七
鮮やかすぎる形成逆転。
「猿芝居はここまでで結構よ、青砥。……たしかに、おもしろい見世物だったわね」
私は綱興を睨みつけたまま、声だけを青砥に投じた。
「沙羅姫様、状況がわかって……」
掠れる声で言いかける綱興に、
「余計なことを話すと、いますぐ喉を貫くわよ」
私はそれが脅しではないと分からせるために、躊躇なく切っ先を肌に食い込ませた。綱興の喉を血が一筋、流れ落ちる。さらに、挑発ともとれる大声を放った。
「ああ、青砥! 充剛を殺したいならやっちゃいなさいよ! わが従兄妹ながらほとほと愛想が尽きたわ。愚かな上、人望もなく家臣にも信用されていない主君など、害あって益なし。充剛こそ、あんたの言っていた、生かしとくより死んでこそ役に立つ駒ってやつよね!」
ふっと笑うような気配が、青砥のいるあたりからした。だが、返答の声も行動もない。
そりゃそうだろう。この状況では、流石の青砥も下手に動けまい。
私は視線を蒼ざめた綱興に向けたまま、少しだけ微笑んでやった。
「………もともと、そのつもりでしょ? ね、綱興殿……いえ—————<山名の狂犬>犬飼重信殿」
敵味方含めて、その名の意味を知る者だけがハッと息をのみ目を見張った。静かな池に波紋が広がる如く、剣呑な空気が拡散する。
綱興は蒼ざめてもなお、どこか人好きのする爽やかな印象のまま、ただ困り顔で呟いた。
「これはまた異なことを……」
切っ先を顎につけられ身を仰け反らす綱興の姿に、事情を知らぬ者は『なんと無体な真似を』と同情するかもしれない。
しかし、私は数刻前に手にした真実とこれまでの綱興とを照合させて、確かにそこに揺るぎのない一致を見出していた。
「猿芝居はもう充分だ、と言ったはずよ」
「沙羅姫様……姫様を人質にしようとした私の浅慮にお怒りなのは重々承知。されど、充剛様の命が懸かったこの状況で一体何を? 犬飼某とは何のことですか?」
「………意外と往生際が悪いのね。私の知っている貴方らしくないわ」
ゆるゆると頭を振って「残念だ」と綱興———否、犬飼に告げる。
ついでに、溜息一つの価値もない愚かな従兄妹を思い出して、少しばかり説明してやる気になった。
「阿呆面のまま状況を理解できてない貴方の現在の主君・充剛のためにもちょっとだけ話してやるわ。そもそも私———畠山の沙羅姫がなぜ、この戦に参加しているのか。
細川と山名の丹波合戦で私の夫を騙し討ちし、山名軍を出奔した<狂犬>犬飼が名前と正体を偽ってこの南山城の戦場に潜伏していることは、比較的早い段階で掴んでいたの。だけど、その目的も、東軍西軍どちらに潜んでいるのかもわからない……引き当てる確率は五分五分。だから私は自身が自由に動ける西軍を選んだ。そして、夫の復讐のために犬飼を探していた。
賢い狂犬はなかなか尻尾をつかませなかったけれど、次第に充剛の近くにいると確信するようにはなったわ。それでも実際、あなたは面の皮が厚すぎて、すっかり騙された。最初に出自をさらりと教えてくれたのにも、してやられたわ。林綱興は山城の国人衆の三男で、これまでの戦には関わりのない人物だと思い込んでいたもの。
でも、ある人が丹念に調べさせていたの………犬飼の出自を。ずっと山名に縁の者だろうと思っていたけれど、何度も養い親や婿として入った家をかえていて、ようやく本来の出自はこの山城にあると判明した。それも———長い間、行方が知れなかった狛家の分家筋、林家の三男が、先年の夏に突如戻ってきて、狛家の口利きで充剛の軍に入っているというじゃない。
