一
藤の匂いが鼻孔をくすぐる。
狩笠をついと持ち上げて頭上を仰ぐと、若紫色の花房がしとどに垂れ下がっていた。芳しい匂いに誘われて、蝶や蜂たちが近くを浮遊している。
ついでにあたりを見渡すと、日に日に深まる新緑の中に、遅咲きの山桜の淡い色や木蓮の薄紅、山吹の鮮やかな黄色が眩しい。
咲き乱れる春の花やそこに集う小さき命、或いは同胞との出会いを求めて雉や鶯、ほおじろなどの山鳥たちが忙しなく飛び交い鳴き交わす。
弥生の下旬———春の盛りとばかりに、山は賑わいを見せていた。
「やっぱり、春の狩は最高ねー!」
あ、黄鶲!と近くの枝にとまる黄と黒の鳥を指差すと、供についてきていた鷹丸は「はぁ、そうですね」と視線を上げることすらせず相槌を打った。
若い牝鹿の四肢を縛りあげた担ぎ棒を下男たちに担がせ、一旦街道に戻るよう指示を出している。
ちぇっ。鷹丸め、ノリが悪いわね……。
高揚した気分に水を注されたようで、私は口角を下げる。が、ここは気を取り直して、白帝の首筋をポンポンっと叩いてその背に跨った。白帝は前脚を軽く鳴らして、準備は万端!とやる気を見せてくれる。
「よぉおしっ! それじゃもう一狩り行きますか!」
ここは琵琶湖の南、東山道から少し逸れた金勝山の麓。京の都から六角の領地——近江の観音寺城——に向かう、ちょうどその途上にあたる。
初めて足を踏み入れる狩場ではあるが、相性は悪くなさそうだ。狩を始めて一刻(二時間)にもならぬうちに、雉二羽と牝鹿一頭を仕留めた。久しぶりの狩に、心も身体も踊り出すくらい楽しい。
「なっ……ひ、姫様!? もう一狩りって、何をおっしゃってるんですか!? 獲物は充分に仕留められたでしょう。もう狩はお終いです!」
「はあ? 何言ってるのよ、本命がまだでしょうが」
「まさか……里人が言っていた大猪のことをおっしゃっているんですか!?」
「ええ、もちろん!」
「ダメダメダメダメダメ———っ! 絶対、駄目ですっっ!!」
鷹丸は裏返る声で、駄目です!を連発した。
「なんで駄目なのよ。この山の主級の大猪こそ、土産にはふさわしいじゃない」
頭を左右に振りすぎて烏帽子が微妙にずれている鷹丸に、私は抗議の声を上げる。鷹丸はよろよろと烏帽子を元の位置に整えながら、んんっと咳払いをしたのち慇懃に応えた。
「土産は他にちゃんと用意してございますし、先ほど仕留められた鹿も充分すぎる……というか、むしろご迷惑になりかねない土産でございましょう。お願いですから……後生ですからっ、もう街道に戻りましょう! そろそろ、清和様と義貴様も追いつかれる時分でございます」
見た目はすっかり一人前の武士になったが、鷹丸の小煩さは以前と変わらない。
私は大仰に溜息をついて、白帝の腹を軽く蹴った。白帝は心得たもので、街道ではなく深山へと足を向ける。
「さっ、沙羅姫様!?」
慌てて馬に跨り、それでも後を追いかけてくるあたりも相変わらずだ。
「ほんと臆病よね、鷹丸ってさ。街道沿いなんだし、何かあったらすぐに戻るからさ、お前は下男たちを追いかけて街道に戻ってていいわよ」
「そうしたいのは山々ですが……て、そんな訳にいかないのは姫様が一番ご存じでしょうに。沙羅姫様をお一人にするなんて……!」
あわわっ、殺される……絶対に殺されるっ———などと物騒なことを呟いて、鷹丸はぴたりと私の背後に付き従った。振り返ると、恨みがましい双眸にぶつかる。
「鷹丸……お前もちょっと合理的に考えてみなさいよ。いいこと? 街道でぼーっと清和や兄上を待っていても、こうして狩をしていても、時間は同じように過ぎるのよ。だったら、狩をしたほうが断然、時間の有効活用でしょう。おまけに、里人からこのあたりを荒らす大猪の話を仕入れたのは、まさしく天啓! 神様が私に狩を楽しみつつ、この辺りの里人の不安を払拭し、なおかつ目玉的土産を手に入れる機会を下さったのよ。一石二鳥ならぬ、一石三鳥よ」
