八
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定匡殿の本陣に戻り、すべてが落ち着いたのは、宵闇が深更の闇へと移ろう頃だった。
私の使っていた部屋に清和と引き揚げると、すでに隣の間には二人分の夜具が用意されていた。
私はそれを意識の外へと追いやりながら、几帳の陰で血や汗にまみれた戦装束をほどき、身体を拭ってさっぱりと身奇麗にして、新しい小袖や打掛に袖を通した。同様に、清和も侍女にかしずかれ六角が用意してくれた衣装に改めたようだ。
遅くまで私たちの身の回りの世話をしくれた侍女——地元の娘——を見送ると、周囲に人の気配が絶えた。
私と清和はあらためて二人きりになり、ほっとするような、或いは互いを意識して緊張するような……何ともいえない微妙な空気に包まれた。
「その……明日は、京の細川邸に戻るのよね?」
部屋の片隅に設えられた文机の前に座る清和に振り返って、私は幾分大きな声で訊ねた。
「ああ……。お前が着替えているあいだに一筆書いて父上に送った。今宵の細川邸は大騒ぎだろう。———二転三転する事態に、曼殊院さまはもう卒倒しているかもしれないな」
その姿を想像したのか、清和は忍び笑いを漏らす。
………って、いや本当に笑いごとじゃないから!
この先に、どれだけ面倒なことが待ち構えていることか。
文句を言ってやりたくなったが、それは飲み込んだ。
二人になって早々、喧嘩はしたくない。というか、六角のお膝元で私達の大立ち回りを見せるわけにはいかない。
咳払いを一つして、私は部屋の中程に灯された燭台の近くに腰を下ろした。
「……じゃあ、そろそろ休んだほうがよくない?」
「そうだな。……まあ色々な意味でお互い疲れているのは確かだな。———俺のことは気にせず、横になってかまわないぞ」
気にしないわけ、ないでしょうが!とつっこみを入れたかったが、ぐっと堪えた。というのも、清和がひょいと立ち上がり、すぐ隣に移動してきたからだ。
心臓がどきりと跳ね上がる。
だが、清和はそんな私の気持ちを知ってかしらずか、ついと私の手元を指した。
「……な、なに?」
「それをこちらに」
それ? と手元に目をやる。あるのは、黒漆の太刀———天王丸だ。
こんな時にも太刀を傍に置いている私もどうかと思うけれど、もはや習慣のようなものだから仕方ない。それに、ここはまだ戦陣だ。
清和が手を差し出すので、仕方なく私は天王丸を清和に手渡した。
それで清和が何を始めたかというと、明かりの傍でおもむろに太刀の手入れを始めたのだ。
清成殿の太刀———いまや私の太刀でもある天王丸を鞘から抜いて検分している。
その姿を見ていて、何やら私だけが一人相撲しているようで、いよいよ馬鹿らしくなってきた。ついでに、ここまでの幕引きを思い返し、どっと疲れが押し寄せてきた。本当にもう横になろうかと思う。
犬飼を討ったあと———充剛の本陣での後始末と定匡殿との対談は、それはもう骨を折るものだった。
仇を討って、はい、めでたしめでたし……で終われるのは昔語りだけ。事後の諸々はもちろん不可避であるとわかっていたし、特に定匡殿との話し合いは私たちの今後を左右するものであったから、誠心誠意向き合うつもりがあった。
ただ、とにかく疲れた。
思えば、疲れを助長させたのは、最初から予感のあった充剛の駄目っぷりによるところが大きい。本当に心底笑えない程度だった。
*
綱興が<山名の狂犬>だったと分かり、そして青砥がその配下であったと充剛に理解させるまでに、まず一悶着あった。
洗脳でもされていたのか、充剛は自らの行いこそが正義であり、頑ななまでに己の非を認めようとしない。
埒があかず、遊佐や黄瀬といった古参の家臣たちを呼んで、これまでのことを一緒に丹念に振り返って、ようよう充剛の心を平常に持っていくと、今度は癇癪や怯え、言い訳の行列が続き、状況の整理に入るまでに小半刻を要した。
最終的に、まさに綱興に手……というか喉元を噛まれて、充剛の立場が危篤状態と理解するまでさらに四半刻。
その間にも定匡殿が定親殿らに命じて、姿を眩ませた青砥の行方を追わせていたが、青砥は見事なまでに雲散霧消していた。どの程度の危険回避を用意していたのか知れないが、天晴れなまでの雲隠れだった。
奴が戦場で見せた<心眼>には、ここまでが見えていたとでもいうのだろうか。
まさかね……と独白して、私はとりあえず定匡殿と充剛の同盟関係の行方を見守ることに専念した。
ついには、自らが同盟相手を裏切って暗殺まで仕掛けたという事実に、顔色を失くし頭を垂れて黙り込んだ充剛だったが、定匡殿は驚くほどの寛容さでその充剛を許した。
今回の一件はなかった事———として、充剛しいては西軍畠山の責任を不問にしたのだ。
譲歩が過ぎる!
