第2章孤独の共鳴
…まただ。
まどろむ意識の底で、灰塚レイは誰かの“声”を聞いていた。
それは男のものか女のものかすら曖昧で、まるで水中を伝ってくるかのように輪郭を欠いていた。言葉らしきものは聞こえる。けれど、それが何を意味するのかまではわからない。ただ、不思議な温度を帯びた“なにか”が胸の奥に残る。
(……夢?)
そう思ったときには、意識が急速に浮上していく感覚に囚われた。
目を覚ますと、窓の外からは眩しい朝日が差し込んでいた。レイは天井を見つめたまま、しばらく身動きできずにいた。心臓の鼓動がひどく早い。手を伸ばしてスマートフォンを手に取り、画面に表示された日付を見た瞬間、彼の身体が跳ね起きた。
「――えっ、今日って……二日後!?」
あのアバラン騒動から、気づけば丸二日が過ぎていた。
どうやら、一度も目を覚まさず眠り続けていたらしい。あの戦いの疲労が極限に達していたのか、それとも……。
「やば……」
制服に着替え、鞄を手にして家を飛び出す。道中、頭に残るあの曖昧な“声”の残響を必死に振り払うように。
今日は、何事もなかったように過ごさなければならない。
少なくとも――あの日、自分の手に現れた「剣」のことは、誰にも知られてはいけない。
「……おはよ、レイ」
昇降口で靴を履き替えていると、背後から声をかけられた。
振り返れば、いつも通りの遠野ユイの姿があった。けれど、その瞳の奥には微かな困惑と、言い出せない何かが潜んでいるように見えた。
「……ああ、おはよう、ユイ」
気まずさを悟られないように、レイは努めて普段通りの声を出す。
ユイは何も言わず、ただじっと彼を見つめていた。目が合ったまま、短い沈黙。
いつもならすぐに明るく話し始めるユイが、今日はやけに慎重だ。
「……大丈夫? ここ二日間、連絡も取れなかったし……もしかして、具合でも?」
「ああ、いや……ちょっと寝過ぎただけみたいで。スマホの充電も切れてたし」
「ふーん……そっか」
それ以上ユイは問い詰めてこなかった。けれど、目線の奥には確かに…疑問があった。
そして、気づいているのだ。自分に何かが起こったことを。
(……言えるわけない)
《剣》のことも、あの異常な光景も。
あの場で見た“現実”は、口に出した瞬間、きっと戻れないものになる。
レイはそれを拒んだ。無意識のうちに、心のどこかで。
「教室、行こっか」
ユイのその一言に救われたように、レイはうなずいた。
誰にも知られないように、あの夜の続きを胸に抱えたまま――。
昼休み。チャイムと同時に食堂へ向かおうとしたレイとユイの足を、唐突な校内放送が止めた。
『灰塚レイ、遠野ユイ。至急、生徒会室まで来てください。繰り返します――』
教室内がざわめく。名前を呼ばれた生徒たちに向けられる視線には、少なからず好奇心と不安が入り混じっていた。
「……生徒会室、だって」
「なんで私たちが?」
ユイは不安げにレイを見る。レイも同じ気持ちだった。
だが、その原因には心当たりがあった――あの日の出来事、アバランとの戦い。
「行こう。何かバレたってわけじゃないと思うけど……慎重に」
レイがそう言うと、ユイは小さくうなずいた。
生徒会室の前に立つと、中から聞こえてくるのは話し声ひとつしない静けさ。レイがノックをすると、すぐに扉が開いた。
「どうぞ」
開いた扉の向こうに立っていたのは、スレッジの制服――ではなく、生徒会の腕章を巻いた少女だった。
赤紫の瞳に冷静な光を湛えたその人物を、レイは知らなかった。
「……君たちね。入って」
部屋に通されると、そこにはもう一人見知った顔がいた。紅髪に蒼のスーツを纏い、どこか異国的な雰囲気を持つ少女――カシミラ・ラインレイン。
先日のアバラン事件のとき、スレッジの現場調査で顔を合わせた相手だ。
「来てくれてありがとう。紹介が遅れたわね。私は東雲アサギ、この学院の生徒会長よ」
