の前でそう語った。
「ですが、従わぬということは、誰にも守られぬということでもあります。それを、父上は認めようとされない」
宗旦は、焔硝職人たちの作業を見守った。白川郷から届いた原料が、静かに発酵を進めていた。
「この国は、火薬で守られている。ですが、それは同時に、火種を抱えているということでもあります」
宣綱の言葉は、風のように冷たかった。
その夜、宗旦は囲炉裏を囲みながら、かつての岩鶴丸を思い出していた。薬草を摘み、職人の話に耳を傾けていた少年。今、その少年は、父の影に押し潰されようとしていた。
「家を継ぐということは、父を超えることではなく、父を受け入れることなのかもしれません」
宣綱の言葉に、宗旦はうなずいた。
「ですが、受け入れるだけでは、飛騨は変わりません。宣綱様が、飛騨をどうしたいか。それが、すべての始まりです」
翌朝、宣綱は城門まで見送りに来た。
「またお越しください。次は、もっと穏やかな国でお迎えしたい」
宗旦は深く頭を下げた。峠へ向かう馬借の背で、桜洞城を振り返った。
山は変わらず、空は広かった。だが、宣綱の心には、父との谷が横たわっていた。その谷を越える術を、宗旦はまだ知らなかった。