実像が想像と違いすぎて、つなげるには苦労したわ。でも、いったんつながれば、すべてすんなりと整合性が取れた。
そして、とどめはこの馬鹿げた暗殺劇。
実のところ、綱興が<狂犬>犬飼だと確信したのは、この舞台の幕から外れていた一点に尽きるわ。賢い狂犬ならば、必ず安全な場所にいる。矢面には立たないと思っていた。そして、実際に綱興はこの愚かしい暗殺劇の幕外にいた。幕の内を腹心の青砥にまかせて」
私は口を閉じて、犬飼の反応を伺う。
しかし、犬飼は綱興の仮面を被ったまま、頑として喋る気配を見せない。
幾許かの沈黙の後、遠慮がちな低い声が掛かった。定親殿だった。
「林殿が山名の犬飼重信だとして、何故、今日この時点で六角に対する謀叛を仕掛けたのか……些か理解に苦しむ」
もちろん、その問いに対しても犬飼は応えない。ただその眼が、これまでにない挑戦的な光を宿して私を見ていたので、代わって応えてやることにした。
「おそらく………本当に命を狙われていたのは、充剛かと」
定匡殿を暗殺するのは、条件次第……条件が良ければ暗殺した。でも現状できていない。
この舞台で、言い逃れできない愚かな主役は充剛なのだ。
「充剛は愚かな猜疑心で何の瑕疵もない同盟相手を暗殺しようとした乱心者。その主君を身を挺してとめるのは出来た家臣の役目。その役目の上で、不幸な事故がおこり充剛が白刃のもとに倒れても、みな仕方ないと思う。だって、充剛は自分の家臣たちに信用されてないもの。逆に、充剛の軍で人心を掌握していたのは、忠臣の仮面をかぶった綱興。人は綱興に後を任せようというでしょう」
罷り間違って定匡殿の暗殺に成功していたなら、数日程度は充剛も天下を取った気分でいられたかもしれない。でも当然、その先に充剛が殺される算段に変わりはない。理由などいくらでも、あとからつければいい。六角側に報復されたとかなんとでもなる。
結局、たどりつくところは同じだ。
犬飼が充剛の西軍を手に入れる。ついでに、この場合は六角も手に入れられたかも。そして、今日の戦で青砥が忠憲殿を討ったことで南山城の合戦のさらなる泥沼化は避けられず、和議には至る事なく犬飼たちの支配が増える可能性が出てくる。
—————ここまでが、私が清和たちと考えた犬飼の筋書きだ。
ゴゥウウン………
隣の極楽寺から猿の刻(午後四時)を告げる鐘の音が厳かに響き渡る。まるで引導のようだ。
その鐘の音を打ち消すように、
「これは、詰まれましたな……」
ようよう犬飼が口を開いた。
「女は執念深いというが、貴女ほどそれを体現してみせてくれた人はいない」
とても静かな口調で、感情を読み取ることが難しい。観念しているのか、それともまだ腹に一物抱えているのか。
「ですが沙羅姫………どれだけ私を憎もうと、たとえ私を討ち果たそうとも、残念ながら貴女の夫はもう帰ってこない。残念ながら」
犬飼の口元がくっと歪んだ。
嗤う犬飼の気迫のように、陣幕がぶわりとざわめき、大勢が飛び込んでくる気配がした。充剛の背後で、青砥の声だけが大きく響く。
「六角の裏切りだっ! 殿と林殿をお守りしろっつ!!」
私はその声に振り返りなどしない。犬飼が嗤ったときから、冷静に次の行動を読む。
しかし、陣幕から飛びだしてきた足軽の一人が長槍を突き出したのを、つい反射的に太刀で払ってしまった。その一瞬、犬飼が自由になる。
犬飼は素早く腰刀を抜き、再び形勢逆転とばかりに私の喉元を狙った。
まずい!
