2話
天正三年五月、長篠で火が吹いた。
織田・徳川連合軍が武田勝頼を破ったという報せは、堺の商人たちの間にすぐ広まった。だが、宗旦はその報せの裏にあるものを知っていた。飛騨から運ばれた焔硝が、戦場に届いていた。
「武田は、負けたか」
父・宗悦がそう言った時、宗旦は言葉を返せなかった。堺から飛騨へ、そして美濃を経て尾張へ。焔硝の流れは、宗旦自身が担っていた。だが、武田にはほとんど渡していない。父の方針だった。
「頼綱殿は、勝頼に火薬を渡す気はない。武田は干渉が過ぎる。飛騨は、独立を保たねばならん」
宗悦はそう言っていた。勝頼は縁戚を通じて本願寺に仲裁を求めたが、頼綱は病を理由に使者を断った。宗旦はその使者の顔を覚えている。甲斐の若侍。悔しげな目をしていた。
宗旦は、再び飛騨へ向かった。峠の雪は溶け、馬借の足も軽かった。桜洞城では、信綱が職人の監督を任されていた。まだ十一歳。だが、父の代わりに文書を起草し、焔硝蔵の管理を担っていた。
「長篠のことは、聞きましたか」
宗旦がそう問うと、信綱はうなずいた。
「武田は、強かった。だが、鉄砲には勝てなかった。火薬が、戦を決めた」
その言葉に、宗旦は胸が詰まった。飛騨の産物が、命を奪った。自分の商いが、それを運んだ。
「私は、父上の命で焔硝を管理しています。ですが、時々思うのです。これが、誰かの命を奪うなら、私は何をしているのかと」
信綱は、薬草園を見ながらそう言った。センブリが咲いていた。苦い香りが、風に乗っていた。
「癒すためのものと、傷つけるためのものが、同じ場所にある。飛騨は、そういう国です」
宗旦は、何も言えなかった。商人は、物を運ぶ。だが、その先にあるものは、見えない。
桜洞城の蔵には、白川郷から届いた原料が積まれていた。職人たちは黙々と作業をしていた。宗旦は、その一人に声をかけた。
「長篠には、ここの焔硝が使われたのか」
職人は、手を止めずに答えた。
「織田には渡った。武田には、少しだけ。殿様の命令だ。火薬は、政治だ」
宗旦は、その言葉を忘れられなかった。火薬は、政治だ。商いではない。命ではない。政治だ。
信綱は、蔵の奥で一枚の紙を見せた。
「これは、父上が本願寺に送った文です。病を理由に断っていますが、本当は、武田に加担したくなかったのだと思います」
宗旦は、紙を見た。筆跡は頼綱のものだった。だが、文の構成は、信綱の手によるものだとすぐに分かった。
「私は、飛騨を守りたい。父上は、家を守りたい。どちらも間違っていません。ですが、火薬は、どちらにも使える。だから、怖い」
信綱の声は、静かだった。だが、その目は揺れていた。
その夜、宗旦は蔵の前で立ち尽くした。風が冷たかった。原料の匂いが、鼻を刺した。
「私は、商人だ。物を運ぶだけだ。だが、それが命を奪うなら、私は何者なのか」
宗旦は、そう思った。堺では、火薬は商品だった。飛騨では、それが選択だった。
翌朝、宗旦は信綱に別れを告げた。
「また参ります。峠を越えてでも」
信綱は、うなずいた。
「その時は、飛騨が癒す国になっているといい」
宗旦は、馬借の背に揺られながら、桜洞城を振り返った。薬草の香りと、火薬の静けさ。その狭間で揺れる少年の姿が、目に焼きついていた。




