1話
飛騨へ向かう道は、子どもには過酷だった。
和泉屋の荷は馬借に任せていたが、宗旦は父の宗悦に抱かれながら、峠を越えた。まだ七つの年。堺の町と違い、山は黙して語らず、風は冷たく、道は細く、空は近かった。
「飛騨は辛い。でも、岩鶴丸に会えるなら行く」
宗旦がそう言ったのは、後年のことだが、初めてその名を聞いたのは、この旅の途中だった。
「桜洞城の若君は岩鶴丸と申される。殿様の嫡男だ。お前と同じ年だぞ」
父がそう言った時、宗旦は山の向こうにいるその少年を想像した。武家の子。国司の家柄。だが、宗旦の胸に浮かんだのは、同じ年の子がどんな声で話すのか、どんな目をしているのか、ということだった。
桜洞城は、飛騨の南に位置する。木々に囲まれた小高い丘に築かれたその城は、堺の町屋とはまるで違った。石垣は低く、屋根は黒く、空気は澄んでいた。
岩鶴丸は、庭にいた。薬草を摘んでいた。
「これは、センブリ。苦いけど、熱に効く」
そう言って宗旦に差し出したその手は、細く、指先に土がついていた。
「堺から来たのか。遠かったろう」
岩鶴丸はそう言って笑った。宗旦は、うなずいた。言葉が出なかった。だが、岩鶴丸はそれを責めなかった。
「父上は、焔硝のことばかりだ。火薬の土をどうするか、誰に売るか。私は、薬の方が好きだ。人を傷つけるより、癒す方がいい」
その言葉に、宗旦は驚いた。武家の子が、そんなことを言うとは思わなかった。
その日、二人は焔硝職人の小屋を訪れた。白川郷から来たという老職人が、土を混ぜ、糞を積み、水を撒いていた。
「火薬は、土から生まれる。だが、火になるまでには、時間がかかる。人も同じだ。急ぐと、爆ぜる」
岩鶴丸は黙って聞いていた。宗旦も、同じように。
帰り道、宗旦は父に聞いた。
「岩鶴丸さまは、殿様になるの?」
父は少し黙ってから言った。
「いずれはな。だが、殿様になるには、火薬よりも冷たい心が要る。あの子には、まだそれがない」
宗旦は、そうは思わなかった。岩鶴丸の目は、冷たくはなかった。だが、深かった。山のように。
堺に戻った後も、宗旦は岩鶴丸のことを思い出した。薬草の香り。焔硝の土。そして、あの言葉。
「癒す方がいい」
それから数年、宗旦は飛騨を何度か訪れた。だが、岩鶴丸とはなかなか会えなかった。戦の気配が濃くなり、道は閉ざされ、商いも難しくなった。
だが、宗旦は待った。山の向こうにいる、あの少年が、どんな殿様になるのかを。