迫る白刃を避けようとするが、体勢を立て直せない。
そんな私の目の前を影がよぎったと思った刹那、勝負はついていた。
犬飼の右腕が、宙を舞っていた。血飛沫であたりを朱に染めながら、ぼとりと視界の端に落ちる。
体勢を崩した私を右腕で抱きとめた清和は、左手に竜王丸を握っていた。その切っ先は犬飼の心臓辺りを貫いている。
「貴様を仕留めるのは俺だ」
同じように先の先を読んでいた清和は、犬飼が「詰まれた」と言ったときからその動きを警戒していた。
仕掛けがあると判断し、幕が動いた刹那私たちへと接近し、私に突きつけられた犬飼の右手を上段から一気に叩き斬り、返す刀で犬飼の左胸を突いた。
犬飼の双眸はまだ強い輝きを宿したまま、依然として私を捕らえていた。私もまた、犬飼から視線を逸らすことができなかった。
執拗に絡みつく互いの視線を、先に解いたのは犬飼だった。
ふっと思い出したように視線だけを下ろして、自分の胸に刺さる凶刃を見つめた。
私は清和の腕の中で体勢を立て直し、皮肉に笑う。
「残念なのは、あなたね。私の夫はここにいるわ。—————今この瞬間、帰ってきたのよ。細川に」
首をかすかに動かし、清和の顔をまじまじと不思議そうに見た犬飼は、次の一瞬目を見張った。
まさか、と唇だけが動く。
「貴様が殺したのは、俺の影武者をしていた双子の弟———清成だ。清成の仇、この場にてこの細川清和がとらせてもらったぞ!」
低く冴え冴えとした声が、滲み入るようにあたりに谺した。
騒然としていた陣中が、定匡殿たちの「静まれ!」という怒声で一気に鎮圧される。
「…………」
衆目が集まるなか、犬飼は口を開き何かを言いかけるが、声に代わって血があふれて聞きとることはできなかった。
もっと壮絶な死に顔をするかと思ったが、犬飼はどこか自嘲的ともいえるような苦い笑み、あるいは少し苦しそうな表情を残して、息を引き取った。
—————これで、終わり………?
これで、すべて終わったの………?
酷くぼんやりとするなか、清和が私の体からするりと腕を離した。
見つめる先で、清和は太刀の柄に右手を添えて両手で握ると、ぐっと刀身を引き抜いた。ずるりと犬飼の体が崩れ落ちる。
誰かが「青砥はどうした!? いないぞ!」と騒ぐ声や、充剛の何を言っているか判らない癇癪を帯びた喚き声、定匡殿のあたりを仕切る冷静な声が次々と耳の中に入ってきたが、私はまったく動く気になれなかった。
ただその場に立ち尽くして、地に臥した狂犬の抜け殻を見つめ続けた。
あとのことなど、今は考えたくない。それは誰かに任せていいか、というなげやりな思いが去来する。
それよりも、酷く複雑な思いが胸を詰まらせていた。
目的を達成した。清成殿の仇を討った。そして清和は<細川清和>となって私の元に戻ってきた。
けれど………。
犬飼の言葉どおり、死んだ者は———清成殿はもう戻ってこない。時間も戻らない。
今日までに、むやみに血が流れた。私も清和も、あたらその手を血に染めた。
こんな私達が果たして、これから平穏な日常に戻れるのだろうか。……幸せになれるのだろうか?
その不安を読んだように、清和の腕が再び私をつかまえた。強く抱き寄せられて、ようやく犬飼の骸から目を背けることができた。
顔を上げると、清和の冷ややかな瞳が私を見下ろしていた。
時に私を怯えさせる、けれど、逸らすことが出来ない魅惑的な瞳。
出会いは最悪———なのに、この男のために人生を、全てを捨ててもいいと思った。
そして、この人と一緒に生きたいと願った。
大丈夫だ。私は一人じゃない。
ここから新たに私の人生——独りではない二人の人生——が始まる。
今はまた、春。
もう一度———この春から、始まるのだ。
私は頷いて、体に活をいれた。
まだまだ、片付けなければならないことが残っている。