私はもちろん、あの清和もその対応には度肝を抜かれたらしい。有り得ないと眉を潜めて……だが所詮は私も清和も部外者だ。口出しできることではない。
顔を上げた充剛は魂が抜けたように、茫然と人の良い定匡殿を見つめた。馬鹿殿の処理能力はとうの昔に限界を超えている。
対する定匡殿は、やはりどこまでも計算高かった。
面目を失った充剛に対してはひどく鷹揚な定匡殿だったが、この南山城の合戦の行く方については峻厳な態度を崩さなかった。
今日の西軍勝利を区切りに、定匡殿は長く続いた南山城の戦を終わらせるつもりだと宣言した。
そのためにも、近く東軍と和議の機会を設けることを充剛に承知させた。それは図らずも、充剛が世迷言として放った言葉と重なるが………状況が理解できる者ならば誰しも、早晩着く決着であったと頷くことだろう。
ただ、勘違いはして欲しくない———と定匡殿は、私や充剛を前に、本陣に義貴兄様のところの新右衛門が訪ねてきた理由を、律儀に話してくれた。
実際のところ、定匡殿は<狂犬>と<影武者・片桐>の両方の情報を集めていて、片桐については義貴兄様とも関係のある人物で、沙羅姫とは亡夫の影武者以上に何か特別な因縁がある……ととらえていたという。
狂犬については思うように情報は集まらなかったが、充剛のかなり近くにいる何者かではないかと予想をつけて、黒田の推挙者などの件もあり、国人衆の側から当たりをつけようと目論んでいたそうだ。
今回は清和の命で動いていた鷹丸が一足早く真実に辿り着いたが、定匡殿もいずれ同じところに辿り着いたに違いない。今更ながらに、定匡殿の有能さを知らされる。
「本日未明に畠山義貴殿のもとから斎藤新右衛門殿が訪ねてきたのは、かねてより義貴殿に、妹君であられる沙羅姫の今後の進退含め深く関わりがあるので、片桐高遠という武将について可能な限りの情報をよこしてほしい、その上での相談があると連絡をしていた為です。義貴殿の代理として新右衛門殿には事情を話したが、その答えは『関わり無用』の一言でした。流石にそれでは困ると食い下がったところ『いずれ片がつくので、沙羅姫と片桐のことには手を出さないでいただきたい。他者が関わるべきではない、これは当事者二人の問題だ———と義貴様からの伝言でございます』と言われてね。それで私は二人には敵同士ではない<何か特別なつながり>があるのだと何となく悟ってしまった。私としては『戦場にて片桐に遭遇したら首を挙げよ』と命を出していたので、少々困ったことになったとも思ったが………」
そこまで話して、定匡殿は落日の残照を背にした清和へと眩しそうに眼を向けた。
「貴殿は……何者か?」
問われて清和は貴公子然と礼をとった。
涼やかな瞳を伏せて、いつもの底冷えのする声で応じる。
「ご挨拶が遅くなりました。六角殿には初めてお目にかかります———細川清元の嫡男、細川清和でございます。そして………これまでの潜伏中は、片桐高遠と名乗っていた東軍の武将でもあります」
ここまでの非礼をお許しいただきたい、と詫びる清和に定匡殿は小さく頷いた。
「………なるほど」
しみじみと清和を見つめて、それから私へと視線を転じた。
「沙羅姫が何を思って片桐殿———清和殿を討つことを願われたのかは、私の預かり知るところではありませんし、姫の兄上がおっしゃるようにそれはお二人だけの問題なのでしょう。仔細を問うような野暮な真似はいたしますまい。まずは、不幸な事故が起こらずに済んでよかったと安堵しています」
私はすぐには返す言葉を見つけられない。
言わなければならないことはたくさんあるのに、あまりに変わらない人の良い定匡殿を前に胸がつまる。
定親殿や斉明らの控えめな視線も感じて、私は一つ大きく息を吸う。
吐き出すと同時に、言葉も続いた。
「———今日、貴方が私を出陣させてくれたから、私は……私たちは仇を討てたし、片桐高遠は細川清和に戻ることができた。本当に………本当に、定匡殿と六角の皆に感謝しています」
定匡殿にも六角の人々にも、今生では返しきれない程の恩を感じている。
「感謝というなら、我らの方こそでしょう」
定匡殿は軽く肩をすくめて、定親殿たちに同意を求めた。
定親殿は低く頭を下げる。
「賢しくも沙羅姫にはこれは罠ゆえ此方には来るなと文を残したが、もしその通りに姫が忠告を守っていたなら、今の我らはなかったやもしれぬ。我らの命を救ってくれた姫と細川殿には、こちらこそ感謝申し上げる。———定匡を守ると約束しておきながら、敵に囲まれた厳しい状況に陥った上、我らは林綱興殿が犬飼その人であるとは突き止めておらなんだ。たとえうまく青砥の包囲を突破できたところで、その先がどうなっていたか………。よくぞ、今日この時に正体を突き止めたものだ」
天才的な策士の定親殿に、こんな風に褒められるとは………。
ちらりと隣に立つ清和に目を向けると、意外なことにうっすらと笑んでいた。
私の再婚相手にと自分が保証していた六角氏に感謝されて、なんだか悦に入っているようで若干腹立たしい。
んんっ……と咳払いして、私は犬飼本人を目の前に披露したよりも詳しい、狂犬の軌跡を伝えた。
それは鷹丸と泰之が苦労して入手した情報なのだが、ここでは割愛しておく。
「———結局のところ、犬飼が何を目指していたのか、私には理解できかねるのですが………沙羅姫や清和殿は腑に落ちますか?」
完全に日が沈み逢魔が刻を迎えた本丸に、次々と篝火が配置されていく。
充剛の家臣たちや斉明らが着実に現場の後始末を進めているのを傍目に、犬飼の仔細を聴き終えた定匡殿が訊ねた。
腕を組んで話を聞いていた清和は、当たり前のように黙って私を見下ろした。
私に答えろと?
確かに、青砥と戦場で<狂犬>の話をしたけれど………。




