十
「………そうでしたか」
声だけはいつもと変わらぬよく通る低く冷ややかな声だ。感情を乗せることはしない。
定匡殿はそんな清和を正面から捉えて、感心したように漏らした。
「随分と冷静でらっしゃる。私なら自分を抜きにして自分の話をされるなど、そもそも気に食わないですがね。……おっと、話がそれましたね」
手元の盃を持ち上げて、定匡殿は唇を少し湿らせた。
「では、結論から申し上げよう。この約定は———無効、ですね」
「———えっ……?」
私は小さく呟いて、言を継ぐ定匡殿を凝視した。
「そもそもの前提が間違っていました。沙羅姫の夫君……清和殿は存命であった。のみならず、仇の一人に設定していた片桐高遠と同一人物。どこかでおかしいと思っていたのに、最後まで確認を怠った私の過失です。だから沙羅姫……貴女はこの約定に縛られることはない。もともと貴女が心身ともに弱っていたところに付け込んで交わした、ずるい約定でもあった」
にやり、とらしくない笑みを浮かべた定匡殿に、私はぶわっと涙が溢れそうになって慌てて俯いた。
あの日、私の凍てついた心を———苦しみを、この人は取り除こうとしてくれたに過ぎない。ずるいのは、定匡殿ではなく私だ。
「定匡殿っ、———ご、ごめ………」
「沙羅姫、黙りなさい。貴女はただ、自分の目的を明確に持ち、己が人生を、命をかけて全うしようとしただけです。あわよくば、その人生を私が掠め取ろうとした。貴女が私に謝る必要はない。それに———この約定がたとえ有効であったとしても、犬飼を斃したのは清和殿と貴女だし、片桐殿が清和殿本人である以上、私には討ちようがない。もとより果たせぬ約束だったのですよ。どうか———お気になさるな」
六角の観音寺城に乗り込んで以来、どんな時も定匡殿は大人過ぎる対応で、決して私を不安にさせない人だった。利害や計算を口にはするが、それ以上に相手の気持ちを汲んで大切にしてくれる人。
もしも、清和と出会っていなければ———。
それ以上の想像は、強く肩を抱かれて霧散した。
清和が私の泣き顔を隠すように、身を乗り出して私を抱きしめていた。頭上から、定匡殿に向けた声が降りてくる。
「本来であれば細川家の内内で決着をつけねばならぬこと。それに関わりのない六角殿を巻き込み、その上のご厚情………我ら夫婦ともに恐縮の極みです。この御礼はいずれ必ず———」
「礼ならば、すでにもらっていますよ」
いつもの穏やかな空気で、定匡殿が笑う気配がした。
私は急いで涙を拭って、清和の身体の陰から出た。
「充剛殿の本陣でも申し上げたが、六角の首脳陣は危うく命を落としかねない状況をあなた方に救われた。これ以上の礼がありましょうや」
そうして定匡殿は話し合いの最後にふさわしい、朗らかな笑顔で私たちを包んだ。
「この時代……このような形でしかお二人には会えなかったのかもしれない。だが、このような形でもお会い出来たことを、私はこの上ない僥倖に思っています。そして、いつかこの東西の大乱が終わりを迎えたら、是非またお二人にお会いしたい。敵味方は関係なく———生涯の友として」
私も清和も定匡殿の言葉を、深く胸に刻んだ。
その日が来るのが、一日でも早ければいいと願いながら。
*
気づくと、夜のしじまに唯美な笛の音が響いていた。
清和も気づいたのか、刀身から視線を上げて耳を澄ませている。
半年前に観音寺城で聞いたのと同じ、定匡殿の笛の音だった。六角での始まりと終わりを象徴するようで、私は感慨深くその音色にこの半年の日々を重ねた。
私の恋を———諦めきれない想いを叶えるために、清成殿の死と清和の生を正しい位置に戻すために、そして諦められない想いを断ち切るために、闘い続けた日々だった。