レイは小さく首を傾げた。どこかで名前を聞いたような気はするが、顔には見覚えがない。
(……ああ。俺、学校行事ほとんどサボってたからか)
その隣で、ユイがこっそり囁く。
「……アサギ会長、成績は常にトップ、運動も完璧、対アバランの実地訓練にも参加してる人。あんまり表に出ないけど、あの人がこの学院の実質トップ」
そんな人物が、なぜ自分たちを呼んだのか。
アサギは二人をじっと見つめたまま、口を開いた。
「率直に聞くわ。――先日の、アバラン騒動のこと。何があったのか、詳しく教えてほしい」
空気が一変する。
ユイが視線を向けてきたが、レイはうなずいて答える。
「……急にアバランが出てきて、俺とユイが巻き込まれて……何とか逃げた、ってだけです。戦ってもいないし、何か特別なことが起きたわけでもない」
「そう」
アサギの声は変わらない。だが、その視線は揺れていた。
「カシミラから、あなたたちの生存は“偶然では説明できない”と聞いているわ」
カシミラが口元をわずかに動かす。
「私は確証が欲しいの。あの日、何が起きたのか」
レイは黙った。言えない。
あの剣のこと、エンゲージブレイドのこと――それを話すには、あまりにも情報が足りない。
「……さあ。俺にも、よく分からない」
「……そう」
アサギの目が一瞬だけ細められる。
だが、それ以上は何も聞かれなかった。
ただ、室内に重たい沈黙だけが流れていた――。
生徒会室を出た後、しばらく二人は口を開かなかった。
人気のない渡り廊下を歩きながら、ユイがようやくぽつりと呟く。
「……やっぱり、何か感づいてるよね。会長」
「……だろうな。あの目、嘘を見透かすような感じだった」
レイはぼんやりと、あの紫がかった瞳を思い返す。冷たいとも違う、熱を秘めた探るような視線。
まるで、自分たちの奥にある“何か”に、手を伸ばそうとしているかのようだった。
「私、会長って苦手。話してると、全部見抜かれてる気がするもん……」
「……たしかに、ただ者じゃないって感じはした」
レイはそう言いながら、カシミラが一歩も口を挟まなかったことを思い出す。
彼女もまた、あのとき《何か》を察していた。
それでも敢えて何も言わなかったのは、アサギ会長の出方を見ていたのかもしれない。
(……それにしても)
レイは一瞬、視線を落とす。
夢の中で聞いた声。未だに残るその残響は、今日になっても薄れず、心の奥底にへばりついている。
それが何かを告げようとしているのか、警告なのか、呼びかけなのか――分からない。
(俺は……何に巻き込まれてる?)
問いかけは、誰にも届かない。
そのとき、何かが微かに胸の内でざわめいた。
まるで、どこか遠くで風が吹いたような、言葉にならない違和感。
「……レイ?」
「……いや、なんでもない」
一歩、また一歩。
灰塚レイは、知らず知らずのうちに、何か大きなものの渦へと足を踏み入れていた。
その日の夜。
学院は深い静寂に包まれていた。
昼間の喧騒が嘘のように、寮棟の廊下には誰の足音も響かない。
外では風が吹き抜け、どこか遠くで機械の羽音が微かに聞こえる。
灰塚レイは、ベッドの上で目を開けていた。
眠れなかった。
夢を見ている気配すらない。代わりに、胸の奥にざわつくものがある。
「……まただ」
先ほどから、何度も心臓のあたりがチリチリと痛んだ。いや、正確には“疼く”という感覚。
理由は分からない。だが、それが何かに呼応しているのだけは確かだった。
――来る。
言葉ではない何かが、頭の奥でささやいた気がした。
レイは、無意識に上着を羽織り、静かに寮を抜け出した。
誰にも見つからないように、足音を消しながら裏門を抜け、学院の敷地外へ出る。
夜の風が肌を撫でる。
そして、遠くから響く――衝撃音。
「……やっぱりか」
重金属がぶつかり合うような爆音と共に、夜空の一角が光った。