「い、い、え! 街道で待っているほうが断然、合理的です。無駄なく御二方に合流して、無駄なく出発できます。天啓……? 神も仏も信じてないくせに、都合の良い時だけ神仏を持ち出すなど今に罰が降りますよ。とにかく、これは寄り道以外のなにものでもありません! さあ、今すぐ街道に戻りますよ!」
「うるさいわねぇ……私に指図するつもり? 鷹丸、お前はいったい誰の家臣よ!」
「義貴様ですよっっつ!!」
間髪入れずに切り返すに鷹丸に「はっ、そうだった!」と私も我に返る。
「本当にもう……人をなんだと思ってるんです? 勘違いされては困りますよ……」
ぶつぶつと愚痴をこぼし始めた鷹丸を尻目に、私は自分の立ち位置を思い返した。
鷹丸と二人でいると、ついつい<畠山の沙羅姫>に戻ってしまいがちだが、それはもう随分昔……懐かしいとすら云える過去になりつつあるのだ。
あの南山城の合戦から、既に三度目の春を迎えつつあった。
*
思えば、この三年の間にもいろんな事があった。
<山名の狂犬>を討ち滅ぼした翌日———長く世話になった六角に厚く礼を述べて、私と清和は京へ戻った。
討死したはずの清和が細川邸に戻り、文字通りみんな泣いて喜んだ。
父である清元氏はもちろん、曼殊院も弾正や和気の父子も家臣の宗賢らも。なかでも清和の帰還を一番激しく喜んだのが清国殿だった。
自分のせいで跡継ぎである兄を死なせたと苦しんでいた少年——実際に、兄の一人が亡くなった事実には変わりはないのだが——は、私が細川を去った後、兄が背負うはずだった細川を双肩に乗せられて、そのあまりの重責に喘ぐ日々を過ごしていた。久しぶりに見た清国殿の面差しは酷くやつれ、ありし日の溌剌とした美少年の姿とは異なっていた。
清和と私は、そんな清国殿を抱きしめて、これまでの苦しみや努力を労った。
その上で、細川ではこの一年あまり清国殿を後継者にすえた体制を進めていたので、生還を果たしたとはいえ、清和は自分には既に次期当主としての資格はないものと自認していた。なので、このまま清和は若隠居して清国殿を補佐する役割を負うのが相応しいと考えていたし、私も清和の決めたことなら文句は言わないつもりだった。
まぁ私としては、清和が<細川清和>として生きていてくれ、共に残りの人生を歩んでくれさえすれば、それ以上に求めるものはなかった。
清元氏も清和自身がそう望んでいるのなら……と隠居を許可しかけたのだが、それを断固として反対したのが清国殿だった。
次期当主の清国殿本人が、清和が元の地位に戻ることを強く希望して、涙ながらの訴えと、聞き入れられぬなら何をするかわからぬ危うさを漂わせた。結果———、清和は改めて細川家の嫡男としての立場に返り咲くことになった。
最終的にはこれが誰しもにとって一番収まりのいい決着だったとは理解できるが、私としては清国殿の新たな一面にヒヤリとさせられた。
常識的で育ちの良い公達の清国殿の、その背後に垣間見えた狂気に、清和や清成殿と血を分けた兄弟なのだと今更ながらに思い知らされる。入れ替わりをしていた兄達同様に、いざとなったら本当に何を仕出かすかわからない。次期当主を降りたことで、とりあえず順当な成長を見守れそうで、私は内心ほっと息を吐いたものだ。
既にこの世にはないが、清和がその存在を公にする事を切望した双子の弟———清成殿については、細川家の次男<細川清成>として大大的に一周忌の法要が執り行われた。菩提寺となっている嵯峨野の大覚寺には、細川一門や関係者が改めて参拝した。
その中には、延暦寺で出家した清了(音羽丸)殿の姿もあった。