闘わねばならない相手が刻々と変わる、過酷で残酷な日々でもあった。けれど、私はそれを乗り越えることが出来た。そして、この先の日々にも困難はあるのだろう。でも、清和と一緒だから乗り越えられる、そして楽しめるだろう。
笛の音を邪魔しないようにか、控えめに太刀が鞘におさまる音がした。
いつの間にか天王丸の検分を終えたらしい。清和がすっと天王丸を私に差し出した。
「あなたが持ってなくていいの? 清成殿の形見でしょ?」
「あいつがお前に残したものだ。俺のものにしたら枕元に立たれそうだ」
清成殿は決してそんなことしないとわかっていたが、大人しく肩をすくめて太刀を受け取った。
枕元に立つか否かはともかく、清成殿の魂魄についてはどうしても確かめておきたいことがあったので、太刀を手元に置いて、あらためて清和に向き合った。
「ねぇ。清成殿の魂魄……というか清成殿の霊は今もいるの? たとえば、この近くに」
昼間、清成殿の霊の話をした時に一緒に訊きたかった事だが、急を要することではなかったので後回しにした。でも、やっぱり気になって仕方ない。
清和は今度は自身の太刀——竜王丸——を検分するつもりか、刀身を鞘から抜くのを中断して、まじまじと私を見た。
「何よ、清成殿が枕元に云々って、そっちが先に言ったんだからね」
「いや……それはそうだが」
「いるの? いないの?」
「……いつも居るわけじゃない。というか、現れることは本当に稀だ。俺かお前の危機にしか現れない。現れる前には予兆もある」
へぇぇ……予兆なんてあるんだ、と若干わくわくする私がいる。
「じゃあ、もし今度、清成殿が現れそうになったら、私にも知らせてよ。清成殿に会わせて欲しいの」
前のめりになった私に、清和は少し考え込むように口を閉ざした。抜きかけていた竜王丸を鞘に戻して、自分の膝に乗せる。
「……何よ、私と清成殿を会わせたくないの? ———あらあら? もしかして、嫉妬かしら?」
「はっ。まさか」
そんなわけあるかと、言外に軽くあしらった上で、清和は自信満々に私を見下ろす。
「お前が<細川清和>以外に執着するとは微塵も思ってない。むしろ、そうであればどれほどよかったか………」
むっ! 確かにそうですけど!
相変わらずの傲慢さにわなわなと肩を震わせていると、清和は微かな吐息まじりで言った。
「返答に窮したのは、なんというか———この先、清成が現れる気がしないからだ」
それって……。
「清成殿が、成仏したということ?」
「わからないが、少なくともあいつの執着は今日で解けたと思う」
「———あなたが犬飼を討ったから?」
瞼の内に、ほんの刹那、犬飼の最期が蘇る。
だが、清和は軽く頭を振って、それを否定した。
「俺が……俺たちが清成の仇を討ったことは事実だが、ただ魂魄だけになったあいつから、それについての怨みを聞いたことはない。———あいつはいつでも俺と沙羅の身を案じるばかりだった。なかでも沙羅の幸せ……願いを叶えることこそが清成の拘りだったのかもしれない。それが果たされた今———もう清成は姿をあらわさないような予感がする」
私の願い———清和に想いが届くこと。
そして、清和が細川に戻ること。
確かに、それは果たされた。
「それじゃあ……もう清成殿とは会えないの? 清和はそれでいいの? たとえ魂魄だけでも、そばにいてほしくはないの?」
思わず知らず、私は手元の天王丸を握りしめていた。それに視線を落とした清和は、やがて深く頷いた。
「清成には次の世で、今度こそ自身の幸福を手にしてほしい。それに、俺にはもともとこの太刀が———竜王丸の名を持つ太刀がある。これまでも………これからも」
私たちそれぞれ二人の手に握られた、一対となる太刀。
清成殿の魂魄がこの世を去ったとしても、私たちの繋がりが完全になくなるわけではない。清和の中はもちろん、私の中からも清成殿の記憶は消えない。それらを、この黒漆の太刀が補強してくれるのであれば、なおのこと。