地響きが伝ってくる。アバランが、また現れた。
音のする方へ向かい、建物の影に身を潜める。そこから見えたのは、地面を抉りながら進む巨大なアバランと、それに応戦するスレッジの部隊だった。
黒い戦闘服を着た数人の兵が、連携しながらアバランの動きを封じようとする。
だが、それ以上に――。
(……あれは)
その場に、明らかに異質な存在がいた。
長い黒髪。白に近い制服の上にマントを羽織り、ただ一人、アバランの前に立ちはだかる少女。
「東雲……アサギ?」
あの生徒会長が、前線にいた。
兵士たちが下がると、彼女は腰に下げていた刀を抜いた。
蒼い輝きが夜を裂く。
その瞬間、何かが“共鳴”した。
レイの胸が、また激しく疼く。《何か》がそこにあると、身体の奥で叫んでいた。
アサギは刀を構えたまま、一言も発さずにアバランへと駆け出す。
動きは流れるように滑らかで、一切の無駄がない。次の瞬間、蒼の閃光がアバランを切り裂いた。
巨大な影が軋みを上げ、地面に倒れ込む。
《イデアス》――あれが、彼女のエンゲージブレイド。
戦い慣れた様子、迷いのない動き、そして何より、その瞳に宿る強い意志。
(あれが……本物の“使い手”か)
レイはただ、影に隠れたままその姿を見つめていた。
自分とは違う。だが、同じ“力”を持つ者。
初めて見る、もう一人の“エッジホルダー”。
――孤独ではなかった。
その気づきが、微かにレイの胸の痛みを和らげた。
だが同時に、それはこれから始まる“現実”をも予感させていた。
闇夜に轟いた咆哮も、いつしか静寂へと還っていた。
燃え残るアバランの残骸を囲むように、スレッジ部隊が迅速に後処理に移る。誰もが冷静で、効率的だった。そこに一切の情はなく、あるのは“処理”だけ。
その光景を、灰塚レイは高架下の影からじっと見つめていた。
目の前で《イデアス》を振るい、アバランを切り伏せた少女――東雲アサギ。
生徒会長としての顔とは異なる、戦士としての姿。冷徹な刃、その在り方に、言葉も出ないほど圧倒されていた。
「……すげえ、な……」
思わず漏れた声は、夜風に溶けて消えた。
“自分だけじゃない”――それは確かな実感だった。
それは安心とも、焦燥ともつかない感情を、胸の奥に灯す。
レイは、そっとその場を後にした。
*
帰宅しても、部屋の空気は変わらない。
薄暗い天井をぼんやりと見つめながら、レイはベッドに身を投げた。
体は重い。けれど、心のどこかがざわついていた。
東雲アサギの強さ。そして、自分の中にある、まだ輪郭の曖昧な“何か”。
――それは夢の中でも続いていた。
また、あの声が聞こえる。
闇の中。ぼやけた景色の中。
今回ははっきりと、ひとつの言葉が届いた。
> 「見つけて、灰塚レイ」
――誰だ。
問いかける前に、意識は引き戻された。
目が覚めると、窓の外は薄明るく、朝焼けが街を照らし始めていた。
いつもの天井。けれど、何かが違って感じられる。
「……また、夢か」
ぼそりと呟き、レイは起き上がった。
夢の内容は曖昧だが、確かに“誰か”に呼ばれていた。それだけは強く胸に残っている。
呼ばれる理由も、意味も分からない。
だが、確実に“始まっている”という感覚だけは、レイをじわじわと包んでいた。
シャワーを浴びて制服に袖を通す頃には、すっかり朝は始まっていた。
何気なく鏡を見ると、自分の目が少し鋭くなっている気がした。
「気のせい……か?」
その変化が、外の出来事か、内の揺らぎによるものかは、まだ分からない。
けれど――
(……俺も、動かなくちゃならないのかもな)
そう思えたこと自体、レイにとっては大きな一歩だった。
ドアを開け、朝の光の中へと歩き出す。
新しい一日が、始まろうとしていた。
けれど、それはもう“昨日までと同じ日常”ではない。
それは、孤独な共鳴の始まりだった。
第2章完