プロローグ
飛騨は、山である。
険しく、深く、時に人を拒むほどの峻厳さを持つ。だがその山々の奥には、火薬の命を育む焔硝の土があり、薬草が息づき、木々が静かに年輪を刻んでいる。戦国の世において、飛騨はただの辺境ではなかった。火薬の原料を産する地として、そして三国司家の一角・姉小路家が治める国として、武家も公家もその価値を見誤らなかった。
和泉宗旦は、堺の商家・和泉屋の跡取りである。父・宗悦は南蛮貿易にも通じ、火薬と薬草を扱うことで、堺の商人としての地歩を築いていた。宗旦は幼い頃から父に連れられ、飛騨へと幾度も旅をした。冬の峠は凍てつき、馬借の足も止まる。だが宗旦は言う。「飛騨は辛い。でも、信綱に会えるなら行く」。それが彼の旅の理由だった。
姉小路信綱。飛騨を治める姉小路頼綱の嫡男であり、宗旦とは同い年。幼い頃から従兄弟のように親しみ、桜洞城の庭で薬草を摘み、焔硝職人の話に耳を傾けた。信綱は才覚に富み、慈悲深く、民を思う心を持っていた。だがその才は、父・頼綱にとっては警戒すべきものだった。戦国の世において、才は時に刃となる。信綱はそれを知っていた。
宗旦は商人である。武士ではない。だが、彼の目は見ていた。飛騨の山々の奥に潜む力を。姉小路家が織田・武田・本願寺と渡り合うために、焔硝をどう使い、家格をどう保とうとしていたかを。そして、信綱がその中でどう生きようとしていたかを。
この物語は、宗旦の回想である。京都と飛騨を往来する商人として、彼は数年に一度しか信綱に会えなかった。だが、その短い時間の中に、確かに信綱は生きていた。言葉、表情、そして手紙。宗旦はそれらを胸に刻み、今、語り始める。
「飛騨の山は、今も変わらない。だが、あの人はもういない。――姉小路信綱。あれほどの才を持ちながら、父に殺された若き領主。私は、彼を語らずにはいられない」