「ふ……ふふ」
不意に、あまりの「らしさ」に私は笑ってしまう。
怪訝な清和に、笑いを殺して説明してやる。
「去年の春、あの狩場で出会ったときから、今宵このときまで……いつもあなたと二人のときには弓やら太刀があるのよね」
普通、夫婦水入らずの場に得物はないでしょうよ。
「………では普通の姫らしく、今日よりは太刀を手放すか?」
皮肉気に口元を歪める清和に、私はさらりと返す。
「あなたが望むなら、それでもいいわよ」
「!?」
肩透かしをくらったように、あからさまに面白くないという表情を浮かべた清和。
その憮然とした清和を見定めて、私は相好を崩した。
「———なぁんて、この沙羅姫が言うと思う?」
私は自分の欲望にのみ、忠実よ。
決して、誰かに阿ったりしない。
不敵に笑んで胸を張る私に、清和もくっと思わず噴出した。
「だろうな」
「それにね、太刀は二人をつなぐものなのだと思うの。だから、手放すわけにはいかないわ」
だめかしら? とちょっと首をかしげる私に、清和は曇りのない笑顔で応じた。
「構わん。いまさら人並みの妻なら要らない。………もとより、お前がそうだったなら、今日という日はなかっただろうしな」
現実に私という妻がまったく人並みではなかったから、清和は細川に戻ることになった。
「気が済むまで、これからも太刀を振り回すがいい。———ただし、俺の目の届く範囲にしてくれ」
「なにそれ、私を信用してないの?」
清和はいつもの皮肉を取り戻して、釘を刺すことを忘れない。
「信頼と安心は別だ。沙羅に背中を預けることは出来る。それだけの信頼はある………が、目を離すと何をしでかすかわからないのも事実だろう。だからこそ、俺は気が休まらない」
何せ、じゃじゃ馬だからな……との呟きは聞こえないつもりだったのか。
あいにく、私の地獄耳は聞き漏らさない。
「じゃじゃ馬ですって!?」
いつもの負けん気を発揮したところで、清和に腕を取られてぐいっと引き起こされた。
そのまま不意打ちのように唇を重ねられる。
柔らかくて熱を持ったその感触は、市辺城が炎上した夜と同じ———だが、今宵はあの夜とは違った。互いに熱い吐息をのせて、深いくちづけを交わす。
呼吸が苦しくなるくらいに求めあって、やがて私は清和を引き離した。
「ちょっと! 窒息させるつもり!?」
「じゃじゃ馬を黙らせるには、これくらいしないとな」
「そんなことで私が……」
ほてる顔を見られたくなくて、ぷいっと顔を背けると、顎を掴まれた。強引に清和の冷ややかな瞳にさらされる。
「お前が自由を好み、人の思う通りにならぬことはわかっている。だが」
わかっているだろうと……とその瞳が囁いていた。
「沙羅……お前は俺のものだ」
知っている……私が切望した。そして———。
「清和……あなたは私のもの」
そらさずに見つめかえした瞳が、同時に笑った。
そのまま、簀縁へと誘われる。
「今宵は月が綺麗だ」
東の空に、ちょうど姿を見せたばかりの更待月が浮かんでいた。満月から少し欠けて、ふんわりと笑っているように見える。
清和の隣に身を置いて、私は月を見上げた。
いつしか、笛の音は止んでいる。
虫の音にはまだ早く、完全な静寂が辺りを支配するなか、清和がそっと指を差した。
更待月の下———東の庭には満開を迎えた桜が微かな夜風にそよいでいた。柔らかな月光に、時折はらりはらりと桜花が舞う。
吹雪でもなく、嵐でもなく———ただ静かに散る桜を心穏やかに眺める。
一瞬、耳朶に琵琶の音が、ビィンと響いた。
それは別れを告げる、清成殿の最後の挨拶のようだった———きっと、私にしか聴こえない。
清成殿の魂魄が、どうか安らかであるようにと願う。
清和の腕に抱かれた私はそっと瞼を閉じた。
もう———琵琶の音は聴こえなかった。




